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六白金星

織田作之助

 楢雄(ならお)は生れつき頭が悪く、近眼で、何をさせても鈍(どん)臭い子供だったが、ただ一つ蝿を獲るのが巧くて、心の寂しい時は蝿を獲った。蝿という奴は横と上は見えるが正面は見えぬ故、真っ直ぐ手を持って行けばいいのだと言いながら、あっという間に掌の中へ二匹入れてしまうと、それで心が慰まるらしく、またその鮮かさをひそかに自慢にしているらしく、それが一層楢雄を頭の悪いしょんぼりした子供に見せていた。ふと哀れで、だから人がつい名人だと乗せてやると、もうわれを忘れて日が暮れても蝿獲りをやめようともせず、夕闇の中でしきりに眼鏡の位置を直しながらそこら中睨み廻し、その根気の良さはふと狂気めいていた。
 そんな楢雄を父親の圭介はいじらしいと思う前に、苦々しい感じがイライラと奥歯に来て、ギリギリと鳴った。圭介は年中土曜の夜宅へ帰って来て、日曜の朝にはもう見えず、いわばたまにしか顔を見せぬ代り、来るたびの小言だった、
「莫迦な真似をせずに修一を見習え」
 そんな時、兄の修一はわざとらしい読本の朗読で、学校では級長であった。見れば兄は頭の大きなところ、眉毛が毛虫のように太いところ、口を歪めてものをいうところなど、父親にそっくりで、その点でも父親の気に入りらしかった。
 が、それにくらべると、楢雄はだいいち眉毛からしてフワフワと薄くて、顔全体がノッペリし、だから自分は父親に嫌われているのだと、次第にひがみ根性が出た。そして、この根性で向うと、なお嫌われているような気がして、いっそサバサバしたが、けれどもやはり子供心に悲しく、嫌われているのは頭が悪くて学校の出来ないせいだと、せっせと勉強してみても、しかし兄には追い付けず、兄の後(うしろ)でこが異様に飛び出ているのを見て、何か溜息つき、溜息つきながら寝るときまって空を飛ぶ夢、そして明け方には牛に頭を噛じられる夢を見ているうちに、やがて十三になった。
 ある夜、何にうなされたのか、覚えはなかったが、はっと眼をさますと、蒲団も畳もなくなっていて、板の上に寝ていると思った、いきなり飛び起きて、
「泥棒や、泥棒や。畳がない」
 乾いた声でおろおろ叫びながら、階下の両親の寝室へはいって行くと、スタンドがまだついていて、
「え、泥棒……?」
 と、父親の驚いた手が母の首から離れた。
 母も父親の胸から自分の胸を離して、
「畳がどうしたのです。楢雄、しっかりしなさい」
 くるりと床の間の方を向いて、達磨の絵にむかって泥棒や泥棒やと叫びながら、ヒーヒーと青い声を絞りだしている楢雄の変な素振りを、さすがに母親の寿枝はおかしいと思ったのだ。
「二階の畳が一枚もない。眼鏡もとられた」
 そして楢雄はつと出て行くと、便所にはいり、
「津波が来た。大津波が来て蒲団も畳もさらわれた。猿股の紐が流れてくる」
 あらぬことを口走りながらジャージャーと板の間の上へ放尿したのち、ふらふらと二階へ上ると、けろりとした顔で元の蒲団の中へもぐり込み、グウグウ鼾をかいた。隣の蒲団では、中学二年生の修一が亀の子のように首をひっこめて、こっそり煙草を吸いながらトウシャ刷りの怪しげな本に読み耽り、楢雄の方は見向きもしなかった。
 それから一月許りたった雪の朝、まだ夜の明けぬうちから突然玄関の呼鈴が乱暴に鳴ったので、驚いた寿枝が出てみると、楢雄が真青な顔で突っ立っていた。二階で寝ていた筈だのにいつの間に着変えたのか、黒ズボンをはき、メリヤスのシャツ一枚で、びしょ濡れに雪が掛っていた。雪の道をさまよい歩いて来たことが一眼に判り、どうしたのかと肩を掴んだが答えず、栓抜きひょうたんのようなフワフワした足取りで二階へ上ってしまった。すぐ随いて上り、見れば枕元には本棚から抜きだした本が堆高く積み重ねられてあり、おまけにその頂上にきちんと畳んだ寝巻をのせ、その寝巻の上へ床の間の菊の花と鉛筆と蜜柑が置かれてあった。
「楢雄、これは何の真似です」
 しかし、楢雄は答えようがなかった。寝ていると、急に得体の知れぬ力が自分に迫って来たのだが、それを防ごうとする自分の力が迫って来る力に較べて弱すぎ、均衡(バランス)が破れたという感じがたまらなく怖くなり、何とかして均衡を保とうとして、本を積み重ねてみたり、その上へゴチャゴチャと置いてみたりしたが、それでも防げず、たまりかねて飛び出したのだという事情は、自分でもうまく言えなかったし、言っても判って貰えないと思ったのだ。
 その晩、圭介は寿枝から話をきいて、早発性痴呆症だと苦り切った。

 中学校へはいった年の夏、兄の修一がなに思ったのか楢雄を家の近くの香櫨園の海岸へ連れ出して、お前ももう中学生だから教えてやるがと、ジロリと楢雄の顔を覗き込みながら、いきなり、
 「俺たちは妾の子やぞ」
