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伊波普猷とは?

伊波普猷顕彰碑と墓所

 彼ほど沖縄を識った人はいない
 彼ほど沖縄を愛した人はいない
 彼ほど沖縄を憂えた人はいない

 有名な伊波普猷顕彰碑に刻まれたこの東恩納寛惇の撰文は、「おもろと沖縄学の父 伊波普猷」という碑の中心の一行を挟み、次の2行が続く、

 彼は識った為に愛し愛した為に憂えた
 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった

 この美しい文章と碑に刻まれた東恩納による筆を見に行くだけでも、浦添城跡にある伊波普猷顕彰碑を訪ねる価値は十分にある。碩学東恩納によるこの碑文によって伊波普猷の一般的評価は定まった。友人にこのような文章を書いてもらえる人物とは、いったいどんな人物なのだろうかという興味も湧いてくる。
 しかし、政治好きの多い沖縄の地では「彼ほど沖縄を憂えた人」という側面がクローズアップされ、時代背景を無視した政治的評価という試練を与えている。彼はライブラリアンとして評価されるべき人物ではないだろうか。戦前、彼が館長として沖縄県立図書館で収集、保存した沖縄郷土資料群は、内外の学者、研究者が沖縄を訪ねる動機にすらなったという。「三鳥問答」などで彼は、自ら収集した資料が、誰もがアクセス可能な県立図書館の郷土資料室にあることを誇らしげに書いている。
 そんな、伊波普猷の終焉の地は東京だった。東京で客死したわけではない。大正14年に沖縄の地を離れ、東京に転居し、以後昭和22年に亡くなるまで東京に暮らした。なぜ、沖縄を識り、愛し、憂えた彼が沖縄を離れたのか?

伊波普猷と冬子の不倫

 東京転居の発端は、沖縄県立図書館にある。
 沖縄県立図書館館長の職にあった伊波普猷は、同じ図書館に勤める22歳年下で書記の真栄田マカト(冬子)と不倫関係になる。その後2人がとった行動については、次のように説明されている。

 大正13年春、真栄田冬子は県立図書館を退職、上京して東京女子師範学校附属図書館の図書館司書に転職する。同年12月、伊波普猷も県立図書館長を辞任、学究として「おもろそうし」の研究に没入することを決意する。翌14年2月髭を剃り落とし上京。文京区小石川で冬子との同棲生活をはじめる(当時、普猷49歳、冬子 27歳)。
 学究として再出発する心境を、末吉安恭の追悼文に託し「たとひ郷里の墳墓には葬られなくとも、郷里の人たちの頭の中に葬られるやうにしよう」(「嗚呼末吉君!」全集十巻所収)と述べたという(「伊波普猷 年譜・著書論文目録」昭和51年 伊波普猷生誕百年記念会)。

 伊波普猷の上京は、このように説明されている。不倫という表現をされないことも多い(前掲書では、「恋愛関係」と表現されている。)、全くこの「恋愛関係(不倫関係)」に触れていないまま上京を説明している場合すらある(『沖縄大百科事典』1983 沖縄タイムス社「伊波普猷」の項など)。
 しかし、雑事を嫌いライブラリアンとしての経歴を捨てるとしても、学究として再出発するのなら、自ら収集した豊富な資料が所蔵される沖縄県立図書館のある沖縄を拠点にした方が上京するより良いのは火を見るよりも明らかだ。広範な資料群を捨て、上京することは沖縄学の学者、研究者として自殺に近い行為であり、本人もそれは分っていたはずである。また、五十を前に図書館長を辞し学究として再出発することと、「郷里の墳墓には葬られないこと」に、関連を見出すことは難しい。
 「妻子を捨て、元部下だった親子ほど年の離れた若い女性を選んだこと」を抜きに伊波普猷のこの上京を説明することはできない。
 この行動を道徳的にどうこう言うつもりはない、逆に誠実な行動なのではないかとすら思う(残された本妻とまだ小さい子供の気持ち(特に子供の悲しみは想像するに余りある。)や、事の善悪についての判断は脇に置くという前提が必要ではあるが。)。この行動は彼の学問上の業績を傷つけるものではない。ただ、社会啓蒙家としての評価、官吏としてのマネジメント能力の評価には何らかの影響を与えるかもしれない。
 五十男にしては、思い切ったことをしたものだと思う。伊波と冬子の立場を考えれば伊波が、冬子に対して不誠実な対応をとることがいかに容易だったかは想像できる。冬子の立場に立てば、伊波がどのような約束をしていたとしても東京にこないかもしれないとの不安は大きかったはずだ。冬子に勇気があったという見方も出来る。

