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文壇随筆 印象記 森鴎外

中村武羅夫

森  鴎 外

        一

「中央公論」の瀧田哲太郎君は、雑誌編集者として、よく森鴎外を訪問したらしい。十四五年ばかり前の「中央公論」には、ひとしきり鴎外の作品が発表された。人からまた聞きに聞いたことだから、嘘か本当か知らないが、こんな話しがある。それは瀧田君が輜重輪卒か何かで入営してる時、強情で、負けずぎらいの瀧田君は、素直に軍隊の規律に服従しないので、ひどく上官のにくしみを買って、苦るしい労役ばかり強いられた。ところが或る時、たまたま、話しが、瀧田君が森鴎外を知ってるということに及んだ。鴎外は、当時、陸軍軍医総監だった。連隊長は大いにおどろいて、「お前、森林太郎閣下を本当に知ってるのか。」と、念を押したので、瀧田君は持ち前の熱弁で、森閣下と親友だというようなことを述べ立てた。「ぢや、君からそういって、一つ森閣下の書をもらってくれ。」「そんなことは何でもない、僕からそう言ってやれば、すぐ書いてくれる。」というようなわけで、瀧田君は、皆なの見ている前で、鴎外に端書を一本書いた。ところが、早速鴎外から書が届いたので、それ以来急に瀧田君に対する軍隊の態度が変り、毎日あそんで、甘いものばかりを食って来たというのである。
 これは嘘か本当か知らない。また、瀧田君のことだから、皆なの前ではえらそうな端書一本飛ばして置いて、かげで大いに懇願の手紙を出したのかも知れない。が、どっちにしても、この話しは、私に、鴎外に対する一脈の人間的な懐しみをいだかせる。
 私が、鴎外を知ったのは、まづ晩年に近いころと言ってよからう。歴史物を書き出す前、「スバル」に「ヰタ・セクスアリス」を書いたり、新潮社から「涓滴」という創作集を出版したりして、文壇的に若がえっていた時分のことであった。勿論、五十をとっくに過ぎた年配だったろうと思うが、小柄な、額の広い、カイゼル髭の黒々とした、顔の色沢なんか艶々として、まだ、若々しい印象をあたえる、元気にみちた人物だった。おなじころ坪内逍遥氏にも会ったのであるが、多分、そんなに変りのない年配だろうと思うが、逍遥氏の方は鴎外とくらべものにならないほど、年寄り染みて見えた。その若々しい鴎外の方が早死にをして、一見、老衰して見える逍遥氏の方が健在なんだから、人間の寿命など、健康や精力と比例しては、あまり当てにならない気がする。
 私は、鴎外に、そんなに度々は会ってはいないが、五六度は会ってる。最初会ったのは、多分三月時分だったろうと思う。案内をよく知らないので、道順に応じて裏門から入り、内玄関から案内を乞うた。(千駄木の屋敷は、ちょうど角屋敷になって、裏門と表門とは、正反対になっている。本郷通りをずっと奥に行って、右に曲って行くと団子坂の降り口で、そこに裏門があった。)すると、ちょこちょこと出て来たのは、鴎外白身で、銘仙の地味な、黄色い格子の袷を二枚重ねて、羽織は着ずにきちんと袴を穿いていたので、私はおどろいてしまった。訪問した方の私は羽織も着ず、袷の着流しだったので、私は、白宅に居てもちゃんと袴をはいてる鴎外氏に、恐縮してしまったのである。
 すぐ、書斎に通されたが、ちょっと寄りつき難い、ひややかな感じをあたえた。当時の文壇や、文学稚誌を、白眼に見ているような語気が、その口吻にちょいちょいもらされるのであった。「新潮」に出たことのある、自分に対するどんな小さな悪口でも、ひやかしでも、一々記憶してるのには、ちょっと面食らつてしまった。
「あれは、君の責任ぢやあるまいが、新潮には、僕についてこんなことを書いたことがある。」
と、十年も前のことを並べるのであった。

