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誰だ花園を荒す者は! −イズムの文学より、個性の文学へ−

中村武羅夫

        一

 文芸は、言うまでもなく広い意味に於ける人間の生活を対象とし、題材とするところに成り立っている。人間生活がないところに文芸はあり得ない。あらゆるイズムに属する文芸が−自然主義の文芸も、象徴主義の文芸も、神秘主義の文芸も、その表現とか様式とか、観点とか、その他にはいろいろの差別なり特徴なりがあるとしても、結局、人生−即ち広い意味の人間生活に、何等かの意味に於いて関心を持つところから生れて来ていることには、変りはない。或る人に依っては、自己のための芸術が主張される。が、「自己のため」ということも、究極するところは、あらゆる人間のためということになる。人間は、無人島の中に、たった一人で生活しているものではない。多くの人間の集団の中に、社会的環境の中に、一つの細胞として生活していることが事実であって見れば、たった一人の個人というものを、絶対的に抽象して考えることは不可能だ。いくら個人と言っても、いろいろな個人と個人との相関的関係の下に置かれた個人であって、厳正な意味に於ける本当に単独な個人というものは、事実に於いて存在しもしないし、考えることも出来ない。どんな個人主義者だって、それは多くの個人と個人との間に挟まった個人主義者であって、絶対の個人主義者であることは許されない。結局、如何なる個人も、個人主義者も、その存在は、他のあらゆる個人との相関的関係の下に於いてのみ成り立っているのである。単独に、一つの細胞だけが、その存在を保つことが出来ない如く、単独に個人だけでは、その生活の意義をなすことが出来ないのだ。従って如何なる個人も、また個人主義者でも、一つの細胞として、己れの生存を託しているところの大きな生活体に対して、即ち、他の如何なる個人に対しても、それぞれ責任を分ち合っているものである。だから、若し、自己のための芸術を主張する人があっても、厳密な意味に於いては、自己のためということは成り立たないのであって、「自己のため」ということは、同時に「他のため」であることなのだ。われわれが、単独な個人としては、ただ存在することすら許されていないのに、況んや、芸術の如き「営み」をなす場合、どうしてそれを「自己のため」だけに留めて置くことが出来るだろう。若し、それが例え「自己のため」になされたものであっても、その結果は、あらゆる他の「自己」の上に影響し、作用せずにはいない。空気がなければ音もなく、一つの音波が、全空気の容積の上に波打ち作用する如く、或る一つの芸術上の仕事でも、それは直ちに他の自己の上に波打たずにはいないだろう。
 われわれは、いろいろ考え方の差別はあるとしても、斯うして社会的集団の中の個人として生きている以上−一つの大きな生活体の中の一細胞として生活している以上、他の個人に対し、またお互いの生活に対して、責任を持合っていることは、事実だ。その「責任」を科学的に解剖して見れば、相互扶助的な要素もあるだろうし、また、自然淘汰的な要素もあるだろう。人間共存の現象は、相互扶助だけでも決定出来ないし、そうかと言って、自然淘汰だけでも解釈出来ない。その二つの作用が、或る時代に依り、或る環境に依って、こもごも相交錯し、綯い交って行われていると見るのが本当だと思う。或る時代には、相扶けている。だが、ある場合には相闘っている。扶けていることだけが事実でもなもいし、闘っていることだけが事実でもない。地球に暗と光りがある如く、人間生活にも、闘争と扶助とが、或いは同時に、或いは交互に行われているのだ。感情的に言っても。われわれは、或る場合には憎み、或る場合には愛している。また、憎しみながら愛していることもあれば、愛しながら憎んでいることもある。
 私は、そういう人間同士の関係を目して、即ちお互いに責任を持ち合っているのだと言いたいのである。相互扶助的な関係にせよ、自然淘汰的な関係にせよ、それらがごっちゃに入り交った関係にせよ、また、愛する関係にせよ、憎む関係にせよ、愛憎二つが入り乱れ、綯い交っている関係にせよ、われわれの生活が、いろいろな意味と、いろいろな形とに於いて相交流し、相交錯している事実を指して、責任を持ち合っているのだと言いたいのである。
 文芸は、人間が単独であるところには生れない。われわれが、地球の上に、たった一人の人間として残された場合を仮定して、想像して見よ。恐らく歌も歌わないだろう。自分以外の誰かがあり、そして、その自分以外の誰かに対して、有意識的にせよ、無意識的にせよ、関心を持つところに、文芸やその他の芸術は生れるのだ。われわれが文芸やその他の芸術的な仕事を営むのは、有意識的にか或いは無意識的にかの差別はあっても、また、その濃度の違いはあっても、きするところは、自己以外の存在を認め、それに対して関心と責任とを持つところに根ざしていると思う。人間に言葉があるのは、自己以外の他の存在があればこそである。言葉がなければ、芸術はない。絵画や彫刻の如き芸術は、結局、形に依る言葉である。

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「誰だ?花園を荒す者は!」
昭和5年6月 新潮社

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