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濤声 旅行小記

中村武羅夫

祖国愛と郷土愛

 東京で生れた人は、「自分は故郷を持たない人間だ」というような嘆声を洩らす。封建時代には「江戸ッ子」だとか、「将軍様のお膝元」だとかいうようなことで、江戸生れは誇りだったかも知れないが、維新以後東京は、諸国の人々の一大集合地であって、土地としても都会としても、封建時代からの伝統や、特色を余り多く伝えているとは言えない。日本の首都としての誇りはあっても、土地そのものの古くからの特色など、今では何一つとして伝えているとは言えない。人間は各地方からの寄り集まりであり、生活や文化は、瞬時も一ところに停滞していない。日に新たなり、日に日に新たなりである。
 そこに東京としての特色があると言えば言えるのだが、しかし人間には伝統を誇り、伝統を懐かしみ、伝統を愛する本能がある。結局、郷土愛などというものはこの本能に根ざしているものであって、それを突き詰めて考えてゆけば、祖国愛なども同じことではないかと思う。もちろん、祖国愛ということになると、もっといろいろな複雑な条件が加わることは言うまでもないけれども、しかし根本的には同じ本能に根ざしたものと考えても間違いはない。
「江戸ッ子」の誇りなど今や全く通用しなくなった近代の東京生れの人々が、何か故郷を持たない寂しさを感ずるというのも、要するに何等懐かしむべき「伝統」を持たないことに起因しているのだと思う。東京は今や一国の首府として、日本人全体のものではあっても、東京人だけの東京ではないのだ。東京の人々が己れ一個の郷土として、心ひそかに愛したり、いつくしんだりするには、東京は余りに尨大であり、小さな纏まりや、小さな特色がない、それでも大正年代の初期の頃までは、まだいろいろな点に江戸時代の特色は残っていたと言っていいし、殊に山の手と下町のハッキリした区別は、震災当時の頃までは、明らかに残されていた。
 それがこの頃では―大正十二年の大震火災以後の新たな都市計画と、それから昭和年代になってから行われたところの大東京市の計画とに依って、その時分まで僅かに残されていた山の手と下町との特色なども、いつの間にか消え失せてしまったと言っていい。日に月に年に、非常な勢いで発展し、膨張してゆきつつあるところの東京市は、古くからの伝統も、特色も、すべて近代都市としての一色に塗りつぶされてしまっている。曾って江戸名所図繪や、その他の文献などに示されている江戸の特色など勿論のこと、たとえば明治大正の頃になってから現われた国木田独歩の「武蔵野」や、或いは永井荷風の種々の作品、わけても「日和下駄」などに於いて示されているところの東京の風土や、地方的特色というものは、今はどこを探しても、おそらく見ることは出来ないだろう。
 僕は今ここで、このことをいいとか、悪いとか言おうとしているのではない。この現実はそういう議論や、批判を絶して、歴史の必然に促がされ、政治の支配のために動かされて、即ち「東京」というものの持っているところの宿舍として斯うなって来ているのである。いいと言って見たところが、悪いと言って見たところが、それでどうなるものでもない。
 ただ、人間はその本能の一つとして、そのような土地の上に生れたことに、懐かしさや喜びを感ずることが出来ないばかりか、一種の郷土を持たない者のごとき寂寥すら感ぜずにはいられないものだという事実を、指摘したまでである。
 更に僕は、もう一つの例として北海道のことを語りたい。僕の先祖の地は鳥取であるが、僕の生れたのは北海道であるから、即ち僕の故郷は北海道と言はねばならね。しかも僕は北海道に生れて、一度も先祖の地をおとづれたことがない。先祖の地が鳥取であるということと、両親の時折の話などに鳥取のことを聞いたことがあるくらいで、直接には何も知らない。
 従って僕自身の気持ちとしては、飽まで北海道を故郷としているのだが、誰でも知っている通りに北海道は、開拓使以来ようやく七十年余りであって、全く新しい開拓地である。都会地である東京とは反対ではあるけれども、しかし、所々方々から人々が入り込んで来て開拓に従事した―即ち各地方人の集会地であるという点では恰も同じことである。