入籍と伊波普猷の死 墓所と顕彰碑の建立

 上京後の二人の生活は決して裕福なものではなかったという。昭和16年本妻マウシが亡くなり、同19年8月婚姻届を提出し内縁状態が続いていた伊波普猷と冬子は入籍する。伊波普猷、実に69歳の時であった。伊波は、その約3年後の昭和22年8月13日に、寄寓先の比嘉春潮宅で亡くなる。72歳だった。彼が「たとひ郷里の墳墓には葬られなくとも…」と述べた通り、その遺骨は十三回忌の直前まで東京築地本願寺に安置されたままであった。
 冬子は普猷の没後は信用金庫につとめ、12年後の昭和34年沖縄に帰郷した。
 昭和34年郷里那覇に伊波普猷の墓所と顕彰碑を沖縄に建設すること(同時に記念出版も計画したがこちらは中止)を目的に伊波普猷先生顕彰会が発足。顕彰会は、寄付金の募集を開始、集まった寄付金で、私有地であった浦添城跡内の現在地を昭和35年11月に購入し、浦添村(当時)へ移管した。
 浦添城址は聖域であるため、墓所顕彰碑建設に先立ち、地域住民への説明と了解を得ることを目的に住民総会を開催し、実行委員が、伊波の生涯、人物、功績等を紹介、顕彰の趣旨の説明を行い、満場一致の賛成を得た上で、昭和36年墓所と顕彰碑を建立した。地域住民は、墓所顕彰碑建設のため、道路の補修、地ならし等の協力を惜しまなかったという。

 候補地には、浦添城跡以外に首里末吉町という案もあり、浦添城跡、首里末吉町両候補地を実行委員が踏査し、浦添城跡の方が優れていると判断し、未亡人である冬子が現地を視察して最終的に現在地が決定したという。

参考資料 「伊波普猷先生顕彰会事業報告書」1961 伊波普猷先生顕彰会

文化財巡り(ゆうどれ) 伊波冬子自筆原稿

 伊波が初代館長をつとめ、未亡人である伊波冬子もOGである沖縄県立図書館には、伊波冬子の自筆原稿13点が保管されている。その内の一点『文化財巡り(ゆうどれ)』という原稿がある。文末の日付は1960.10.22となっている。この原稿が、日付から伊波普猷の墓所を決定した視察の時に書かれたものであると分る。

文化財巡り(ゆうどれ)の内容

「…浦添の「ゆうどれ」と浦添城址を見ることにしました。」という書き出しで始まるこの文章には、夫の墓所の予定地を視察に来たという本来の目的には一言も触れていない。ゆうどれ(ようどれ)の説明、顕彰碑の撰文をすることになる東恩納寛惇が、まだ大学生の時、沖縄に帰省して伊波普猷と一緒に浦添城址に金石文を読みに行き、たまたま見つけた瓦が鑑定の結果鎌倉時代のものとわかり伊波が喜んだというエピソード、そして、伊波の碑の先輩達にあたる浦添城址にある様々な碑の一つ一つの説明が続き、浦添城址のことをもっと多くの人に知って欲しいとの彼女の希望がさりげなく書かれている。そして、日の暮れかかるのも忘れ景色に見とれ、那覇に帰る時に街の灯が輝いていたと結ばれている。当日の天気は、曇りがちで、時々小雨がぱらつくと描写されているにもかかわらず読む者には、彼女の晴ればれとした心の中が伝わってくる。

