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名寄岩とは何か?

 名寄岩(なよろいわ)とは何か?実は、この答えは単純ではない。最初に名寄岩の名を聞いた時、何か巨石や奇石のたぐいであると想像した。手塩川と名寄川の合流点にあり二つの川を仕切る巨岩・巨石。または、山肌が巨大な一枚岩で、その岩に漢詩か何かが彫り込んであり、その下に祠があるような名所・名跡。はたまた、巨石が生き物の形に似ており、人々を困らす生き物を、祈りで岩にしたとかなんとかの伝承がある奇岩・奇石、そんな自然物が、名寄岩であろうと想像した。名寄の「見晴山」(名寄市街から約4kmの岩山)のような景観をイメージした。
 しかし、名寄岩は、昭和前期に活躍した相撲取りの四股名であるという。略歴を記せば「名寄岩 熊五郎 なよろいわ くまごろう:本名 岩壁静夫 大正3年(1914)〜昭和46年(1971) 北海道小樽市生まれ。3歳で北海道名寄市に移り住む。昭和7年立浪部屋入門、立浪部屋で双葉山、羽黒山とともに「立浪三羽烏」と呼ばれた。昭和18年春場所大関昇進、しかし三場所で陥落、終戦をはさんで昭和21年秋場所大関返り咲きをはたした力士、引退後、年寄春日山を襲名し、後進の指導にあたった。」となるだろうか。

 名寄岩の名が、力士の名前であることを知った後も、名寄市出身の力士が、自分の故郷名寄の自然物の名から四股名をとったのではないかと思っていた。しかし、「名寄岩」の名は、名寄岩自身が、出身地の「名寄」と本名の姓「岩壁」の「岩」をとって創った四股名であるという。それも、立浪親方が用意した四股名を頑として断り、新弟子であった名寄岩が自分でつけた四股名であるという。相撲界で親方といえば、父親も同然、それも現代ではなく、戦前の相撲界で、新弟子(入門時、名寄岩は針灸の勉強をするために上京しており、何らアマチュアスポーツ選手としての実績を持っていたわけではなかった。入門のきっかけは元力士のすすめであった)が、親方の言うことに首を縦に振らないのである。このことで、名寄岩は兄弟子から、注意も受けたし、目をつけられひどいイジメにもあったという。しかし、名寄岩は自分を曲げなかった。
 ここで名寄岩の紹介を終えれば、さすが出世する人は若い時から人とは違うものだということになるが、名寄岩は、その生涯にわたって自分を貫き続ける。
 新弟子時代のひどいイジメに耐えて、昭和11年5月十両昇進、昭和12年1月入幕をはたし、出世した後も名寄岩は、生一本の性格を貫いた。ある時、部屋の門限に遅れた名寄岩は、付き人には部屋に入るように言いつけ、自分は雪が降る中、部屋の前で、門限に遅れた自分を罰するため、一晩中、四股を踏みつづけたという。79連勝の不滅の記録を持つ大横綱 木鶏を目指した双葉山は、こんな弟弟子に特に目をかけていたという。兄弟子双葉山の胸を借り、厳しい稽古をいとわない姿勢によって、昭和13年5月新関脇に昇進、当時、双葉山、羽黒山とともに「立浪三羽烏」と呼ばれた。
 後の横綱審議委員で作家の尾崎士郎は、「大相撲鑑識大系第六巻 昭和時代の大相撲」(昭和16年 国民体育協会)で、昭和13年春場所で興味が湧いた取組みは、共に七勝五敗(当時は、1場所13日制)の綾昇(西前頭筆頭)と名寄岩(西前頭二枚目)の千秋楽の一番だとして、名寄岩について「名寄岩は立浪部屋の俊足、相撲ぶりはどう贔屓目にみてもよいとは言えないが、その鈍重さと生一本な性格を土俵の上の功利観と一致させることにおいて、才気と器用さにおいて勝る羽黒山より大成する余地が残されている」とのべている。

 「人生劇場」の作者、尾崎士郎の予想は、半ば当たり、半ば外れた。名寄岩は、その後、大関に昇進するが、病魔に冒されたため、力を伸ばせなかった。終戦後、まず、最愛の妻が胸をおかされ、彼自身もリュウマチ、神経痛、腎臓、糖尿病とあらゆる病気をしょいこみ、140キロあった巨体は、昭和23年には胃潰瘍を病んだこともあり90キロにまで減り、1日に牛乳1本と氷水1杯しか受け付けない体になった。彼自身も病気で、家には病気の妻と幼子という苦しい状況の中、力の限り土俵を勤めた。昭和25年夏場所には、西前頭14枚目まで落ちた。それでも、完治しない病気と折り合いをつけながら、ふろしきに包んだ十数種類の注射薬と注射器を持ち歩き、少ないときで16本、多い日は23本といわれる注射を自ら打ちながら、生一本の性格で真摯に精進をつづけ、幕内で相撲を取り続けた。いつしか、その人気のほどは時の横綱や、大関をしのぐものとなり、昭和20年代後半、大相撲の人気の中心力士となった。

 当時の新聞は、そんな姿をこう書いた。
「…すべての人がいつかは自分のうえにふりかかってくる不可避なもの、そしてそれにかかわらずこの打ち克ちがたいものとたたかってゆかなければならないというのが、人間の悲しい運命でもあり、また生き甲斐のある使命でもある。
 彼は土俵のうえでこの人間を生きている。彼のうえにふりそそぐ喝采こそ、人間と人間との間の偉大な感情の相互移入である。文学のうちに生きのこる唯一の老力士、−名寄岩よ健在であれ。」
 読売新聞 昭和28年5月27日

 そして、彼の戦後の苦悩の土俵人生は、池波正太郎の手により、「名寄岩」、「名寄岩 涙の敢闘賞」のタイトルで、それぞれ舞台化、映画化された。

 現代(※)において、名寄岩の名は、戦後の人気力士という意味ではなく注目されている。
無気力相撲や八百長なんて彼にとってはとんでもない話である。巡業に行くと、たいていご当地力士に花をもたせて勝たすのが普通なのだが、名寄岩にはこれが全然通じない。融通がきかないのだ。立浪部屋のマネージャー役だった国ノ花がこういっていた。 「名寄岩さんには生涯に嘘の勝負というのは一番もない。名寄岩さんを語る時は、この一言につきる」”(『大相撲内緒ばなし』錦兵衛 週刊文春 昭和57年8月26日号)
 彼は、四股名を自分で決めた時から、引退するまで力士として一度も自分を曲げることが無かったのである。彼は、戦後何十人もいた元大関の一人としてや、現れては消えていく土俵の上の人気者の一人としてではなく、自分を曲げなかったことで、唯一無二の力士として、いや人間として記憶されるべき人なのだ。

 歴史上の人物や出来事を理解するためには、作家やクリエイターの目というフィルターを通した、演劇や映画を見ることが助けになる。名寄岩の場合、そのフィルター役を池波正太郎がはたしてくれている。そして、池波正太郎は、戯曲「名寄岩」の冒頭に、一つの詩をかかげた。

僕等人間に就て、大地が万巻の書より多くを教える。
理由は、大地が人間に抵抗するが為だ。
―サン・テクジュペリー―

 名寄岩を理解する鍵は、この詩にある。そして、大地。つまり、名寄岩をはぐくんだ名寄にその鍵はあるのだ。

※ 週刊現代のことではない。

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