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木の都

織田作之助

 大阪は木のない都だといわれているが、しかし私の幼時の記憶は不思議に木と結びついている。
 それは、生国魂(いくたま)神社の境内の、巳(み)さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟の老木であったり、北向八幡の境内の蓮地に落(はま)った時に濡れた着物を干した銀杏の木であったり、中寺町のお寺の境内の蝉の色を隠した松の老木であったり、源聖寺(げんしようじ)坂や口縄(くちなわ)坂を緑の色で覆うていた木木であったり、−私はけっして木のない都で育ったわけではなかった。大阪はすくなくとも私にとっては木のない都ではなかったのである。
 試みに、千日前界隈の見晴らしの利く建物の上から、はるか東の方を、北より順に高津(こうず)の高台、生玉の高台、夕陽丘の高台と見て行けば、何百年の昔からの静けさをしんと底にたたえて鬱蒼たる縁の色が、煙と挨に濁った大気の中になお失われずにそこにあることがうなずかれよう。
 そこは俗に上町とよばれる一角である。上町に育った私たちは船場、島ノ内、千日前界隈へ行くことを、「下へ行く」といっていたけれども、しかし俗にいう下町に対する意味での上町ではなかった。高台にある町ゆえに上町とよばれたまでで、ここには東京の山の手といったような意味も趣きもなかった。これらの高台の町は、寺院を中心に生れた町であり、「高き屋に登りてみれば」と仰せられた高津宮の跡をもつ町であり、町の品格は古い伝統の高さに静まりかえっているのを貴しとするのが当然で、事実またその趣きもうかがわれるけれども、しかし例えば高津表門筋や生玉の馬場先や中寺町のガタロ横町などという町は、もう元禄の昔より大阪町人の自由な下町の匂いがむんむん漂うていた。上町の私たちは下町の子として育って来たのである。
 路地の多い−というのはつまり貧乏人の多い町であった。同時に坂の多い町であった。高台の町として当然のことである。「下へ行く」というのは、坂を西に降りて行くということなのである。数多い坂の中で、地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂、口縄坂……と、坂の名を誌すだけでも私の想いはなつかしさにしびれるが、とりわけなつかしいのは口縄坂である。
 口縄(くちなわ)とは大阪で蛇のことである。といえば、はや察せられるように、口縄坂はまことに蛇の如くくねくね木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。蛇坂といってしまえば打ちこわしになるところを、くちなわ坂とよんだところに情調もおかし味もうかがわれ、この名のゆえに大阪では一番さきに頭に泛ぶ坂なのだが、しかし年少の頃の私は口縄坂という名称のもつ趣きには注意が向かず、むしろその坂を登り詰めた高台が夕陽丘とよばれ、その界隈の町が夕陽丘であることの方に、淡い青春の憩いが傾いた。夕陽丘とは古くからある名であろう。昔この高台からはるかに西を望めば、浪華の海に夕陽の落ちるのが眺められたのであろう。藤原家隆卿であろうか「ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入日ををがみつるかな」とこの高台で歌った頃には、もう夕陽丘の名は約束されていたかと思われる。しかし、再び年少の頃の私は、そのような故事来歴は与り知らず、ただ口縄坂の中腹に夕陽丘女学校があることに、年少多感の胸をひそかに燃やしていたのである。夕暮わけもなく坂の上に佇んでいた私の顔が、坂を上って来る制服のひとをみて、夕陽を浴びたようにぱっと赧くなったことも、今はなつかしい想い出である。
 その頃、私は高津宮跡にある中学校の生徒であった。しかし、中学校を卒業して京都の高等学校へはいると、もう私の青春はこの町から吉田へ、移ってしまった。少年の私を楽ませてくれた駒ケ池の夜店や榎の夜店なども、たまに帰省した高校生の眼には、もはや十年一日の古障子の如きけちな風景でしかなかった。やがて私は高等学校在学中に両親を失い、ひいては無人になった家を畳んでしまうと、もうこの町とは殆んど没交渉になってしまった。天涯孤独の境遇は、転々とした放浪めく生活に馴れやすく、故郷の町は私の頭から去ってしまった。その後私はいくつかの作品でこの町を描いたけれども、しかしそれは著しく架空の匂いを帯びていて、現実の町を描いたとはいえなかった。その町を架空に描きながら現実のその町を訪れてみようという気も、物ぐさの私には起らなかった。
