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古琉球

伊波普猷

琉球史の趨勢

 私は今日郷土史に就いて鄙見を述べ度いと存じます。すなはち琉球の代表的人物が自国の立場に就いて如何なる考へを懐いてゐたかといふことをお話致さうと存じます。一体世の大方の人は琉球史上の特殊の時代の人民がはたらき又考へた結果を見て直ちに琉球史を一貫せる精神を捕へようとする傾きがありますが、之は余り宜しくない態度であります。慶長十四年の琉球入とか明治十二年の廃藩置県とかいふやうな社会の秩序の、甚しく乱れた時代にはいつも感情が働き過ぎる故、一般の人民は正当に時勢を解釈することの出来ないものであるが、偉大なる人物は如何なる時代にも其理性を失はないで、正当に時勢を解釈し、且つ誘導して、之に処する道を知らしめるのでありますから、吾人はかかる人物の考へやはたらきによつて、沖縄人の真面目なる所を知らなければなりませぬ。今茲に向象賢や蔡温や宜湾朝保の如き琉球の代表的人物を紹介するに先ちて、沖縄人が他府県人と祖先を同じうするといふ事を述べる必要がありますが、これはかつて新聞や雑誌に書いた事もあるから、ここでは申上げませぬ。(「琉球人の祖先に就いて」参照)兎に角今日の沖縄人は紀元前に九州の一部から南島に殖民した者の子孫であるといふ事丈けを承知して貰ひたい。さてこの上古の殖民地人は久しく本国との連結を保つてゐたが十四世紀の頃に至つて、本国の方では吉野時代の戦乱があり、自分の方でも三山の分争があつたので、本国との連絡は全く断絶して了つたのであります。この時に当つて沖縄人は支那大陸に通じて臣を朱明に称し、盛に其制度文物を輸入したのであります。当時の沖縄人はやがて、支那人に扮した日本人であつたのである。十五世紀の頃に至つて、沖縄島に尚巴志という一英傑が起つて三山を一統した時に、久しく断絶していた本国との連絡は回復せられ、日本及び支那の思潮は滔々として沖縄に入り、十六世紀の初葉に至つて沖縄人は日本及び支那の文明を消化し沖縄的文化を発輝させたのである。是れ即ち尚真王が中央集権を行つた時代である。琉球の万葉ともいふべきオモロが盛に歌はれたのもこの時代である。琉球語を以て金石文や消息文を書いたのもこの時代である。而してこの精神は遂に発して南洋との貿易となり。山原船は遥にスマトラの東岸まで航行して葡萄牙(ポルトガル)の冒険家ピントを驚かしたのである。沖縄人はこの時代に於て既に勇敢なる大和民族として恥かしく無い丈けの資格をあらはしたのであります。処が両帝国の間に介在するの悲しさ、沖縄人は充分にその本領を発揮する事が出来ないで漸く機械として取扱はれる様になつたのである。すなはち島津氏は沖縄の位地を利用して当時鎖国の時代であつたに拘はらず、沖縄の手を通して支那貿易を営んだのであります。しかしながら此頃薩摩と琉球との関係は、至つて散漫なる者であつたが、豊太閤が朝鮮半島に用ゐた勢力の余波は間もなく慶長十四年の琉球征伐となつてあらはれました。是れやがて薩摩と琉球との関係を一変して政治的の関係となす関節であります。爾来征服者たる薩州人は被征服者たる沖縄人を同胞視しないで奴隷視するやうになりました。
 さて沖縄の方では古来国子監や福建あたりで学んで帰つた久米村人が支那思想の代表者で鹿児島で学んで帰つた留学僧の連中が日本思想の代表者であつたが、慶長の頃に至つては此の儒者と僧侶が銘々の職業を離れて政治に嘴を容れるやうになつてゐたのであります。慶長十四年の琉球征伐は畢竟二思想最初の大衝突に過ぎないのであります。かういふ場合に天下の大勢に通じて、自国の立場を知る経世家があつて、能くこの二思想を調和して民衆を誘導していつたならば、かういふ禍を未然に禦ぐ事が出来たに相違ないが、惜い哉かういふ人物は当時一人もゐなかつたので御座います。此戦争の結果、尚寧王以下百余名は捕虜となつて上国し、如才なき薩摩の政治家は思ふ存分にその主なき琉球を経営致しました。尚寧王は俘囚となつて薩摩に在る事二年余、漸く許されて父母の国に帰つたが、さながら島津氏の殖民地に身を寄する一旅客の様であつたと申します。しかしながら島津氏は決して琉球王国を破壊する様な事はしないで、その形式丈けは保存して置いて之を支那貿易の機関に使つたのであります。征服後、島津氏が琉球王をして不相変、支那皇帝の冊封を受けさせたのもこれが為です。諸君もし支那の冊封使が渡来する毎に那覇にゐた二三百人の気の早い薩摩隼人が、支那人に見られまいとして、半年余の間、今帰仁や城間に潜んでゐたといふ事実をお聞きになつたら、成程とうなづかれるでありませう。沖縄が日本と交通してゐる事を隠蔽するといふ事はただに沖縄のためであつたのみならず、又薩摩のためであつたのであります。沖縄人はかういふ風にして支那に近づき、之によつて得た所の利潤の過半を島津氏に納め、その余分を以て自立して来たので御座いますが、間も無く支那には明清の大乱が起つて沖縄人は二三十年間も支那に往く事が出来ないやうになりました。これは実に沖縄に取つて苦痛であつたのみならず島津氏に取つても亦苦痛でありました。この時代のことを俗にフタカチヤの御代と称へてゐます。沖縄人はこの時、支那に使節に遣られるのを非常に嫌つたとの事であります。この時代の沖縄人の頭には支那といふ考へが薄らいで来て、日本といふ考へが強くなつて来たのでありませう。丁度日清戦役頃の沖縄のやうに。兎に角沖縄が薩摩に対する悪感情は漸く和いで参りましたが、経済上の困難は一層増して参りました。この時の有様及びかういふ時に処する道を蔡温はその『独物語』の中に、