 と、言った。ふと声がかすれ、しかしそのためかえって凄んで聴えた筈だがと、修一は思ったが、楢雄はぼそんとして、
 「妾て何やねん?」
 効果をねらって、わざと黄昏刻の海岸を選んだ修一は、すっかり拍子抜けしてしまった。
 修一は物心つき、次第に勘付いているのだ。型を押したような父の週末の帰宅は、芦屋で病院を経営するかたわら、大阪の大学病院へも出て忙しいためだとの母親の言葉は、尤もらしかったが、修一は欺されなかった。香櫨園の自宅から芦屋まで歩いて一時間も掛らぬのに、ついぞ父の病院とやらを見せて貰ったこともなく、おまけに芦屋中を調べてみても自分と同じ村瀬の姓の病院はない。しかも父の帰宅中は仔細ありげなひそひそ話、時には母の泣声、父の呶声が聴かれるなど、思い合わせてみると芦屋の方が本宅で香櫨園のわが家は妾宅だと、はっきり嗅ぎつけた途端、まず生理的に不愉快になり、前途が真っ暗になったような気持に悩まされたが、わずかに弟の楢雄を掴えて、寝耳に水の話を知らせてやるという残酷めいた期待に心慰まっていたのだった。
 それだけに楢雄のそんな態度は修一を失望させた。そのため修一の話は一層誇張された。さすがの楢雄も急に顔色が青白んで来た。うなだれている楢雄の顔をひょいと覗くと、眼鏡の奥が光って、効果はやはりテキ面だった。やがて眼鏡を外して上衣のポケットに入れ、するする落ちる涙を短い指の先でこすり、こするのだった。ふと修一は不憫になって、
「泣くな。妾の子らしゅう生きて行こう」
 これは半分自分にも言い聴かせて、楢雄の肩に手を置くと、楢雄は汗くさい兄の体臭にふと女心めいた頼もしさを感じ、見上げる兄の眉毛はむくむくと頼もしげに見え、しかし何だか随分父親に似ていると思った。
 その夏の休暇が済み、二学期の始業式に大阪の市内にある中学校へ行くと、兄弟二人とも村瀬の姓が突然中那尾に変っていた。楢雄はわけが判らず、けったいな名になりやがったと、ケッケッと笑っていたが、修一はさては籍がはいったのかと苦笑し、友達の手前は養子に行ったのだと言いつくろおうと咄嗟の知慧をめぐらした。しかし、兄弟二人そろって養子に行くというのも変な話だと、さすがにうろたえもしていた。帰ると、赤飯と鯛の焼物が出て、母は泣いていた。
 寿枝は岡山の病院で看護婦をしていた頃、同じ病院で医員をしていた圭介のために女医になる一生の希望をいきなり失った。妊娠させられたのだ。圭介には月並みに妻子があった。生れた子は修学第一の意味で圭介が修一と名をつけた。圭介はそんな親心を示したことは示したが、狭い土地ですぐ噂が立ってみると、折柄大阪の病院から招聘(へい)されるのは寿枝を置き去りにする好機会であった。その通りにした。寿枝は修一を背負ってあとを追い、詰めよると、圭介もいやとはいえず、香櫨園に一戸を構えてやった。そして何十年間、その間に楢雄も生れて、今日まで続いて来たが、圭介はなぜか二人の子を入籍しなかった。本妻が承知しないからと、半分本当のことを言って、寿枝の要求を突っ放して来たのだ。しかし、寿枝は諦めず、圭介を責めぬいて、そして今日のこの喜びだった。
 と、そんな事情は無論きかされなかった故自分は長女、父上は長男、だから今日まで戸籍のことが巧く行かなかったのだと、寿枝はこんな嘘を考えた。
「へえ? そうですか」
 話半分で、修一は大きな頭を二三度右に振り左に振り、二階へ上ってしまった。あとに楢雄が残り、かねがねお前は食事の時間が永すぎると父の小言の通り、もぐもぐ口を動かせていた最中ゆえ、母の喜びを一身に背負った。しかしそれも当然だと、寿枝は、
「兄さんは別として、お前はよくよく父上に感謝しなければいけませんよ」
 その証拠に、最初圭介は楢雄の入籍は反対だったのだと、うかうか本当のことを言った。
「御馳走(ごっと)さん」
 それだけは言って、楢雄はバタバタと二階へ上ると蝿たたきでそこら中はたき廻った。翌日、一年F組の教室で、楢雄は教科書のかげで実におびただしい数の蝿を弄んでいたというかどで、廊下に立たされていた。三年B組の教室では、修一は教科書のかげで羽太鋭治の「性の研究」を読んでいた。
 楢雄が羽太鋭治のその本や、国木田独歩の「正直者」、モーパッサンの「女の一生」、森田草平の「輪廻」などを、修一から読んでみろと貸して貰ったのは、三年生の時だった。伏字の多いそれらの本が、楢雄の大人を眼覚し、女の体への好奇心がにわかにふくれ上ったある夜、修一が、
「おい、お前にもメッチェンを世話してやろうか」
 そう言って楢雄を香櫨園の浜へ連れ出す途々言うのには、実は俺はある女学生と知り合いになったのだが、そいつにはいつも女中(メイド)がついている、今夜も浜で会う約束をしているのだが、女中がついて来るから邪魔だ、だからお前はその女中の方を巧く捌いてくれ、その間に俺はメッチェンの方を云々。