 そこへ持って来て北海道は、新しい開拓地であるために、古くからの生活の伝統とか、風土と生活との結び付きから必然に生み出されたところの独特の文化というようなものは、何一つとして持って来ていないと言っていい。従って、そこから生れたところの土着の言葉というようなものもなければ、土地の特色を持つた民藝というようなものも見ることが出来ない。  よく人々は、東京の文化が東北地方を一足飛びに素通りして、北海道に入って来ていると言うが、それはその通りである。札幌でも、小樽でも、旭川でもいいが、東京から凡そ一昼夜、汽車と連絡線とに揺られて、北海道の都市の一つに降り立って見るがいい。人々は誰でも、そこに北海道文化の特色を感ずるよりも、二十四時間も汽車や汽船の客となって、再び東京の市街のどこかの一角に降り立つたのではないかというような錯覚に、一時的ではあっても襲はれるに違いない。
 それくらい北海道の都市は、建築などにしても、街衢の粧ひにしても、そこに動いている人々の服装とか、態度、表情や、その他の風俗にしても、東京などと余り大した相違を発見しないだろう。この相違を発見しないということは、即ち北海道の都市が、地方的特色を持っていないことを立證しているのではないか。そして、それはそのはずである。新しい開拓地であるところの北海道は、それ自身としての生活の伝統や、文化を持つまでもなく、すべて本州その他からの移入に依って出来上がっているのだから、例えば言葉などは津軽南部を主とした東北地方のものが最も多く入り込んで、各地方のものが、地方々々に依って集団移民などの関係から、それぞれに持ち込まれているのである。発音にしろ、調子にしろ九州とか四国などというように、その地地の独自のものを持っていないのである。
 生活様式や、文化面にしても、その言葉と同じ有様である。北海道の風俗文化ともに、北海道独自のものを見出すことは困難で、多くはというよりも殆んどそのすべてが、外来(内地、若しくはアメリカなどから)のものばかりであると言っていい。農耕の方法なども、開拓使時代の農業指導者をアメリカから聘したことに依るのだろうが、品種から耕作法など、多くアメリカから移入し、アメリカ式を用いている。
 この自己の故郷が、風土と、そこに土着した人間生活との交流から生れた独自の古い伝統を持たないということは、僕などが郷里を出てから既に三十余年、我が故郷のことを考える度に、いつでも想ふのは唯自然のことだけである。一年間の行事とか、風土の特殊性などというものにたいする懐かしい思い出というようなものは、何一つとして心に浮ばない。それは恰も郷土を持たない人と同じことである。
 だが、自然の特色というようなものは、いつでも直ぐに胸に浮かぶ。たとえば北海道の特殊な自然の推移だとか、吹雪の日だとか、或いは雪の思い出だとか、夏の爽やかさだとか、北海道で得られる特殊な食べ物だとか―そういったものである。自分の郷土にたいする思い出が、ただ土地の自然に依ってのみ繋がれて「人事的」な上、または「生活的」なものの上では、一向に特殊な懐しい思い出を持たないということは、やっぱり一抹の寂しさである。
 以上のごとき例証を、僕がここに示した所以は、つまり祖国愛というものも、いきなり抽象的に頭から誰でも持っているというよりも、むしろそれはもっと小さいかも知れないけれども具体的に、自分が生まれ育ったところの環境に対する切っても切れない血肉の繋がり―即ち郷土愛というようなものに根ざして、そこから発展したものの方に、より必然性もあれば、確実性もあるのだということを信ずるからだ。
 もちろん、国語や、文化や、教育や、産業や、藝術や、あらゆる点に於いて国民の生活は、強力に統一されなければならないことは言うまでもない。もっと端的に言うならば一億一心である。
 それは当り前のことではあるが、而もそれと同時に地方々々に於ける文化や、言語や、藝術や、行事などの特殊性が尊重されることも、また忘れてはならない喫緊事であることを主張したい。それ等の伝統の独自性を抹消し去ることは人々の心から故郷を奪ふことであり、引いては愛郷心を失はしめるような結果に導くことになりはしないかを恐れるものだ。従って郷土愛に基礎を置くところの最も根づよい祖国愛というようなものを、いくらかでも希薄ならしめるがごとき憂ひがありはしないかを、恐れるものである。

