サイト内検索

文壇随筆 印象記 夏目漱石

中村武羅夫

夏 目 漱 石

       一

 近ごろ内田魯庵氏から「思い出す人」一本を贈られて、愛読している。旧版「きのふけふ」の時にも愛読したが、斯ういう人に関した思い出話とか、印象風のものは、何度読んでも面白い。殊に夏向きの肩の凝らない読みものとしては、相応しい。−そこで、私もこれまで会って来た重なる文学者の、思い出話しともつかなければ、印象ともつかず、勿論人物評ではなし、まづ文学者についての雑話とでもいうようなものを、夏の文芸欄の軽い読みものとして書いて見よう。
 職業の関係で−もう二十年近くも、雑誌編集のような仕事にたづさわっているので、大抵な文学者には会って来た。尾崎紅葉とか、山田美妙とか樋口一葉とか、ああいう時代の人は知らない。が、それ以後の人々なら、大抵知っているといっていい。ただ、長谷川二葉亭だけは知らない。会おうと思えば、会える機会があったものを会わないで来たことを、今では残念な気がして居る。紅葉とか美妙とかいう人は、そうでもないが、二葉亭だけには、一度でも会って置けばよかったと思う。会わないで惜しいことをしたという気がするのは、二葉亭一人だ。彼れの残した仕事よりも、人物の方がもっと面白かったろうという気がするからだ。
 池邊三山、山路愛山、ああいう人々の印象も、はっきり残って居る。夏目漱石、森鴎外、国木田独歩、上田敏、島村抱月、岩野泡鳴、有島武郎、横山源之助、大杉榮、大町桂月−私の会って来た文学者も、かぞえて見ると、もう十本の指を折ってなほ余るほど、既に故人となってしまった。この中で、たった一度しか会ったことのないのは、池邊三山と上田敏の二人だけで、その他の人々には、たびたび会って居る。
 夏目漱石は、家が近所だったので、一月に一度や、二月に一度は、用事以外でも遊びに行った。木曜日が面会日だったので、大抵その日の午後出かけて、夕方ごろまで、いろんな話しをした。門下の人々は、みんな夜集まるので、私は、漱石の客間で、門下の人々に会ったことは一度もないが、その他の人々には、ちょいちょい面をあわした。中村是公氏や、三宅やす子氏や、その当時の文部次官をしていた、福原何とかいう人達を、最初に見たのは、漱石の客間であった。
 人に会っても、敬愛の感じを以て、心から頭を下げるような人物というものは、そんなに多くはない。多くはないどころか、殆どないといっていい。殊に私なんか、性質が偏屈なせいか、相手の美点よりも、欠点ばかりが目に付いてこまるが、漱石だけには、心から頭が下がる気がした。ああいうのは、人間の徳とでもいうのであろう。極く、平々凡々に見えながら、それで、どこか底光りがしているのである。
 人物の品位−奥深さというようなものは、客間などで相対している時よりも、たとえば集会の席などのような、大勢集まった中に置いて見ると、一番、はっきりと分かるものだ。鈴木三重吉氏の夫人の告別式が、銀座教会にあった時、私も参列した。ちょっとつむじ曲りの三重吉氏のことであるから、普通の告別式とは大分毛色の変ったもので、牧師なんかまねかず、小宮豊隆氏が司会者になって、安倍能成氏が、聖書の朗読をしたりなんかして、焼香の代わりに、会葬者全員が、かわるがわる立って、一輪づつの白百合の花を、黒布で蔽うた寝棺の上に捧げるのであった。漱石も自席から立って、やっぱり白百合の花を、夫人の寝棺の上に棒げたのであったが、私はその時の漱石の紋付羽織袴の姿と表情とを、わすれることが出来ない。丈の高い方ではなかったが、堂々たる風姿が場を圧して、鋭い双の眼は鷲の如く、ぴんとはね上がった口髭下の唇へんに、何とも形容の出来ない微苦笑をふくんでいるのであった。