「巧いことやれよ。なに相手はたかが女中(メイド)や。喜んでお前の言いなりになりよるやろ。デカダンで行け」
 デカダンとはどんな意味か知らなかったが、何となくその言葉のどぎつい響きが気に入って、かねがね楢雄は、俺はデカダンやと言いふらしていたのだった。
「よっしゃ。デカダンでやる」
「煙草飲め!」
 一本の煙草を飲み終らぬうちに、セルの着物を着た十七八の女が、兵古帯の結び目を気にするのか、しきりに尻へ手を当てながら、女中と一緒に、ものも言わず、すっと近づいて来た。どこか隙の多そうな醜い女じゃないかと、少し斜視掛ったその女の眼を見ていたが、しかし女中の方は外ッ歯で鼻の頭がまるく、おまけに色が黒かった。楢雄はがっかりしたが、やがてノッポの修一が身体を折り曲げるようにして女に寄り掛りながら歩きだすと、楢雄もあわてて女中に並び、君いくつになったの。われながら嫌気がさすくらい優しい声になったが、しかし心の中では、何となくその外ッ歯の女中が可哀相になっていたのだ。松林の所で修一はちらと振り向いた。途端に楢雄は女中のザラザラした手を握った。手は瞬間ひっ込められたが、すぐ握り返され、兄の言う通りであった。顔を覗くと、女中はきょとんとした眼で空を見上げていた。
「こっちへ行こう」
 修一と反対の方向へ折れて行き、半町ほど黙っていたが、やがて軽い声で、
「おい!」
 ぐいと手を引っ張ってもたれ掛けさせると、いきなり抱き寄せて、口に触れた。
 歯がカチカチと鳴り、女中はガタガタと醜悪にふるえていた。生臭い口臭をかぎながら、ぺたりとその場に坐らせて、
「君、寒いのンか」
 そう言ったまでは覚えていたが、あとは無我夢中になって、好奇心と動物的な感覚が体をしびらしてしまったが、女中は足を固くして、
「それだけは堪忍して、なッ、坊ちゃん、それだけは堪忍して。ああ」
 身もだえしながら、キンキンした声で叫び、ふと瞠いた眼が白かった。楢雄ははっと我に帰り、草の上へついた手の力ではね起きると、物も言わず、うしろも向かず、あぶない所だった、俺はもう少しで罪を犯すところだったと、心の中で叫びながら、真青になって逃げ去った。それだけは堪忍して、あッ、坊ちゃんそれだけは堪忍して、ああ、ああというその声は逃げて行く楢雄の耳の奥にいつまでも残り、身もだえしていた女の固い肢態は瞼に焼きつき、追われるように走ったが、松林を抜けて海岸の砂の上へ出た途端、妾になるということはあの辛さを辛棒することだったのかという考えが、元来が極端に走り易い楢雄の、走っている頭をだしぬけにかすめた。楢雄は家へ駈け戻ると、
「母さん、なんぜ妾なんかになったんです」
「…………」
 棒立ちになった寿枝の顔をじっと睨みつけると、
「僕に二十円下さい」
 そして無理矢理母の手から受取ると、眼鏡の隙間からポタポタ涙を落しながら、家を飛び出したが、どこへ行くという当てもないと判ると、急に気の抜けた歩き方になり、家出の決心がふと鈍った。
 ところが、阪神の香櫨園の駅まで来ると、海岸の方から仮面(めん)のように表情を硬張(こわば)らせて歩いて来る修一とばったり出会った。楢雄はぷいと顔をそむけ、丁度駅へ大阪行の電車がはいって来たのを幸い、おい楢雄とあわてて呼び掛けた修一の声をあとに、いきなりその電車に乗ってしまった。修一は間抜けた顔でぽかんと見送っていた。楢雄はそんな兄をますます驚かせるためにも、家出をする必要があると思った。そして家出した以上、自分はもう思い切り堕落するか、野たれ死にするか、二つのうちの一つだと思い、少年らしい極端な思いつきにソワソワと揺れているうちに、電車は梅田に着いた。
 市電で心斎橋まで行き、アオキ洋服店でジャンパーを買い、着ていた制服と制帽を脱いで預けた。堕落するにも、中学生の制服では面白くないと思ったのだ。茶色のジャンパーに黒ズボン、ズボンに両手を突っ込んで、一かどの不良になった積りで、戎橋の上まで来ると、アオキから尾行して来たテンプラらしい大学生の男が、おい、坊っちゃん、一寸来てくれと、法善寺の境内へ連れ込んで、俺の見ている前で制服制帽を脱いだり、あんまり酒落た真似をするなと、十円とられて、鮮かなヒンブルであった。簡単に自尊心を傷つけられたが、文句があるならいつでもアオキで待っていると立去ったそのチンピラの後姿を見送っているうちに、家出の第一歩にこんな眼に合わされては俺はもうおしまいだ、堕落するにも野たれ死にするにもまずあの男を撲ってからだと、キッとした眼になった。法善寺を抜けると、坂町の角のひやし飴屋でひやし飴をラッパ飲みし、それでもまだ乾きが収らぬので、松林寺の前の共同便所の横で胸スカシを飲んだが、こんなチャチなものを飲んでいるからだめなのだと、千日前の停留所前のビヤホールにはいった。大ジョッキとフライビンズを注文し、息の根の停りそうな苦しさを我慢しながら、三分の一ばかり飲んで、ゲエーとおくびを出して、フーフー赧い顔で唸っていると、いきなり耳を引っ張られた。振り向いて、あッドラ猫だ。宮城という受持の教師だったが、咄嗟にその名は想い出せず、思わず、綽名を口走った。ドラ猫もまたそのビヤホールで一杯やっていたらしく、顔を真赤にして、息が酒くさかった。耳を引っ張られたまま表へ連れ出されて、生徒の分際でこんな場所へ出入する奴があるかと、撲られた。すかさず、教師の分際でこんな場所へ出入する奴があるかと言い返してやれば面白いと思ったが、ああこれで家出も失敗に終ったのかという情けない気持が先立って、口も利けなかった。