 ところが、去年の初春、本籍地の区役所へ出掛けねばならぬ用向きが生じた。区役所へ行くには、その町を通らねばならない。十年振りにその町を訪れる機会が来たわけだと、私は多少の感懐を持った。そして、どの坂を登ってその町へ行こうかと、ふと思案したが、足は自然に口縄坂へ向いた。しかし、夕陽丘女学校はどこへ移転してしまったのか、校門には「青年塾堂」という看板が掛っていた。かつて中学生の私はこの禁断の校門を一度だけくぐったことがある。当時夕陽丘女学校は籠球部を創設したというので、私の中学校に指導選手の派遣を依頼して来た。昔らしい呑気な話である。私の中学校は籠球にかけてはその頃の中等野球界の和歌山中学のような地位を占めていたのである。私はちょうど籠球部へ籍を入れて四日目だったが、指導選手のあとにのこのこ随いて行って、夕陽丘の校門をくぐったのである。ところが指導を受ける生徒の中に偶然水原という、私は知っているが向うは知らぬ美しい少女がいたので、私はうろたえた。水原は指導選手と称する私が指導を受ける少女たちよりも下手な投球ぶりをするのを見て、何と思ったか、私は知らぬ。それきり私は籠球部をよし、再びその校門をくぐることもなかった。そのことを想いだしながら、私は坂を登った。
 登り詰めたところは露地である。露地を突き抜けて、南へ折れると四天王寺、北へ折れると生国魂(いくたま)神社、神社と仏閣を結ぶこの往来にはさすがに伝統の匂いが黴のように漂うて、仏師の店の「作家」とのみ書いた浮彫の看板も依怙地なまでにここでは似合い、不思議に移り変りの尠い町であることが、十年振りの私の眼にもうなずけた。北へ折れてガタロ横丁の方へ行く片影の途上、寺も家も木も昔のままにそこにあり、町の容子がすこしも昔と変っていないのを私は喜んだが、しかし家の軒が一斉に低くなっているように思われて、ふと架空の町を歩いているような気もした。しかしこれは、私の背丈がもう昔のままでなくなっているせいであろう。
 下駄屋の隣に薬屋があった。薬屋の隣に風呂屋があった。風呂屋の隣に床屋があった。床屋の隣に仏壇屋があった。仏壇屋の隣に桶屋があった。桶屋の隣に標札屋があった。標札屋の隣に……(と見て行って、私はおやと思った)本屋はもうなかったのである。
 善書堂という本屋であった。「少年倶楽部」や「蟻の塔」を愛読し、熱心なその投書家であった私は、それらの雑誌の発売日が近づくと、私の応募した笑話が活字になっているかどうかをたしかめるために、日に二度も三度もその本屋へ足を運んだものである。善書堂は古本や貸本も扱っていて、立川文庫もあった。尋常六年生の私が国木田独歩の「正直者」や森田草平の「煤煙」や有島武郎の「カインの末裔」などを読み耽って、危く中学校へ入り損ねたのも、ここの書棚を漁ったせいであった。
 その善書堂が今はもうなくなっているのである。主人は鼻の大きな人であった。古本を売る時の私は、その鼻の大きさが随分気になったものだと想い出しながら、今は、「矢野名曲堂」という看板の掛っているかつての善書堂の軒先に佇んでいると、隣の標札屋の老人が、三十年一日の如く標札を書いていた手をやめて、じろりとこちらを見た。そのイボの多い顔に見覚えがある。私は挨拶しようと思って近寄って行ったが、その老人は私に気づかず、そして何思ったか眼鏡を外すと、すっと奥へひっこんでしまった。私はすかされた想いをもて余し、ふと矢野名曲堂へはいって見ようと思った。区役所へ出頭する時刻には、まだ少し間があった。
 店の中は薄暗かった。白昼の往来の明るさからいきなり変ったその暗さに私はまごついて、覚束ない視線を泳がせたが、壁に掛ったベートベンのデスマスクと船の浮袋だけはどちらも白いだけにすぐそれと判った。古い名曲レコードの売買や交換を専門にやっているらしい店の壁に船の浮袋はおかしいと思ったが、それよりも私はやがて出て来た主人の顔に注意した。はじめははっきり見えなかったが、だんだんに視力が恢復して来ると、おや、どこかで見た顔だと思った。しかし、どこで見たかは思い出せなかった。鼻はそんなに大きくなく、勿論もとの善書堂の主人ではなかった。