サイト内検索

濤声 感想随筆

中村武羅夫

故郷

 僕の故郷は、北海道である。
 北海道といっても広いが、ちょうど中央部に当っている。石狩国岩見澤町である。東部に当って、低い山脈がうねっているだけで、見る限り茫漠たる原野である。僕は、そこで生れて、そこで育ったせいか、山岳地帯を余り好まない。
 登山などということも、苦しいだけで、ちっとも面白くはないし、てっぺんに登って見たらいいかも知れないが、山の中に入ってしまうと、視野が利かないので、何となく息ぐるしい。平野に育ったためだろう。僕には向うが遠くまで見えないことが、狭くるしくてイヤだし、不安な気がする。
 故郷というものは、すこし年を取ってくると、だんだん懐かしくなって来るから、おかしなものだ、青年時代には、生れ故郷くらいイヤなものはなかった。思い出すのもイヤだった。
 この頃では、時々、故郷のことを思い出すことがあるし、思い出す時には、以前とちがって、懐かしい気がしている。
 今、僕には、故郷に家があるわけでもなければ、土地があるわけでもない。ただ、思い出が残っているだけだ。それも、楽しい思い出など、一つもない。イヤなことや、苦しいことばかりである。
 しかし、それすら懐かしいのだから、人間の心なんて、不思議なものだと思う。―人間は、長い時を隔てた思い出となると、どんなことでも、すべて懐かしいものになってしまう。
 僕は、子供の時には犬が好きで、よくいろいろな犬を飼つた。もちろん、雑種の駄犬である。ハチとか、クマとか、ピチとか、ありふれた平凡な名を付けて、無性に可愛がったものである。
 でも、一疋の犬を、長く飼いつづけて行くわけにはいかなかった。犬殺しに取られてしまったり、迷ひ犬になってどこかへ行って、いなくなったり、人に噛みついて、仕方なく殺さなければならないことになってしまったり……とにかく一疋の犬を、三年と飼いつづけ得ることなどはなかった。可愛がっている犬がいなくなった時には、かなしくて、オイオイ泣いたこともあるし、味気なくて、飯も食わなかったこともあったが、それでも、また性懲りもなく、何度も仔犬を育てるのであった。
  十一二歳の頃までは、全くの自然児だった。夏になると、裸で、跣足で、野や畑を、駈けまわっていたし、冬になると、スケートで氷すべりをやった。家の付近に川があって、一面に氷が張り詰めてしまう。そこに行って滑るのである。それから筍の皮の草履の裏に、丸竹を縫い付けたものを穿いて、踏み固めた雪の上を滑るのである。その頃にはスキーはなかった。が、小さな橇に乗って、坂道を滑って降る爽快さは、今でも覚えている。僕は、その後スキーをやったことはないが、子供の時の橇すべりの手際でやれば、きっと上手だろうと思っている。
 食べものなど、僕の故郷にはウマいものなど、何もない。今はなくなってしまったけれども、僕の少年の頃には、林檎園があった。木に登って、日当りのいい一番ウマそうなヤツを撰つてもぎ取り、そのまま噛み付いて食べるのは、新鮮で芳烈で、ウマかったことを覚えている。
 夏は西瓜、まくわ瓜、秋は唐蜀黍を焼いて食うなどが、ウマいものだった。北海道では鮭のことをアキアジというが、秋になるとボテふりが、アキアジを擔いで売りに来る。東京などのような、切身にして売るのではない。一本とか、二本とか買うのである。少くとも片身である。
 僕は、最初に東京に出て来た頃には、鮭を切身にして魚屋の店頭に並べて売っているのを見て、驚いたものだった。鮭ばかりではない。カレイまで三切れくらいに切って、売っているのである。僕の少年の頃など、北海道ではカレイとか、トウなどという魚は、石油箱に、大体一箱くらいづつは買つたものだった。あんな小魚を切身にして売るなどは、全く不思議な気がした。
 今でも故郷のことが、一番懐かしく思い出されるのは、季節の推移である。春もいいし、夏もよく、秋もよかつつた。が、何といっても忘れられないのは、冬である。吹雪の日、シンシンとして、しづかに雪の降り積む夜などは、思い出しても懐かしいのである。ラムプの灯を明るくして、本を読むと、内容が沁み込むように、実に印象がクツキリと、頭に入って来る。
 しづかで、落着いて、気が散らないのである。東京のような、周囲が賑やかだったり、遊びに行くところが多かったり、乗り物が便利だったりすると、僕にはどうもジツクリと書斎に落着けないので、かえって困るのだ。
 雪の下から、黒土が現はれて来るのを見る春の歓び、そして秋から初冬の頃の木枯や、落葉や、みぞれの音の寂しさなど、ナカナカ忘れられない。
 僕は、出来たら北海道のどこかに、少しばかりの農場でも持って、一年の中の半分くらいを、生れ故郷で暮すようにしたいものだと思っている。