 翌日、母親と一緒に校長室へ呼びつけられた。ドラ猫は校長の前で、戎橋の上から尾行してビヤホールにはいった所をつかまえたのだと言い、自分がさきにビヤホールで一杯やっていたことは隠すのだった。楢雄は途端にドラ猫を軽蔑した。嘘をつくと承知しないぞと言われたので、今までしたこと、あることないことを酒唖々々と言った。理科教室の顕微鏡に胡椒をぬりつけたこと、授業中に回転焼をいくつ食えるか実験してみたところ、相手の教師によって違うが、まず八個は大丈夫だ云々、バスの切符をわざと渡さなかったところ、女車掌が金切り声をあげて半町も追い駈けて来たこと、感ずる所あって昼食のパンを五日食べずに、校長官舎の犬が痩せて栄養不良らしかったのでその犬に呉れてやったこと、その犬の尻尾には今も猫イラズを塗りつけてある筈だなどすらすら喋り立てたが、しかし香櫨園の女中のことはさすがに言えなかった。
 寿枝の順番が来ると、寿枝はなぜか急にいそいそとして、まず楢雄の夜尿症を癒した苦心を言い、そして今は癒ったが、しきりに爪を噛んだり、指の節をボキボキ折る癖があって、先生、父もどんなにみっともないと気を揉んだことでしょう。それから、今も暇さえあれば蝿ばかり獲ったり、ぶつぶつひとり言を言う癖がありまして、この頃は易の本を読み耽っているようでございます……と、寿枝はここで泣き、部屋の中はもう暗かった。
「ひとり言を言うのは、心に不平がある証拠だが、易の本というのは、君どういう意味かね」
 と、校長は、ドラ猫の方を向いた。ドラ猫は、
「はあ、皆私が到らぬからであります」
 と、ハンカチで眼鏡を突き上げたかと思うと、いきなり楢雄の腕をつかんで、
「君は、君は、何ということを……」
 泣きだしたので、さすがに楢雄もしみじみして、情けなく窓外の暮色を見たが、しかしなぜドラ猫が泣いたのか判らなかった。
 説教が済み、校門を出ようとすると、そこでずっと待っていたらしく、修一が青い顔で寄って来て、何ぞ俺の話出なかったかと、声をひそめた。大丈夫だと言ってやると、修一はほっとした顔で、お前も要領よくやれよ。途端に修一は楢雄の軽蔑を買った。帰りの阪神電車は混んでいた。寿枝は白足袋を踏みよごされた拍子に、芦屋の本妻の顔を想いだした。すると香櫨園の駅から家まで三丁の道は自然修一と並んで歩くようになった。そして、うしろからボソボソと随いて来る楢雄の足音を聴きながら、明日は圭介の知り合いの精神科医の許へ楢雄を連れて行こうと思った。
 若森というその医者は精神科医のくせにひどくせっかちの早のみ込みで、おまけに早口であった。若森は寿枝の話を聴くなり、あ、そりゃ、エ、エ、エディプス・コンプレックス的傾向だね、お袋を愛する余り親父を憎むんだねと言うと、寿枝は何だかよく判らぬままにニコニコしてうなずいた。楢雄はむっとして、若森が、
「君一つこの紙に、君の頭に澄んだ単語を二十個正直に書いてみ給え」
 と言うとあっという間にその紙を破って、
「あんたには僕の心を調べる権利はない筈や。人間が人間を実験するのは侮辱や」
「これ、楢雄、何を言うのです」
「お母さんもお母さんです。あんたは自分の子供が蛙みたいに実験されているのを見るのンが、そんなに面白いのですか。だいいち、こんな所イ連れて来るのが間違いです」
 キッと寿枝を睨みつけた眼の白さを見て、若森はお袋を愛する余り云々と言った自分の言葉が、ふと頼りなくなって来た。
 楢雄はその後何といわれても若森の所へ行かなかったが、寿枝はひそかにそこへ行っていろいろ指図を受けて来るらしく、木の枕や瀬戸物の枕を当てがったり冷水摩擦を勧めたりした。また、知らぬ間に蒲団の綿が何か固いものに変っていた。日記やノート、教科書などもひそかにひらかれた形跡があり、仔細ありげな母の眼付きがいそいそと自分の身辺を取り囲んでいるような気がして、楢雄はそんな母が次第にうとましくなって来た。