       二

 もう少し夏目漱石のことを−。
 漱石のその時の微苦笑は、「三重吉の奴、キザな真似をしやがるな」とでもいう苦々しさと、それから若くして逝いた三重吉氏の夫人に対する敬虔な哀悼の感じとを、ごっちゃにして現したようなものだった。少くも私には、漱石のその時の微苦笑が、そんな風な心持ちを現してるように感じられたのだった。
 それでも漱石は、ゆつくりした、重々しい足どりで、棺前まで進むと、皆ながするとおなじように、白百合の花を一枝手にして、黒布で蔽うた棺に向かって、ちょっと頭を下げた。そしてその時は、彼れの唇辺から微苦笑の影が消え失せて、ひどく厳粛な、苦がい表情に満たされていた…私の目には、漱石の死後、今でも、時々、その時の漱石の姿と表情とが、彷彿として目に浮ぶのである。
 私が、湯の中で小便して、漱石に顔をあらわせて、大いに漱石をおこらしたというようなゴシップが、つたえられたことがある。が、これはまちがいである。私だって、まさか自分の小便で、人に顔をあらはせるような、そんな人の悪いまねをする筈はない。
 それは多分、次ぎのような話しが、誤伝されたものだと思う。
 その当時、漱石の家に、湯殿があったかどうかを、私は知らない。漱石の家は、やっぱり現在の、早稲田南町だったが、今のような堂々たる邸宅ではなく、確に家賃は四十五円とかと漱石自身の口から聞いたことがあると思うが、借家だった。勿論、湯殿はあったことだろう。が、直き前の銭湯に、よく出かけて来た。大抵、一番空いた十時ごろから二時ごろまでの間だった。
私も、よくその銭湯に行ったので、時々湯の中で出遭ふことがあって、「やあ」「やあ」と、裸で挨拶するのであった。
「先生、湯に入ると、自然に小便が出たくなりませんか?」
 或る時、私が、風呂の中で聞いた。
「湯の中でか?」
 漱石は、やっぱり湯に浸りながら、斯う反問した。
「そうです。」
「ないぬ。−君は、そんなことがあるか?」
「ぢや、僕だけですかね。僕は湯に入ると、自然に小便がしたくなるんです。」
「汚ないね。」漱石は口尻をしかめて苦笑したが、急に立ち上がって、「そんなことをいって、君は今、したんぢやないか?」と詰問した。
「そんなことがあるもんですか。」と私は笑った。
「どうだか、怪しいものだ。君が小便したんだと、僕は、君の小便で顔をあらったことになる。汚ないね。」
 漱石は、もう一度顔をしかめて、苦笑した。
 そんなことが、私が、自分の小便で、漱石に顔をあらはせたなどというゴシップに、誤りつたえられたのであろう。お蔭で私は、その後時々、徳田秋声氏と一緒に旅行などして、風呂には入ったり、温泉に浸つたりする度に、「君、小便をしやしまいね。」などなど、念を押されるのである。「僕と一緒の時には、そいつだけは、一つ勘弁してくれたまへ。」と秋声氏は、私をからかふのである。
 一度、漱石をひどく怒らしたことがある。それは私が、彼れの印象を書いて、床の間の置き物のような、時代離れのした骨董品の感じだといったのに、憤慨したのである。
「時代離れのした骨董品に、談話をさせて、雑誌に載せてもつまらないだろう。僕は御免被る。」
 その後、私が、談話を求めに行った時、漱石は斯ういって謝絶した。
「談話筆記は、僕の職業で、僕はそれで生活してるんです。少しばかり先生の悪口を書いて原稿料にしましたが、そのために談話をことわられると、僕は食っていけません。」
 私は、やりかえした。そして二三の議論を上下した後、漱石の気持ちは打ちとけて、彼れはやっぱり私のために談話してくれた。

「文壇随筆」より
大正14年11月 新潮社

Yahoo! カテゴリ掲載サイトです

旅行、観光 > 旅のノウハウ

名寄岩をさがして

探求探索行動(exploratory seeking)型夏休み旅行の提案

名寄岩とは何か?

名寄岩とは何であるのか、名寄に出かける理由

池波正太郎と名寄岩

池波正太郎にとっての戯曲「名寄岩」

名寄滞在便利手帳

ソフトクリーム、食事スポット、ネットカフェ。

名所観光独案内

名寄周辺の観光名所ガイド、ピヤシリシャンツェ、万里の長城

宿泊施設ホテル格付け

名寄市の宿泊施設ホテルを格付け

名寄で買う 生みやげ

なるべく、本日中にお召し上がりください。と書かれたおみやげ

名寄のプロフィール

日本の中の名寄の位置、名寄都市情報、バス路線図、時刻表