唐世替(革命)程の兵乱差起り候はゞ進貢船差遣侯儀不罷成或は十四五年或は二十年三十年も渡唐絶行仕儀案中に侯御當国さへ能々入精本法を以て相治置侯はゞ至其時も国中衣食並諸用事無不足相達尤御国元(薩摩)への進上物は琉物計にて致調達其御断申上可相濟積に侯若御政道其本法にて無之我々之気量才辯迄を以相治候はゞ国中漸々及衰微御蔵方も必至と致當迫侯儀決定之事に侯右之時節渡唐断絶候はゞ御国元へ進上物の儀琉物調も不罷成言語道断之仕合可致出来候

と言つてゐます。沖縄の立場は実に苦しい立場であつたのであります。
 沖縄の立場が以上申し述べた通りでありますから、沖縄人に取つては支那大陸で何人が君臨してもかまはなかつたのであります。康熈年間の動乱に当つて、琉球の使節は清帝及び靖南王に奉る二通の上表文を持参していつたとの事であります。又不断でも琉球の使節は琉球国王の印を捺した白紙を持参していざ鎌倉といふ時どちらにでも融通のきく様にしたとの事です。この紙のことを空道(コウダウ)と申します。(『琉球古今記』の「空道について」参照)。沖縄人の境遇は大義名分を口にするのを許さなかつたのである。沖縄人は生きんが為には如何なる恥辱をも忍んだのである。「食を与ふる者ぞ我が主也(モノクヰユスドワーオシユー)」といふ俚諺もかういふ所から出たのであらうと思ひます。誰が何といつても、沖縄人は死なない限りは、自ら此境遇を脱することが出来なかつたのであります。これが廃藩置県に至るまでの沖縄人の運命でありました。処が明朝が亡んで清朝が興りましたので、沖縄は暫くの間、名実共に日本に属するやうになりましたが、島津氏の方でも琉球を如何に取扱つて可いやら、わからなかつたのであります。島津氏の方にも機を観て琉球の両属を止めようと図つた人もゐたと見えて、十九代の君主、光久の如きは正保三年には明国が政を失して戦乱が止む事のないのを聞いて、此際意を決して沖縄を処分せむ事を幕府に諮つた事がありました。又明暦元年には愛視覚羅氏が支那一統の余威を以て新に使節を沖縄に派遣するといふ噂を聞いて、沖縄をして清国との関係を開く事の無いやうにさせて貰ひ度いと幕府に願うた事もありました。もしこの時島津氏の建議が採用されてゐたら、沖縄は二百年前に支那との関係を絶つてゐたのでありませう。しかしながら徳川氏の平和政策はこの新興の強国と国釁を開く(こくきんをひらく:国と国の隙間が開く、国と国の摩擦の火種となる)事を恐れて、断然たる措置に出づる事が出来なかつたのであります。沖縄は依然として清朝の冊封を受けて其の正朔を奉ずる様になりました。ここで諸君は日清戦争の頃まで清国を慕うてゐた所の久米村人が、此時どんな態度を取つてゐたかといふ事を問はれるでありませう。『王代記』といふちよつとした本によれば、彼等は寛文の頃まで大明の衣冠をつけてゐたが、寛文三年清国の使が琉球に来た時断然片髪を結んで国俗に順つたといふことであります。(この事は正史『球陽』にも出てゐる。)彼等は実にその母国朱明の滅亡を嘆きつつあつたので御座います。以上御話申上げたことで、日支両国間に於ける沖縄の位置はおわかりになつたらうと思ひます。これから本論に這入つて向象賢や蔡温や宜湾朝保がこの間に処していかに考へ又はたらいたかといふことをお話いたさうと存じます。

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「古琉球」改版より
明治四十年八月一日、沖縄教育会にての演説、『沖縄新聞』所載・昭和十七年七月改稿

※本文中には、不快用語が含まれるが、本文の主題は別にあり、その理解のためにこれを残した。

※本文中には、現代では、考古学上の発見などにより、否定された説を含むが、当時の学術水準の到達点を知る目的でそのままとした。

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