その代り、唇が分厚く大きくて、その唇を金魚のようにパクパクさせてものをいう癖があるのを見て、徳川夢声に似ているとふと思ったが、しかし、どこかの銭湯の番台で見たことがあるようにも思われた。年は五十を過ぎているらしく、いずれにしても、名曲堂などというハイカラな商売にふさわしい主人には見えなかった。そういえば、だいいち店そのものもその町にふさわしくない。もっとも区役所へ行く途中、故郷の白昼の町でしんねりむっつり音楽を聴くというのも何かチグハグであろう。しかし、私はその主人に向って、いきなり善書堂のことや町のことを話しかける気もべつだん起らなかったので、黙って何枚かのレコードを聴いた。かつて少年倶楽部から笑話の景品に二十四穴のハモニカを貰い、それが機縁となって中学校へはいるとラムネ倶楽部というハモニカ研究会に籍を置いて、大いに音楽に傾倒したことなど想い出しながら、聴き終ると、咽喉が乾いたので私は水を所望し、はい只今と主人がひっこんだ隙に、懐中から財布をとりだしてひそかに中を覗いた。主人はすぐ出て来て、コップを置く前に、素早く台の上を拭いた。
 何枚かのレコードを購って出ようとすると、雨であった。狐の嫁入りだから直ぐやむだろうと暫らく待っていたが、なかなかやみそうになく、本降りになった。主人は私が腕時計を覗いたのを見て、お急ぎでしたら、と傘を貸してくれた。区役所からの帰り、市電に乗ろうとした拍子に、畳んだ傘の矢野という印が眼に止まり、ああ、あの矢野だったかと、私ははじめて想いだした。京都の学生街の吉田に矢野精養軒という洋食屋があった。かつてそこの主人が、いま私が傘を借りて来た名曲堂の主人と同じ人であることを想いだしたのである。もう十年も前のこと故、どこかで見た顔だと思いながらにわかに想い出せなかったのであろうが、想い出して見ると、いろんな細かいことも記憶に残っていた。以前から私は財布の中にいくらはいっているか知らずに飲食したり買物したりして、勘定が足りずに赤面することがしばしばあったが、矢野精養軒の主人はそんな時気前よく、いつでもようござんすと貸してくれたものである。ポークソテーが店の自慢になっていたが、ほかの料理もみな美味く、ことに野菜は全部酢漬けで、セロリーはいつもただで食べさせてくれ、なお、毎月新譜のレコードを購入して聴かせていた。それが皆学生好みの洋楽の名曲レコードであったのも、今にして想えば奇しき縁ですねと、十日ほど経って傘を返しがてら行った時主人に話すと、ああ、あなたでしたか、道理で見たことのあるお方だと思っていましたが、しかし変られましたなと、主人はお世辞でなく気づいたようで、そして奇しき縁といえば、全くおかしいような話でしてねと、こんな話をした。
 主人はもと船乗りで、子供の頃から欧州航路の船に雇われて、鑵炊きをしたり、食堂の皿洗いをしたり、コックをしたりしたが、四十の歳に陸へ上って、京都の吉田で洋食屋をはじめた。が、コックの腕に自信があり過ぎて、良い材料を使って美味いものを安く学生さんに食べさせるということが商売気を離れた道楽みたいになってしまったから、儲けるということには無頓着で、結局月々損を重ねて行ったあげく、店はつぶれてしまった。すっかり整理したあとに残ったのは、学生さんに聴かせるためにと毎月費用を惜しまず購入して来たままに溜っていた莫大な数の名曲レコードで、これだけは手放すのが惜しいと、大阪へ引越す時に持って来たのが、とどのつまり今の名曲堂をはじめる動機になったのだという。そして、よりによってこんな辺鄙な町で商売をはじめたのは、売れる売れぬよりも、老舗代や家賃がやすかったというただそれだけの理由、人間も家賃の高いやすいを気にするようではもうお了いですなと、主人はふと自嘲的な口調になって、わたしも洋食屋をやったりレコード店をやったり、随分永いこと少しも世の中の役に立たぬ無駄な苦労をして来ました。四十の歳に陸へ上ったのが間違いだったかも知れません、あんなものを飾って置いてもかえって後悔の種ですよと、壁に掛った船の浮袋を指して、しかしわたしもまだ五十三です、……まだまだと云っているところへ、只今とランドセルを背負った少年がはいって来て、新坊、挨拶せんかと主人が云った時には、もうこそこそと奥へ姿を消してしまっていた。どうも無口な奴でと、しかし主人はうれしそうに云い、こんど中学校を受けるのだが、父親に似ず無口だから口答試問が心配だと、急に声が低くなった。たしかお子さんは二人だったがと云うと、ああ、姉の方ですか、あの頃はあなたまだ新坊ぐらいでしたが、もうとっくに女学校を出て、今北浜の会社へ勤めていますと、主人の声はまた大きくなった。