       二

「新潮」が、長い間、どんなに鴎外に対して悪口をいったり、冷かしたりして来たか、鴎外は、それを一つ一つ、私に向かって並べ立て、大いに怪しからんというのである。だが、それを並べ立ててしまったら、それで気が済んだと見えて、初めて口元に、可愛らしい微笑を少しばかり浮かべて、私が提出する問題について、ちょっとの間考えていた後、やがて自分の前に紙を伸べ、鉛筆を執るのであった。−私は、やっぱり鴎外に談話を求めるために、訪問したのであった。
 八畳の下座敷で、床の間や違い棚があり、絨毯が敷いてあった。縁側に向かって、紫檀の机が置いてあった、が、鴎外は机には向わないで、私に差し向いになったまま、敷物の上に紙をひろげ、上半身を少しこごめ気味にして、鉛筆でさらさらと書いて行くのであった。それは鴎外常用の原稿紙らしかったが、普通の原稿紙ではなく、罫のないコットン・ペエパアを半紙判に裁つたものであった。鴎外は最初に、まづ森鴎外氏の談話と自ら署して、私の前で−私をきちんとすわらして置いて、鉛筆でさらさらと書いて行くのであった。鉛筆は二十本ばかりも丁寧にけづつて、かたはらの四角な塗り盆の中にそろへてあった。その盆の中には、ナイフだの、サックには入つた小さな西洋鋏だの、錐だの、紙縒だの、そんな風な机あたりのこまこました必要品が、きちんと揃へてあった。
 私は、そんな風にして、鴎外から「森鴎外氏の談話」を、二三度得たことがある。鴎外のその筆蹟は、今でもさがして見れば、確かどこかに保存してあると思うが、「鴎外全集」の第三巻には、それが談話として載つているけれども、実は談話でも何でもなく、鴎外白身で「森鴎外氏の談話」を書いてくれた、原稿なのである。
 そんな事が動機になって、新潮社との間が急に打ちとけて来た。その当時、小説も一つ二つは「新潮」に書いてもらつたし、私が知ってから殆ど二十年近くになるのだが、その間に殆ど文学者を訪問したことがないといってもよいほど出不精な、社主の佐藤義亮氏が、それが機会で、鴎外を二三度も訪問して、創作集の「涓滴」など出版するようなことになったのだ。何か、まだ、鴎外のもので大きな出版をやる計画のように聞いていたが、一徹で負け嫌いな気性の佐藤氏と、神経質で、やっぱり一徹な鴎外との間に、何か行きちがいがあって、それはそのまま立ち消えになってしまった。終いには、訴訟沙汰にするとまで、その行きちがいがこぢれて行ったようだが、しかし、結局、鴎外の思いちがいだったことが明瞭になって、それで解決した。問題はそれで解決したが、しかし新潮社と鴎外との感情は、以前のように打ち解ける機会もなく、鴎外は亡くなってしまった。
 人によると、鴎外のことを、ひどく悪くいう人がある。内田魯庵氏などは弁護してる方だが、しかし、私の耳にする範囲では、鴎外をよくいうよりも悪くいう人が多い。鴎外の学殖や、精力には感服しても、人物に対しては感服しない人が多い。つまり人を惹きつける徳のなかった人なのだろう。親分的気分なんかちっともなくて、神経質で、傲岸で、余りに潔癖に過ぎたのだろう。その点、尾崎紅葉や、夏目漱石や、坪内逍遥氏などは、何といっても大勢の弟子を持っている。度量が広く、いろんな人物を容れて行くことが出来たのだ。そこへ行くと森鴎外や幸田露伴氏など、明々察々の人は、あまりに人の欠点なんかが見えすいて、馬鹿々々しくて人を容れて行くことが出来ないのだろう。鴎外でも露伴でも、自分のして行くだけのことは、さっさとして行くが、その一方に、弟子を仕立てるというような側の人ではないと見える。あれだけの大きな人物で、その割に腹心の弟子というようなものを、二人とも別に持たないではないか。

「文壇随筆」より
大正14年11月 新潮社

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