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たいやき研究ノート 1

 一般的に、鯛焼きの発明者(考案者)は、浪花家初代と言われる神戸清次郎(かんべせいじろう)氏と信じられている。本当に、明治四十二(1909)年に、鯛焼きは、神戸清次郎氏によって考案され、2009年でたいやきは誕生100周年を迎えるのだろうか?

疑わしい鯛焼き神戸清次郎考案説の源流

 そもそも、どのように「鯛焼き神戸清次郎考案説」が流布されたのか?源流は一冊の本に行き着く。

『明治・大正・昭和 食生活世相史』(1977(昭和52)年 加藤秀俊 柴田書店)
によれば

…(神戸清次郎が)「鯛焼き」を考案し、芝の金助町(現在の金杉)でリヤカーをひきながら明治四十二(一九〇九)年に鯛焼きを売りはじめ、浪花家を創立した。当時は鯛焼き一個一銭であった。…

と書く。すでにこの一文で、著者である加藤秀俊氏が検証を怠ったことが分る。リヤカーは明治42年に存在しない。一般的に大正期に考案されたと考えられている(「国産リヤカーの出現前後」梶原利夫 「自転車技術情報」No.72 1997 自転車産業振興協会)。もしも明治42年に神戸清次郎がリヤカーをひいていたのなら、リヤカーの発明者でもあるということになる。そんなことがありえるだろうか?
 加藤氏が何を根拠にこの「鯛焼き神戸清次郎考案説」を唱えたのか、巻末に挙げる主要参考文献の検証を行った。単行本53冊のうち2冊(『人間と商品-商品の社会学-』株式会社CDI編1974、『Pana Cooking エレック料理入門』ナショナルエレック料理友の会刊)を除く全51冊、社史全7冊、雑誌4冊中の1冊、新聞に関しては、加藤氏は、ただ「〇〇新聞」と記載し(それも産経を除く大手全国紙4紙全てと東京日日新聞と東京新聞の6紙)何年何月何日との記載が全く無く完全な検証はほぼ不可能なので、出来る範囲で記事検索を行った。
 その結果、上記の書籍群の中には「鯛焼きの考案」について触れたものは、一冊も無いことが分った。
 巻末には、参考文献とともに、取材先として「浪花家総本店 神戸守一氏」の名前の記載がある。おそらく、加藤氏は、神戸守一氏の話しを検証無しに、そのまま書いた。そのため、リヤカーという本来当時は無かったであろうものの記述が混じってしまったのであろう。鯛焼きの発明・考案について上記『明治・大正・昭和 食生活世相史』を源流とする書籍、資料については信頼性が極めて低い。

 そもそもなぜ、突然「鯛焼き誕生の経緯」が『明治・大正・昭和 食生活世相史』(1977)に掲載されたのか?「およげ!たいやきくん」(1975発売)の空前の大ヒットで、「鯛焼き」に注目が集まったことに理由があったと思われる。「およげ!たいやきくん」ヒット以前には、駄菓子である鯛焼きの誕生エピソードに興味を持つ物好きは皆無に等しかった。鯛焼きの誕生を調べる場合、『明治・大正・昭和 食生活世相史』を参考文献に挙げる書籍を除くこと及び出来れば原典が1976(昭和51)年(「およげ!たいやきくん」のヒット)以前に書かれたものを参考とすることが望ましい。『明治・大正・昭和 食生活世相史』は、あまりに「およげ!たいやきくん」ブームと執筆時期が隣接しており、鯛焼き研究の資料としてはこの点からも不適切な文献である。次に、神戸守一氏の鯛焼きに関する複数の発言を検証する。

神戸守一氏の鯛焼きに関する発言の信憑性

『たこやき』(熊谷真菜 平成5(1993)年 リブロポート)によれば

(神戸清次郎は)…当時はやっていた亀の甲焼きをはじめたようですが、そうこうするするうちに鯛を型にして、餡を入れる「たいやき」を考案したんです。そのころは飛行船のツェッペリンがやってくるとツェッペリン焼きが出てきたり、野球の人気が高まると、ボールの形をしたホームラン焼きとか、そういうはやりものがすぐに焼型のデザインに反映されました。…、鯛の形はすぐに評判になりました。それが明治四二年のことだと聞いています。…