 翌年、楢雄は進級試験に落第した。寿枝の奔走も空しかったわけである。その代り修一は京都の高等学校の入学試験に合格した。圭介は修一の入学宣誓式に京都まで出向いて、上機嫌で帰って来たが、土産物の聖護院の八ツ橋をガツガツ食べている楢雄を見ると、にわかに渋い顔になり改めて楢雄の落第について小言を言った。楢雄は折柄口が一杯になっていたので、暫らくもぐもぐと黙っていたが、やがて呑み込んでしまうと、頭の悪いのは言われなくても自覚しています、自覚していればこそ頑張るだけは頑張っているんです、しかし頭の点は先天的のものでどうにもなりません、考えてみれば、同じ親から生れて兄さんは頭が良くて、僕は悪いというのは遺伝の法則からいってどういうことになるんでしょう、やはり僕を頭の悪い子供に生れさせた原因がほかに介在しているんでしょうか、そういえば、僕の眉毛がレプラのように薄いという事実も何だか不思議ですね。ベラベラと喋り立てると、圭介は、莫迦野郎、生意気を言うな、遺伝とは何だ、原因とは何だ、不思議とは何だ、といきなり楢雄の胸を掴んで庭へ引きずり下すと、松の枝をボキリと折って、圭介の掌と楢雄の顔が両方からボトボトと血が落ちるまで、打って打って打ち続け、停めようとした寿枝まで突き飛ばされ、圭介の折檻はふと狂気じみていた。楢雄は鼻の穴へ紙を詰めると、すぐ家出を考えたが、これは寿枝が停めたので、二階へ上り、ひそかに隠してあった「運勢早見書」を開き、自分の星の六白金星と父の九紫火星とが相性大凶であることを確め何か納得した。ついでに母の四緑木星も六白金星とは合わぬと判った。六白金星一代の運気は、「この年生れの人は、表面は気永のように見えて、その実至って短気にて些細なことにも腹立ち易く、何かと口小言多い故、交際上円満を欠くことがある。親兄弟との緑薄く、早くより他人の中にて苦労する者が多い。また因循の質にてテキパキ物言いの捗らぬ所があるが、生来忍耐力に富み、辛棒強く、一旦こうと思い込んだことはどこまでもやり通し、大器晩成するものなり……」
 一字一句が思い当り、この文章がわずかに楢雄を慰めた。そして一晩掛ってこの文句を覚えることで、父に撲られた口惜しさがまぎれるのだった。
 翌日から楢雄は何思ったのか「将棋の定跡」という本を読み耽った。著者の八段は「運勢早見書」によれば、六白金星で中年を過ぎてから三段になって大器晩成の棋師だということだ。楢雄はその本を学校で読み、雪車の中で読み、家で読み、覚えにくい定跡はカードを作って覚えた。三月掛ってやっと覚えた頃、最中休暇になり、修一が頭髪を伸ばして帰って来ると、楢雄は早速将棋盤を持ち出したが、王手もせぬうちに簡単に負けてしまい、ああ俺はやはりだめだと青くなった。
 修一は毎日海岸へ出て、相変らず女を物色しているらしかったが、楢雄は海水着を着た女は猥せつだから見るのもいやだと言って、一日中部屋に閉じこもり、いよいよ人間嫌いになったのかと寿枝をやきもきさせた。部屋に閉じこもって何をしているのかと、こっそり伺うと、修一が持って帰った「カラマゾフ兄弟」を耽読しているらしかった。楢雄にはその本はばかに難解だったが、しかし楢雄はミーチヤやイワンの父親に対する気持が判ったと思い込み、夜更けに鏡を覗いてみると、表情が何となく凄みを帯びて見えた。眉毛の薄いせいかも知れなかった。それで一層深刻な顔になってやろうと、眼をむき下唇を突き出すと、こんどは実に奇妙な顔になった。しかし別におかしいとも思わなかった。イワンを真似たのっそりした態度がやがて表面(うわべ)に現われて来て、そしてある夜楢雄は砒素を飲んだ。
 うめき声で眼を覚した寿枝が二階へ上って見ると、楢雄は土色の顔へ泡を噴きだしてのた打ちまわっていた。修一は夕方家を出て行ったきり、まだ帰っていなかった。寿枝は楢雄の口へ手を差し込んで吐かせるとあわてて飛びだして近所の医者へかけつけて行ったが、途中でふと気が変り、よその医者に頼めば外聞が悪い結果になると、公衆電話へ飛び込んで、芦屋の圭介の病院へ電話した。芦屋と香櫨園はすぐ近くなのに市外電話になっていて、なかなか掛らず、もどかしかった。圭介はダットサンを自分で運転して来た。それで助かった。吐かせようとして抱きかかえると、ぷんと腋臭めくにおいがしたが、それは永年忘れていたわが子のにおいだった。注射を済ませると、寿枝が絆創膏を貼った。圭介はふと寿枝の顔を見た。寿枝も見た。お互いふと岡山の病院でのことが頭をかすめ、想い出すべき歳月があった。圭介は手を洗いながら、しみじみと楢雄の寝顔を覗きこんだ。眼鏡のない眉毛の薄い顔は、まるでデスマスクのようだったが、しかし生命は取り止めたとしみじみ思った。ところが、机の上にこれ見よと置いてある遺書を開いて読み終った途端、圭介は思わず莫迦と奴鳴った。
 その遺書は右肩下りの下手な字で、おまけに鉛筆で、片仮名を使って書かれてあり、それが文面の効果を一層どぎつくさせていた。
「恋愛ハ神聖ナリ。神ハ実在スルヤ否ヤ。俺ハ結核菌ノ所有者デアルガ、現在ノ父ニモ母ニモ結核菌ハナイ。スルト俺ハ現在ノ父母ノ子デナイトイウ理論ガ成リ立ツ。マタ、俺ノ眉毛ヤ俺ノ皮膚ハレプラニナル可能ガアル。シカルニ現在ノ父母ハレプラデハナイ。俺ハ誰ノ子デアルカ教エテクレ。俺ハコノ疑問ヲ抱イテ死ヌノダ!!