 帰ろうとすると、また雨であった、なんだか雨男になったみたいですなと私は苦笑して、返すために持って行った傘をその儘また借りて帰ったが、その傘を再び返しに行くことはつまりその町を訪れることになるわけで、傘が取り持つ縁だと私はひとり笑った。そして、敢て因縁をいうならば、たまたま名曲堂が私の故郷の町にあったということは、つまり私の第二の青春の町であった京都の吉田が第一の青春の町へ移って来て重なり合ったことになるわけだと、この二重写しで写された遠いかずかずの青春にいま濡れる想いで、雨の口縄坂を降りて行った。
 半月余り経ってその傘を返しに行くと、新坊落第しましたよと、主人は顔を見るなり云った。あの中学そんなに競争がはげしかったかな、しかし来年もう一度受けるという手もありますよと慰めると、主人は、いやもう学問は諦めさせて、新聞配達にしましたとこともなげに云って、私を驚かせた。女の子は女学校ぐらい出て置かねと嫁に行く時肩身の狭いこともあろうと思って、娘は女学校へやったが、しかし男の子は学問がなくても働くことさえ知っておれば、立派に世間へ通るし人の役に立つ、だから不得手な学問は諦めさせて、働くことを覚えさせようと新聞配達にした、子供の頃から身体を責めて働く癖をつけとけば、きっとましな人間になるだろうというのであった。
 帰り途、ひっそりと黄昏れている口縄坂の石段を降りて来ると、下から登って来た少年がピョコンと頭を下げて、そのままピョンピョンと行ってしまった。新聞をかかえ、新坊であった。その後私は、新坊が新聞を配り終えた疲れた足取りで名曲堂へ帰って来るのを、何度か目撃したが、新坊はいつみても黙って硝子扉を押してはいって来ると、そのまま父親にも口を利かずにこそこそ奥へ姿を消してしまうのだった。レコードを聴いている私に遠慮して声を出さないのであろうか、ひとつにはもともと無口らしかった。眉毛は薄いが、顔立ちはこぢんまりと綺麗にまとまって、半ズボンの下にむきだしにしている足は、女の子のように白かった。新坊が帰って来ると私はいつもレコードを止めて貰って、主人が奥の新坊に風呂へ行って来いとか、菓子の配給があったから食べろとか声を掛ける隙をつくるようにした。奥ではうんと一言返辞があるだけだったが、父子の愛情が通う温さに私はあまくしびれて、それは音楽以上だった。
 夏が来ると、簡閲点呼の予習を兼ねた在郷軍人会の訓練がはじまり、自分の仕事にも追われたので、私は暫く名曲堂へ顔を見せなかった。七月一日は夕陽丘の愛染堂のお祭で、この日は大阪の娘さん達がその年になってはじめて浴衣を着て愛染様に見せに行く日だと、名曲堂の娘さんに聴いていたが、私は行けなかった。七月九日は生国魂の夏祭であった。訓練は済んでいた。私は、十年振りにお詣りする相棒に新坊を選ぼうと思った。そして祭の夜店で何か買ってやることを、ひそかに楽しみながら、わざと夜をえらんで名曲堂へ行くと、新坊はつい最近名古屋の工場へ徴用されて今はそこの寄宿舎にいるとのことであった、私は名曲堂へ来る途中の薬屋で見つけたメタボリンを新坊に送ってやってくれと渡して、レコードを開くのは忘れて、ひとり祭見物に行った。
 その日行ったきり、再び仕事に追われて名曲堂から遠ざかっているうちに、夏は過ぎた。部屋の中へ迷い込んで来る虫を、夏の虫かと思って団扇で敲くと、チリチリと哀れな鳴声のまま息絶えて、もう秋の虫である。ある日名曲堂から葉書が来た。お探しのレコードが手にはいったから、お暇の時に寄ってくれと娘さんの字らしかった。ボードレエルの「旅への誘い」をデュパルクの作曲でパンセラが歌っている古いレコードであった。このレコードを私は京都にいた時分持っていたが、その頃私の下宿へ時々なんとなく遊びに来ていた女のひとが誤って割ってしまい、そしてそのひとはそれを苦にしたのかそれきり顔を見せなくなった。肩がずんぐりして、ひどい近眼であったが、二年前その妹さんがどうして私のことを知ったのか、そのひとの死んだことを知らせてくれた時、私は取り返しのつかぬ想いがした。そんなわけでなつかしいレコードである。本来が青春と無緑であり得ない文学の仕事をしながら、その仕事に追われてかえってかつての自分の青春を暫らく忘れていた私は、その名曲堂からの葉書を見て、にわかになつかしく、久し振りに口縄坂を登った。