『たい焼の魚拓』(宮嶋康彦 平成14(2002)年 JTB)によれば

明治42年(1909)、たい焼は1匹1銭の駄菓子として産声をあげた。
…大阪から神戸清次郎という男が職を求めて東京に上がってきた。
「いっちょ、今川焼屋でも始めるか」と、清次郎は考えた。しかし、ただの丸型じゃ、芸がない。魚の大将、鯛の形にしてはどうか。
 大正12年生れの3代目、神戸守一さんが言う。
「めでてえし、だいいち、本物なんて高くて食えねえじゃねえか」
 こうして東京麹町に、たい焼の店「浪花家」の暖簾が掲げられた。
 味に自身はあった。しかし、明治末期といえば、格式が幅を利かせていた時代。たい焼の格は団子や大福よりも下。「下の下の菓子だったわけよ。さっぱり売れなかったようだよ」と神戸さん。小柄で口のちょび髭が愛嬌だ。
 たかがたい焼、しかし、腐っても鯛。福があった。大正になると、第一次世界大戦、米騒動にシベリア出兵、関東大震災…と、景気のいい話は聞こえてこない。さりとて、甘いものの誘惑は絶ちがたい。なにしろ1銭で尾頭つき。江戸っ子の見栄も吹き飛んだ。たい焼は庶民の町で市民権を得るようになっていく。

三冊の本での証言内容の比較

 一番最初に目を引くのは、『明治・大正・昭和 食生活世相史』と『たい焼の魚拓』では、創業の地が異なることだ。1977年の証言では、芝の金助町だったが、2002年には、麹町に変化している。次に目を引くのは、リヤカーをひいていた神戸清次郎が、店を一軒構えたことに証言の内容が変化していることである。

 また、鯛焼き発売後、すぐに売れたかどうかについて『たこやき』(1993年)では、「鯛の形はすぐに評判になり」、『たい焼の魚拓』では、「…さっぱり売れなかったようだよ」と述べている。同時に、鯛焼きの前に、亀の甲焼きを商っていたかが、この2冊で異なる。ちなみに、『明治・大正・昭和 食生活世相史』でも、鯛焼きの前に亀の子焼きを商っていたと書かれている。

表にまとめると以上のようになる

『食生活世相史』1977年 『たこやき』 1993年 『たい焼の魚拓』2002年
創業の場所 (東京)芝の金助町 東京 東京麹町
販売方法 リヤカーでのひき売り 店売り
売行き すぐに評判 さっぱり売れなかった
鯛焼き以前 亀の子焼き 亀の甲焼き

 鯛焼きを現在も商い続ける浪花家の主人として、(神戸守一氏にとって)叔父による自分の家のメイン商品の発明、考案という大切なエピソードにしては、あまりに大きく内容が変化しており、証言の信憑性には疑問がある。上記『たこやき』と『たい焼の魚拓』の2冊では、今回は割愛したが神戸清次郎氏が、東京に上京したエピソードも微に入り細に入りたっぷり語られており、それだけに、誕生の経緯の大きな変化は、不自然で、語られている経緯が神戸守一氏の創作であるから生じているのではないかとの疑惑にもつながる。
 同じ疑惑は、過去、取材者にも生じており、執筆にあたり神戸守一氏に3回取材したという『たい焼の魚拓』の著者宮嶋康彦氏は、次のように述べる「…「浪花家総本店」は、たい焼の元祖に違いないが、たい型を考案したのは「かっぱ橋道具街」の図案家だったのかもしれない。…」(同書11ページ)。
 この仮説(「浪花家総本店」が、たい焼の元祖であると(明治42年考案説を支持)した上での「たい型「かっぱ橋道具街」の図案家考案説」)自体は、合羽橋商店街、道具街は、大正2年ごろに農道が現在の道路幅に拡張されてから形成されたもの(「合羽橋商店街」197- 東京合羽橋商店街振興組合編 など)であることから簡単に否定される説ではある。
 また、この仮説によって、「たい型の考案」イコール「鯛焼きの元祖(考案)」ではないという問題提起もなされているが、ここでは神戸守一氏の鯛焼き誕生に関する発言について、取材者にも疑問を持たれていたことを指摘するにとどめる。

次回につづく

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