 俺ハ北畠ノ霊媒研究所ヘ行ッテ、十円出シテ霊媒シテ貰ッタ。ソノ結果、俺ハ双生児ノ片割レデアルトイウコトガ判明シタ。モウ一ツノ片割レハ今樺太ノ炭坑ニイルハズダ。
 嘘ノ世ノ中ニハアキアキシタ。俺ハイワンノ如ク永遠ノ謎ヲ抱キナガラ死ヌ。誰モ俺ガ死ンデモ泣クマイ。俺ハ無垢ノ女ヲ凌辱シヨウトシタノダ!!」
 圭介は近頃興奮するとくらくらと眩暈がし、頭の中がじーんと鳴るので、なるべく物事に臨んで冷静に構える必要があった。だから、こんな莫迦げた妄想を起す奴を相手に興奮してはつまらぬと、煙草を吸いかけたが、手がふるえた。寿枝はおろおろして燐寸をつけた。その瞬間、二人ははっと顔をそむけた。寿枝の眉間には深い皺が出来、母性を疑われた不快さがぐっと来たのだった。そして何ということもなしに修一のことが頼もしく想い出された、しかし修一はどこをうろついているのか、夜が更けているというのに、まだ帰っていなかった。

 二年がたった。楢雄はむくむくと体が大きくなり、自殺を図った男には見えなかった。高等学校の入学試験にすべり、高槻の高医へ入学した時も、体格検査は最優良の成績だった。
 圭介は家へ帰ると、薄暗い階下の部屋で灯もつけさせず、壁を睨んだままぺたりと坐り込んで何時間も動かなかった。寿枝が呼んでも返辞せず、一所を見つめた眼を動かしもしなかった。さすがの楢雄もあっけに取られて、圭介のうしろに突っ立っていると、
「何をしているのか」
 うしろ向きの姿勢で吸鳴られた。寿枝はそんな圭介の素振りを見て、何か心に覚悟を決めたらしく一分の隙もないきっとした顔を見せていた。
 圭介はやがてみるみる狂気じみて、芦屋の病院で死んだ。危篤の知らせで駈けつけたのは修一ひとり、無論本妻の計らいであった。死に目に会うことも許されない寿枝と楢雄は香櫨園の家でソワソワしながら、不安な気持のまま何か殺気立っていた。何時間かたち、楢雄は急に、
「さア、お母さん、こんなことしてても仕方がありません。活動でも見に行こやありませんか」
 と、言って起ち上った。まあと寿枝は呆れたが、しかし瞬間母子の情が通ったと思い、だから叱ろうとはしなかった。
 修一は葬式を済ませて帰って来ると、臨終の模様を語った。圭介は息を引き取る前不思議にも一瞬正気になり、枕元に集っている中で修一だけをわざと一歩進ませて、母の面倒はお前が見るんだぞと言い、その時窓に映っていた西日が落ちたそうである。
「それでお前は何と答えたんですか」寿枝はわれながらもじもじ訊くと、
「はあと言いましたよ」
 と修一は冷かに答え、そして、ちらっと寿枝の顔を見ると、
「芦屋の奥さんから遺言書を見せて貰いましたよ。お母さんは貰うべきものはちゃんと貰ってあるんですね」
 寿枝ははっと虚をつかれた気持だった。貰うべき財産の分け前は、圭介の素振りがおかしくなった時、寿枝は取って置いたのである。寿枝、修一、楢雄の順で、修一、楢雄の分は学資用として無論修一の方が多かったが、しかし寿枝の額は修一よりもはるかに多いのだ。田辺に嫁いでいる妹が、姉さんは子供に頼って行くといっても、子供とは籍が違うのだからと入智慧し、子供といっても今に母親は妾だといって邪魔にするかも知れないからねとまで言ったので、寿枝はその忠告に従ってそうしたのだったが、修一の冷かな眼を見ると、やはりそうして置いてよかったという気持が、心細く湧いて来て、最近修一の所へ来た女の手紙がふと想い出された。「−この手紙を読んで何にも感じないようでしたらあなたは精神のどこかに欠陥があるのです」
 という恨みの籠った手紙だった。ひと様の娘御を何ということだと、その時修一に見た冷酷さが今はわが身に振り掛るかと、寿枝は思った。
 香櫨園の家は経費が掛るので、やがて寿枝は大阪市内の小宮町にこぢんまりした借家を探して移ることになったが、果して修一は阪大医学部の卒業試験の勉強で忙しいと口実を設けて、一人で夙川の下宿に移った。寿枝はなぜかそれを停めることが出来なかった。楢雄は、兄貴には香櫨園の界隈を離れがたいわけがあるのだと見抜いていた。修一が現在交際している北井伊都子は浜甲子園の邸宅に母と二人住み、係累もなく、その代り父の遺産は三十万を超えているのだと、修一はかつて楢雄に話したことがあったのだ。
 修一のいない家庭は寿枝には寂しかった。だから、三月許りたって、修一が小宮町へ顔を見せると、いそいそとして迎えたが、修一はお茶も飲まぬうちに、いきなり、