 ところが名曲堂へ行ってみると、主人は居らず、娘さんがひとり店番をしていて、父は昨夜から名古屋へ行っているので、ちょうど日曜日で会社が休みなのを幸い、こうして留守番をしているのだという。聴けば、新坊が昨夜工場に無断で帰って来たのだ。一昨夜寄宿舎で雨の音を聴いていると、ふと家が恋しくなって、父や姉の傍で寝たいなと思うと、今までになかったことだのに、もうたまらなくなり、ふらふら昼の汽車に乗ってしまったのやいう云い分けを、しかし父親は承知せずに、その晩泊めようとせず、夜行に乗せて名古屋まで送って行ったということだった。一晩も泊めずに帰してしまったかと想えば不憫でしたが、という娘さんの口調の中に、私は二十五の年齢を見た。二十五といえば稍婚期遅れの方だが、しかし清潔に澄んだ瞳には屈託のない若さがたたえられていて、京都で見た頃まだ女学校へはいったばかしであったこのひとの面影も両の頬に残って失われていず、凛とした口調の中に通(かよ)っている弟への愛情にも、素直な感傷がうかがわれた。しかし愛情はむしろ五十過ぎた父親の方が強かったのではあるまいか。主人は送って行く汽車の中で食べさせるのだと、昔とった庖丁によりをかけて自分で弁当を作ったという。
 この父親の愛情は私の胸を温めたが、それから十日ばかし経って行くと、主人は私の顔を見るなり、新坊は駄目ですよと、思いがけぬわが子への苦情だった。訓されて帰ったものの、やはり家が恋しいと、三日にあげず手紙が来るらしかった。働きに行って家を恋しがるようでどうするか、わたしは子供の時から四十歳まで船に乗っていたが、どこの海の上でもそんな女々しい考えを起したことは一度もなかった。馬鹿者めと、主人は私に食って掛るように云い、この主人の鞭のはげしさは意外であった。帰りの途は暗く、寺の前を通るとき、ふと木犀の香が暗がりに閃いた。
 冬が来た。新坊がまたふらふらと帰って来て、叱られて帰って行ったという話を聴いて、再び胸を痛めたきり、私はまた名曲堂から遠ざかっていた。主人や娘さんはどうしているだろうか、新坊は一生懸命働いているだろうかと時にふれ思わぬこともなかったが、そしてまた、始終来ていた客がぶっつり来なくなることは名曲堂の人たちにとっても淋しい気がすることであろうと気にならぬこともなかったが、出不精の上に、私の健康は自分の仕事だけが精一杯の状態であった。欠かせぬ会合にも不義理勝ちで、口縄坂は何か遠すぎた。そして、名曲堂のこともいつか遠い想いとなってしまって、年の暮が来た。
 年の暮は何か人恋しくなる。ことしはもはや名曲堂の人たちに会えぬかと思うと、急に顔を見せねば悪いような気がし、またなつかしくもなったので、すこし風邪気だったが、私は口縄坂を登って行った。坂の途中でマスクを外して、一息つき、そして名曲堂の前まで来ると、表戸が閉っていて「時局に鑑み廃業仕候」と貼紙がある。中にいるのだろうと、戸を敲いたが、返事はない。錠が表から降りている。どこかへ宿替えしたんですかと、驚いて隣の標札屋の老人にきくと、名古屋へ行ったという。名古屋といえば新坊の……と重ねてきくと、さいなと老人はうなずき、新坊が家を恋しがって、いくら云いきかせても帰りたがるので、主人は散々思案したあげく、いっそ一家をあげて新坊のいる名古屋へ行き、寝起きを共にして一緒に働けば新坊ももう家を恋しがることもないわけだ。それよりほかに新坊の帰りたがる気持をとめる方法はないし、まごまごしていると、自分にも徴用が来るかも知れないと考え、二十日ほど前に店を畳んで娘さんと一緒に発ってしまった。娘さんも会社をやめて一緒に働くらしい。なんといっても子や弟いうもんは可愛いもんやさかいなと、もう七十を越したかと思われる標札屋の老人はぼそぼそと語って、眼鏡を外し、眼やにを拭いた。私がもとこの町の少年であったということには気づかぬらしく、私ももうそれには触れたくなかった。
 口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分はあるまいと思った。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直って来たように思われた。風は木の梢にはげしく突っ掛っていた。

「新潮」
昭和19年3月1日 第41年3号

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