旅行と宿屋

  僕は、旅行を好かない。殊に、一人の旅行くらい、退屈で、つまらないものはないと思う、美しい自然に接するとか、変った人情風俗に親しむということも、気分が新たになっていいかも知れないが、美しい自然でも、一人で見るのでは詰らないし、変った人情風俗なども、僕は無性で、歩きまわるのが大儀だから、素通りの旅行ぐらいでは、分からないのである。
 乗りもののこととか、宿屋のことなど考えると、出かけない中から、ウンざりしてしまうのである。宿屋なんか、余り大事にされても却て窮屈だし、そうかと言って、冷遇されれば気持が悪いし、こっちが気むづかしいのだから、どうも仕方がない。それに設備が好くて打ち解けて、親切な宿屋というものも少くない。
 その点、ホテルは、万事が事務的で、簡単なのであるが、地方に行くとホテルという名が付いていても、その実設備はいい加減なものが多いので、浮っかり泊まれないのである。
 最近、二三ヶ所、東京付近を歩いて見た中では、山中湖が、一番、感じが好かった。東京の近くに、こんなに原始的で、素朴で、閑寂で、感じのいいところがあったのかと、驚いた。自然もいいし、ホテルの質素な感じもいい。外国人の真似をして、人々は皆、軽井澤を大騒ぎするけれども、僕なんか、山中湖の方がはるかに好きだ。金があって、別荘を建てるなら、ああいうところに建てたいものだと思っている。
 鬼怒川温泉は、少し俗悪だけれども、でも、ホテルは感じが悪くない。家族連れなどで、一二泊くらいの予定で遊びに行くには、最も好適だろう。
 潮来は、行って見て余りつまらないのに、呆れもし憤慨もした。僕は、佐原の方から行って、土浦に出て来て帰京したが、宿引がいたり、船頭なぞの感じもイヤである。
 それに、碌な宿屋が一軒もないのである。水郷と言っても潮来の邊りは、田舎の濁川に、少し毛が生えたくらいのもので、却って水郷の趣きは、潮来から土浦までの間にある。
 何より宿屋の悪いことだ。潮来になど二度と来るものかという気がした。