「僕、養子に行きますよ。何れ先方からこちらへ話がありますから、その時は良い返辞頼みますよ」
 と、言った。先方とは無論北井家のことだった。北井伊都子は長女で嫁には行けず、だから修一が婿養子にはいるのだと、もう伊都子の母親にも会うて話を決めていたのだった。
「学校を出ても、親父のくれた金では開業できませんからね。結局安月給の病院の助手になるよりほかに仕方ないとすれば、まアわれわれの身分では養子に行くのが出世の近道ですよ。木山さんの例もありますからね」
 木山博士は圭介の友人で、大学を卒業するまでに二回養子に行き、卒業してから一回、博士になってからも一回、都合四回養子先と女房を変えて出世した男であった。
「じゃ、お前は木山さんのようになりたいんですか」
「木山さんには私淑しています。時々会うて世渡りの秘訣を拝聴していますよ」
「お母さんのことはどう成っても構わぬのですか」
「いや、もし何でしたら、お母さんも一緒に北井の家へ来て貰っても構いませんよ」
 太い眉毛を今こそ兄の顔になくてかなわぬものだと、楢雄は傍で聴きながらふと思ったが、しかし口をはさもうとはせず、寿枝が哀願めく眼を向けても、素知らぬ顔で新聞の将棋欄を見ていた。
 半月許りたって、五十前後の男が手土産らしいものを持ってやって来た。浜甲子園の北井の使いだというので、寿枝はさっと青ざめた。ところが、その使いは意外にも今後北井家では修一さんとの交際を打ち切ることにしたから悪しからずという縁談の断りに来たのだった。使いの男は寿枝の饗応に恐縮して帰った。
 修一は夙川の下宿を引き揚げて来て、妾の子だと知れたための破談だと、寿枝に八つ当った。日頃の行状を北井家に調べ上げられたことは棚に上げていたのである。すっかり自信を無くしてしまったらしい修一の容子を見て、楢雄は将棋を挑んだが、やはり修一には勝てなかった。
 楢雄は高槻の学校の近くにある将棋指南所へ毎日通った。毎朝京阪電車を降りると学校へ行く足を指南所へ向け、朝寝の松井三段を閉口させた。楢雄は松井三段を相手に専門棋師のような長考をした。松井三段は腐って、何を考えているのかと訊くと、楢雄はにこりともせず、
「人間は一つのことをどれ位辛抱して考えられるか、その実験をしているんだ」
 と、答えた。楢雄は進級試験の日にも指南所へ出掛け、落第した。
「お前の金はあと二年分しかないのに、今落第されては困りますよ」
 寿枝の小言に金のことがまじると、楢雄はかっとした。修一は口を出せば自分の金が減るという顔で黙っていた。楢雄はその顔をみると、もうわれを忘れて叫んでいた。
「じゃ僕は下宿します。下宿して二年分の金で三年間やって行きます。お母さんの世話にも兄さんの世話にもなりません」
 言いだしたらあとへ引かなかった。その頑固な気性を口実に、寿枝は楢雄に言われる通りの金を渡した。
「しかし、千円だけはお前の結婚の費用に預って置きますよ」
「そんな金は兄さんにあげて下さい」
 千円減ったことで、自活の決心が一層固くなった。
「じゃ、お母さんはお前に月々十円宛、お母さんの金を上げます」
「要りません。食えなかったら家庭教師します」
 そう言うと、修一ははじめて口を利いて、
「お前みたいな頭の悪い奴に家庭教師がつとまるか」
 と、嗤った。嗤われたことも楢雄はこの際の勘定に入れた。そして学校の近くの下宿に移った。寿枝は、下宿をしても洗濯物を持って週に一回だけはぜひ帰るようにと言い聴かせながら、自分は不幸だと思った。

 修一は学校を出ると、附属病院の産婦人科の助手になった。報酬は月に一円足らずで、日給の間違いではないかとはじめ思ったくらいだったが、それでも毎日浮かぬ顔をして通っていた。学生服よりは高くついたが、着てみれば背広も安洋服だった。患者の中には良家の者らしい若い女性もいたが、産婦人科へ生娘が来る例しもすくなかった。時々出稼ぎにあちこちの病院へ出張したが、その報酬は全部自分で使い、寿枝には一銭も渡さず、しかも家の費用はすべて寿枝が自分の金で賄っていた。だから修一の金は少しも減らないと寿枝はひそかに田辺の妹に愚痴っていたが、それでも修一が家におらないとやはり寂しかった。修一は宿直と出張の口実を設けて月の半分は家をあけ、どうやら看護婦を相手にしているらしかった。寿枝は修一の留守中泊りに来てくれるようにと、楢雄に手紙を出した。楢雄はやって来て、寿枝の顔に、薄く白粉の粉が吹きだしていることよりも、髪の毛がバサバサと乾いていることの方を見て寿枝を千日前へ連れて行って映画を見せたりした。下宿で随分切り詰めた暮しをしているらしく、げっそりと青く痩せている楢雄の横顔を見て、寿枝はそっと涙を拭いたが、しかし何日か泊って下宿へ帰る日が来ると、楢雄はその何日分かの飯代を寿枝に渡した。何という水臭いやり方かと寿枝は泣けもせず、こんな風にされる自分は一体これまでどんな落度があったのかと、振りかえってみたが、べつに見当らなかった。