危い人生の綱渡り

 航海家になって、世界の港を廻るのが、少年の日の夢想だった。だから、十四五歳の頃には、商船学校に入ることを、一途に志していた。
 父は、鳥取藩の落ぶれ士族で、北海道の開拓に移住した。僕は、少年時代の境遇と環境とのために、正しい学校教育を受けることが出来なかったので、毎年、冬になると、一里ばかり離れた小学校の校長さんのところに通つて、勉強した。水戸黄門のように、長い臣髭を垂らして、剣道が好きで、名人だった。勉強の合間に、撃剣を教えてくれたが、先生が竹刀を取って振りかぶると、竹刀の蔭に、先生の姿が隠れてしまって、どうしても打ち込めなかった。
 吹雪のために、一週間くらい往来の途絶える道を、僕は、朝夕、雪まみれになって、かんぢきを穿いて、一人でその先生のところに通つた。

 父が経営していた林檎園が、駄目になって、一家が貧乏のどん底に没落した。何千本の林檎の木が、腐爛病になって、バタバタと枯死してしまったのである。
 僕の志望は、航海家から、画家、それから文学者と、三度び変化した。
 文学者になるには、どうしても、上京して勉強しなければならない。学資はないし、家庭の事情は、僕の上京を許してくれるどころではない。
 僕は、小学校の先生になって、少しばかりの学資と、上京の旅費とを、貯蓄する決心をして、空知支廳の視学に教員の採用方を頼んだところが、間もなく、辞令を渡すから、出頭するようにと、通知が来た。秋の雨季で、一里余りの恐ろしい泥濘路を、尻からげ、草鞋ばきで、支廳の学務課に出頭した。ところが、教員の辞令を渡すのに、草鞋ばきの尻からげでは困るから、袴を穿いて、出直して来てくれというのである。
 僕は、はたと当惑してしまった。一里に余る泥濘道を、出直すなんて大へんである。ようやく、町に親しいメソヂスト教会の牧師さんがいるので、その人を訪ねて事情を打ち明け、羽織袴と、下駄とを借用して、改めて出頭して、教員の辞令を受けた。
 月給九円、清眞布尋常小学校の代用教員であった。

 自炊しながら、教員生活を送ること、まる一年半、ようやく三十五六円の貯金が出来たので早速、教員の職を辞した。オルガンを弾いて唱歌も教えれば、体操も教えた。三度ばかり月給が上って、止める時には、十四円になっていた。
 早速、上京したが、当時、日本の文藝界は、自然主義文学の黎明期で、デカタンの風潮が盛んであったのと、僕自身の絶望的な気持ちとから、ずいぶんヤケな出たらめな生活がつづいた。
 新宿の裏町で、古池の傍の下宿屋の一室を借りたのはいいが、五銭ばかりの銭で、焼芋と、水とで、三日間の生命をつないだこともあるし、牛込の奥の方に小さな借家をしていた時など、家賃が払えないので、家主が怒って、表の雨戸を釘付けにしてしまったので、窓を破って出入りしたこともある。米代がないので、起きていると腹が空くから、夜昼の区別なしに寝ているのである。すると、二三日の中には、誰か友達が訪ねて来るから、十銭でも持っていると、のこのこ起き出して、それを提供して貰つて、早速、飯を炊くのである。
 米が一升十三四銭の時分だったから、十銭もあれば五合の米と、塩鮭の切身二切れ、味噌二銭くらいは買えるので、忽ち立派なご馳走が出来た。

 上京早々、肺炎のために入院した。それをコヂらせて、肋膜から肺病の宣告を受けた時には、すつかり死を覚悟した。養生する余裕などがない以上、死ぬよりほかはないのだし、どうせ死ねくらいなら、ケチケチ病気を気にするより、したい三昧のことをして行倒れになるなり、どうなり、早く死んだ方がいいと思つた。
 酒は飲む、夜更かしはする。寒中になっても、袷一枚で、がたがた震へて、一冬中、膝の温かな思いをせずに通した。浅草公園で、浮浪人と共に夜を明かしたこともあるし、地廻りのゴロつきと喧嘩して、千束町の往来の雪の上に倒れて、血を吐いているところを、通りがかりのおかみさんに助けられたこともあり、一月の大寒の夜に、酔つぱらつて、江戸川に落つこちて、そのまま腰から下は水びたしになって、石崖に凭れて眠つているところを、深切なおまわりさんに、助け上げられたことなどもある。
 医者が悪いということばかりして、却って、いつの間にか病気が癒つた。何んという命冥加な奴。
 考えて見ると、食うに食へない貧乏や、ハラハラするような乱暴や、ずいぶん際どい瀬戸を通り越して来たものではある。が、それでいて、別に苦しいとか、惨めだとかいう感じもしなかったし、今になって思い出して見ても、辛いなどと思うどころか、一脈の朗らかさを感ずるのは、何といっても、若さと、負けん気と、希望とを持っていたからではなからうか。