小樽の記憶

 小樽という港町は、僕の幼少の頃から馴染みの深い町である。だが、それは名だけで、実際に僕が、小樽の土地を踏んだのはもう四十歳近くになってからのことで、それもただの一日一夜の短時間だった。小樽という港町の名には、小さい時分から深い親しみがあり、いろいろな思い出があるにもかかはらず、実際には僕と小樽の町とは、極めて縁が薄い。
 僕の両親が、明治維新、没落士族の一団として北海道開拓のために移住したのは、明治十八年のことである。明治十九年生れの僕は、両親が北海道に移住した翌年に生れたのだから、これでも僕は、正真正銘の北海道ッ児なのである。僕の小さい時分から、母は、よく鳥取から北海道に渡った時の有様を話して聞かせたものである。鳥取の加露(カロ)という港から船に乗って、何日も何日も海上生活をつづけてから、漸く北海道の小樽に着いた。
 明治十八年の春頃には、小樽から、どの邊まで汽車が通じていたものか、勿論札幌までは通じていたに違いない。或いは既に岩見澤まで開通していたのか。とにかく、僕の生れた家は、岩見澤のステーションから更に一里近くも、奥に入って行ったところである。
 道というような道は、まだ完成もしていないし、ナナツバだとか、ヨモギだとか、ラツパ草などの雑草が、人の丈よりも高く生ひ茂つているし、鬱蒼たる原始林と、熊笹の中を切り開くようにして、奥へ奥へ入って来たのだという。
 最初に五千坪の宅地を開墾しそれから実に一万坪の飛び地を開墾した。それ以上、余力のある人々は、いくらでも新しい土地を求めて奥へ奥へと開墾してすすんで行ったのである。
 鳥取藩士として、鳥取の城下町に育った、父や母は、小樽の港に着いて、初めて北海道の土を踏んだ時には、寂しさと心細さとに、涙がこぼれたということである。遠い遠い世界のはてにでも来たような気がして、何ともいへない気持ちだったというが、それは、そうであったろうと、察しられないことはない。今から半世紀以上も昔の小樽の町を思い出して見るといい。
 それでも集団の力と、生活の圧力とで、更に小樽から岩見澤まで進んで、そこに各々の地をトして、落着かなければならなかった。
 小樽は、両親が初めて北海道の土地をふんだところだけに、また、函館から釧路を貫く鉄道の幹線が開通するまでは、小樽は、札幌とか、岩見澤とか、あの地方一帯の物資の集散地点であり、中央文化の移入門戸ででもあったので、その名だけは、僕などにも親しいのだ。札幌は政治の中心都市として、小樽は商業の中心地として、僕などの小さい時分には、札幌と小樽とは必ず誰の口にも上つた。
 僕など、札幌には幾度か行く機会があったけれども、小樽には、遂に行く折もなかった。
 二十二歳で上京する時には、室蘭からの連絡船に乗つたし、上京してから五六年目に、一度帰郷したことがあったが、その時には、函館から汽車が通じていたが、往復とも、小樽は素通りしてしまった。
 初めて、僕が小樽の土を踏んだのは、大正の末期に「不同調」の講演会があった時である。その時には、小樽新聞にも、奈良勝美氏にも大へん世話になった。
 僕の故郷の部落に、一軒雑貨商があるが、そしてそれは今でもつづいているが僕の子供の時分には、一ヶ月に一度づつ、そこの主人自らが仕入れに小樽まで出かけて行くのであった。その当時、汽車で三四時間くらいかかったと思うが、一泊か二泊して帰つて来るのがおきまりだった。多分、今まで仕入れは昔と同じような、小樽の問屋からしているのだろうと思う。
 僕の記憶するところでは、小樽新聞は、北海道で発行されている新聞の中では最も歴史が古いのではないか。もちろん、北海タイムスなどよりも、もっと古いと思っている。札幌で発行される新聞も、いろいろ創刊されたり、廃刊したりして、現在北海タイムスが勢力を持つまでには、かなりいろいろの起伏興亡があったと思うが、その当時から小樽新聞は、悠々として存在していたと思う。そして僕などは子供の頃から、札幌の新聞が、とかく政治的に血眼になっているような中で、小樽新聞のいかにも悠々として、余裕のあるような紙面の調子が好きで、札幌で発行される新聞よりも、小樽新聞を愛読したことを覚えている。
 それから僕が、自分では小樽に行かなくても、小さい時から小樽という名に親しみがあったことの理由のもう一つは、小樽に手宮工場があることだった。田舎で、汽車を見るのは何となく物珍らしく、それに子供の頃までは猶更である。僕はよく子供の時分に、汽車を見に出かけたものである。また、学校の帰りなどに、もう直に汽車が来る時分だという頃だと、わざわざ線路の土手の上などに寝ころんで汽車が来るのを待つたものである。
 もちろん、その時分の北海道の鉄道の速力など、かなりのろのろしたものだった。客車の横に「手宮工場製」と書いてある文字が、走る汽車を見ていても、よく読めたのである。そして、手宮工場というのは、小樽にあるのだということを聞いて、僕は、汽車を見る度びに小樽という土地を思わずにはいられなかった。
「不同調」の講演会でも小樽に行った時、ホンの一瞥した印象だったけれども、僕の見た範囲では、小樽は港町であり、商業都市であるにもかかはらず、何となく悠々として、のんびりした好ましい感じだった。全体を見て歩いたわけではないのだから、瞥見した町に依ることではあろうが、何か長閑といってもいいような感じだったことを覚えている。
 そして、それはちょうど、また小樽新聞そのものの伝統的な感じであるように思うのである。

「濤声」より
昭和18年3月 文松堂

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