 この原稿を県立図書館で読んだ翌朝、伊波普猷顕彰碑を訪ねた時に、このいじらしい文章が思い出されて何回も訪れている場所なのにふいに涙が流れた。

伊波普猷顕彰碑 観光案内

浦添城跡マップ

 伊波普猷顕彰碑を訪れる前に、沖縄県立図書館を先に訪れ伊波冬子自筆原稿『文化財巡り(ゆうどれ)』を読んでからお出掛けになることをおすすめします。伊波冬子の原稿にもあるように、1609年島津琉球入り当時の悲劇の琉球王 尚寧王は、第二尚氏の正当な墓である玉陵に納骨されることを拒否し、遺言で「浦添ようどれ」に葬られた。
 平成7年浦添ようどれは、尚家22代当主 尚裕によって浦添市民に贈与され(平成4年那覇市には玉陵、識名園を寄贈)、先の大戦で破壊されたようどれは平成17年に復元された。「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の世界遺産に追加リストがあるとしたら「浦添ようどれ」がリストの一番上にあるハズだ。今後、世界遺産に登録されようがされまいが「浦添ようどれ」の持つ歴史的価値には何らの変化もない。一見の価値がある。
 五十男にして恋愛に生き沖縄を離れた伊波普猷の墓が、遊歩道を挟み尚寧王が葬られた「ようどれ」と背中合わせなのは何か奇妙な感じがする。

浦添城跡(浦添ようどれ) map 沖縄本島 A-3

駐車場 17台+車椅子車両用駐車場 1台(但し、遊歩道入口にポールがあり車椅子での入場は難しい幅なので、車椅子で浦添城跡を訪問される場合、先に浦添市役所文化課(TEL 098-876-1234)に問い合わせをされることをおすすめします。)
ようどれは、ゲートがあり、9:00〜18:00開門。伊波普猷の墓所、顕彰碑は24時間入場可能。
浦添城跡は、グスク跡としての観光目的地(グスクの石組みの城壁などを見学する目的)として訪ねるには遺構があまり残っておらず、公園化されているためにあまりおすすめできない。城址東北側の眺望はすばらしいものがある。

浦添ようどれ館 map 沖縄本島 A-3

沖縄県浦添市仲間2-53-1 TEL 098-874-9345
9:00〜17:00 休・月 料金100円
ようどれに関する資料館。浦添城跡通り(県道153号)から曲がり、ようどれに向かう道の左側にある。

伊波普猷

伊波普猷(写真の署名 F.Ifa)

自身が初代館長をつとめた沖縄県立図書館で撮影されたというこの有名な肖像写真からは、物思いにふける学者の肖像というイメージを受ける。また、なぜか物憂げな印象も受ける。
彼の風貌を評価する声は余り聞こえないが、彼の風貌を一目見れば『人物』らしいことはすぐに分る。なかなか一目見て凸出した人物であるという印象を与える人は、古今東西の歴史にあたってもそう多くない。顕彰碑の東恩納寛惇の撰文と合わせ、彼の写真を見るとそのイメージがぴったりと一致する。

伊波普猷 いはふゆう
1876-1947
明治末期−大正期のライブラリアン、明治後期−昭和前期の沖縄の民族学者、言語学者、歴史学者 沖縄生まれ。
沖縄県那覇市生まれ。明治31年東京帝国大学文科大学博言学科卒業。沖縄最初の文学士。沖縄県立図書館初代館長。ライブラリアンとして郷土資料の収集に努め、同時に、沖縄の歴史、言語、民族、文学の研究を進め、沖縄の新聞、雑誌に発表する。
大正14年上京。昭和22年死去。浦添城址の顕彰碑には「おもろと沖縄学の父」と刻まれている。

沖縄県立図書館
那覇市寄宮1-2-16
TEL 098-834-1218
伊波普猷と冬子、ライブラリアンの恋の舞台となった図書館は現在地と異なる。伊波普猷が収集した古文書も、先の大戦によって散逸したという。

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浦添城跡周辺案内図

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