独り言

 僕は、その時々の気分で、自分の一面的な感情を、かなり極端に強調して、表現せずにはいられない性質である。だから、いつまで経つても、人間が円熟しないし、人に会うことが嫌いなのである。
 人に会うことが嫌いなのは、必ずしも人を厭つたり、人を憎んだりしているからではない。僕はどちらかと言えば気が弱く、淋しがりやで、人を懐しがる方である。
 だが、人に会うと、どうしても僕の感情は、平静でいられないのである。つい余計なお喋べりをしたり、感情が強調されて来て、十くらいに言って置けばいいことを十五にも十七にも、表現してしまう。また、寡黙な、おとなしい人を見ると、何かしらその人の気持ちを突つ付いて見ずにはいられない。人の中でも黙つて、どんな気持ちでいるのか、どんなことを思っているのか、分からないような人を見ると、どうしても、その人の気持ちを、突かずにはいられなくなって来るのである―ちょうど、大鼓が転がっているのを見ると、どんな音を立てるか、二つ三つ叩いて見ずにはいられなくなるのと同じ気持ちなのである。
 これは僕に取って一種の本能で、どうすることも出来ないのである。
 しかし、それはそれで仕方がないとして、そんな性質の僕が、人に会った後の気持ちがイヤなのである。限りない慙愧と憂鬱である。
(また、詰らないことを喋つてしまった)
 すべての人々が、皆な僕を軽蔑し、嘲笑している。皆な自分を冷笑している。苦い苦い自己苛責が、咽喉首を締め上げて来るのである。
(もう人中へなど、出ないことにするんだ)
 と我と我が心に誓ふのである。
 人中へ出ても、寡黙に、謹しみ深く、上品に奥床しく振舞ふようにしなければならん。
 だが、人の中へ出て、人々の顔を見ると、いつの間にか、どうすることも出来ない自分の生まれつきの性質が動いて、余計なお喋べりをしたり、人の感情の糸を引つ張つて見たり……結局、独りになって、あんなに後悔したり、決心したりしたことは、何んの役にも立たないことになってしまう。

 僕は、いつか「あらくれ」の会の時、室生犀星さんに、「庭なんか、常住座臥眺め暮らしているものではなく、むしろ見ていない時の方が多いのに、そんなものに一所懸命になるのは、馬鹿々々しい云々」の意味のことを言って、室生さんの庭好きの鼻柱を、少し凹まそうとした。
 が、あの時の言葉を、取り消したいと思う。
 僕も庭は好きだ。また、常住座臥、見ていないことにだって、一所懸命になったり、愛着を感じたり、神経質になったりするのが、人間の本当の気持ちであることは、僕にだって分っている。自分の着物や、下駄を、始終見ているわけではないが、仕立てが悪かったり、余り粗末だったりすると、気になるのである。
 室生さんが、その後「都」の文藝欄に書いていた石佛に対する随筆を読むと、庭や、石に対する室生さんの気持ちを、ほんとうに尊い気がした。付焼刃ではないのである。庭に対して、石に対して、室生さんの血肉が、立派に通つているのである。
 僕は、室生さんに対して、ますます悪いことを言ったと思つた。趣味としてもその人の個性と、血肉に根ざしている以上、それは立派にその人に取っての生活である。

 もの言えば唇寒し秋の風

 発句だか何んだか知らないが、ずいぶん通俗で、常識的で、低級ではあるが、ほんとうのところがある。

私の競馬観

 競馬の純粋の面白さというものは、馬券を買うということが付随しているために、一般的には、かなり誤解されていると思う。競馬を見にゆくとか、競馬が好きだとかいうことが、直ちに賭博的なことと結びつけて考えられ易い。
 もちろん競馬を見ることの面白さは、馬券を買うことによつて更に真剣にもなれば、一層深められもすることは事実である。たまたま馬券を買っていないレースというものは特に贔屓の馬なり、騎手でもいない限りは、どの馬が勝つても負けても、至極暢気なものである。ただ馬が走つているのを、長閑な気持ちで見物しているだけである。
 私は、そういう暢気な競馬見物が好きである。おそらく、そういうファンも多いことだろう。元来が都会生活者というものは、外気や外光に親しむ機会が甚だ少い、都会では一歩外に出ても、どこもかしこも大勢の人々でいつぱいである。人間と人間がひしめき合っている。そのために神経も苛立てば、気持も尖つてちょっとしたことにも直ぐに眼の色を変え、イキリ立ち、喧嘩腰になったり、本当に喧嘩を始めたりする。―後になって考えて見れば恥かしくなるようなことでも、その場の気持としては、どうも仕方のない場合が多いのである。
 競馬場だって人間は多く集まるし、もちろんゴタゴタもしている。しかし頭上は青空であり、眼の前に見ているのは広々とした馬場であり、駿敏を競う駿馬であり、軽快な騎手である。殊にそれが馬券も買っていず、馬主でもなく、勝敗を度外において見物している気持というものは、ちょっと比類のない長閑さでもあるし、明朗闊達な気分でもある。
 だから私は、競馬を見に行っても、何回かは馬券を買わないで、この白紙の状態で、極めて長閑な気持で、ただ単純に競馬その物だけを見物することにしている。そして若しこれだけで、競馬を見物することに満足するようになったら、どんなにいいだろうかと思つたりする。だが、そこは人間の煩悩で、枯木寒厳ではない。慾もあれば、時には自分も馬主と同じくらいな気持になって、競馬に興奮もすれば、熱中もして見たい。また、私などの競馬にたいする気持は、まだ極めて素朴だから、どの馬だろうが自分の馬券を買つた馬が、自分の持ち馬と同じくらいな気持になって、興奮して一喜一憂出来るのである。
 余りたびたび競馬に行っているわけでもないのだから、大きなことは言えないと思うけれども、私は馬券を買って決して損しなくてもいいと思っているし、また事実に於て今まで、損したことがない。いつでも少しづつは儲けている。その代り大儲けしたこともない。それは馬券を買うことに、余り賭博的な興奮を期待せず、穴を狙うことを努めて避けるのである。いろんな情況を綜合して大穴など狙つて見ても、それが当ることは十五遍に一度か、二十遍に一度である。穴を狙つて当つた時の快感は大きいには違いないが、仮りに十遍に一度当るとしても、通算すれば損である。金銭だけの問題ではない。精神的にも九遍の失望と、たった一遍の快感とでは、差引き八遍の損があるというわけである。
 競馬が動もすれば、一般から賭博と同じような誤解を受け易いのは、これはファンの責任でもあると思っている。慾をふかくして、強い刺激を求め、無理をして大穴を狙うからである。素朴に競馬その物だけを見ることに楽しみを求めるのが、一番いいに決っていると思うが、馬券を買うことだって悪いことではない。ただ、強い刺激を求めて大穴を狙うということが、何か競馬をして賭博的な感じをさせることになる。消極的に、安全な馬券ばかり買っていたら、痛快な楽しみは少ないかも知れないが、大して損することはないと思う。同時に競馬をして投機心を煽るものであるかの如き誤解を、一掃することにもなるだろう。
 競馬道楽が高じて何馬かの馬主になるというような人々もあるし、そこまで行かないと馬種改良というような主旨には、実際的には貢献するところがないかも知れない。しかし多くのファンは、いくら競馬が好きだって、そこまでは深入りは出来るものではないのだし、その必要もない。競馬そのものを見て楽しむ―しかし楽しんで淫せざるの程度が、一番望ましいのではあるまいか。職業を打つちやらかして、毎日競馬通いをしたり、また全国の競馬に付いて廻るというような、所謂競馬気狂ひなる人々をよく見かけるが、それはファンとしての邪道であろう。

 また、競馬見物の往き帰りなどで、混み合う乗り物などの中で、よく競馬ファンの公徳が問題にされていることがある。しかし、雑踏する乗物の中などで、たまたま公徳心の欠陥を暴露したりすることがあるのは、必ずしも競馬ファンに限つたことではないのである。それはいかなる方面の人々でも、すべての人間の持っている欠陥である。それが競馬ファンの場合に特に問題になるのは、前にも言ったような誤解から、競馬ファンにたいする世人の反感のようなものも、多分に交っているからではないかと思う。―それだけにファンとしては、一層自重の必要もあるのだとも言えなくはないが。

「濤声」より
昭和18年3月 文松堂

トウ
鯉に似た魚

Yahoo! カテゴリ掲載サイトです

旅行、観光 > 旅のノウハウ

名寄岩をさがして

探求探索行動(exploratory seeking)型夏休み旅行の提案

名寄岩とは何か?

名寄岩とは何であるのか、名寄に出かける理由

池波正太郎と名寄岩

池波正太郎にとっての戯曲「名寄岩」

名寄滞在便利手帳

ソフトクリーム、食事スポット、ネットカフェ。

名所観光独案内

名寄周辺の観光名所ガイド、ピヤシリシャンツェ、万里の長城

宿泊施設ホテル格付け

名寄市の宿泊施設ホテルを格付け

名寄で買う 生みやげ

なるべく、本日中にお召し上がりください。と書かれたおみやげ

名寄のプロフィール

日本の中の名寄の位置、名寄都市情報、バス路線図、時刻表