 楢雄は煙草は刻みを吸い、無駄な金は一銭も使うまいと決めていたが、ただ小宮町へ行った帰りにはいつも天満の京阪マーケットでオランダという駄菓子を一袋買っていた。子供の時から何か口に入れていないと、勉強出来なかったのである。京阪マーケットの駄菓子はよそで買うより安く、専らそこに決めていたのだが、一つにはそこの売子の雪江という女に心を惹かれていたのだ。栄養不良らしい青い顔をして、そりの強い眼鏡を掛けていてオドオドした娘だったが、楢雄が行くたび首筋まで赧くして、にこっと笑うと、笑窪があった。ある日、楢雄が行くと、雪江は朋輩に背中を突かれて真赤になっていた。おや、俺に気があるのかと思い、修一の顔をちらりと想いだしながら、
「君、今度の休みはいつなの?」
 その休みの日、道頓堀でボートに乗りながらきくと、雪江の父は今宮でブリキの職人をしているが、十八の歳、親孝行だから飛田の遊廓へ行けと酒を飲みながら言われたので、家を飛び出して女工をしたり喫茶店に勤めたりした挙句、今のマーケットへ勤めるようになった。しかし、月給の半分は博奕狂いの父の許へ送っていると、正直に答えた。父の家を逃げ出し、それでも送金しているという点と正直な所が楢雄の気に入り、また、他の店員のようにケバケバした身なりもせず、よれよれの人絹を着ているのも何か哀れで、高槻の下宿へ遊びに来させていたところ、ある夜ありきたりの関係に陥った。女の体の濡れた感覚の生々しさは、楢雄にもう俺はこの女と一生暮して行くより外はないと決心させた。しかし、香櫨園の女中のことも一寸頭をかすめた。
 間もなくビリの成績で学校を出たのをしおに、楢雄は萩ノ茶屋のアパートに移り、母に内緒で雪江と同棲した。そして学校の紹介で桃山の伝染病院に勤めた。母から受取った金は無論卒業までにきちきち一杯に使っていたので、病院でくれる五十円の月給がうれしくて、毎日怠けず通った。一つには人もいやがる伝染病院とはいかにもデカダンの俺らしいと、気に入っていたからである。もっとも病院の方では、楢雄が気に入っているというわけではなかった。背広を作る金がなかったので、ボロボロの学生服で通勤すると、実習生と間違えられ、科長から皮肉な注意を受けた。それでも、服装で病気を癒すわけではありませんからと、平気な顔をしてその服で通していると偏屈男だと見たのか、その後注意もなかったが、しかし寿枝の方へはいつの間にかこっそり注意があった。
 寿枝は驚いて萩ノ茶屋のアパートへ来た。管理人が気を利かせて、応接間へ通したので同棲しているところは知られずに済んだと、楢雄はほっとした。寿枝は洋服代にしろと言って何枚かの紙幣を渡そうとしたが、楢雄は受け取ろうとしなかった。
「僕にはもういただく金はない筈です」
「いいえ、お前の金はまだ千円だけ預ってあります」
「あれは兄さんにあげたお金です」
「じゃ、これはお母さんがお前にあげます」
 それならいいだろうと、無理に握らせると、やはりふと寿枝を見た眼が渋々嬉しそうだった。しかし、帰りしなに寿枝が、
「お前もいつまでも頑固なことを言わずに、少しは世間態ということも考えなさい。お母さんもお前に背広も着せない母親だと言われたら、どんなに肩身が狭いか判りませんよ」
 と言ったので、楢雄の喜びは途端に消えてしまった。それでも雪江には、
「おい背広作れるぞ」
 と、喜ばせてやる気になった。が、雪江は何だか不安そうだった。
 果して、管理人にきいてみると、寿枝は楢雄と雪江の暮しを根掘り聴いて行ったということだった。楢雄は恥しさと、そして二人のことを聴きながら素知らぬ顔で帰って行った母親への怒りとで、真赤になった。翌日、阿倍野橋のアパートへ移った。
 移転先は内緒にしてあったが、病院で聴いたのか、移って五日目の夜寿枝はやって来た。楢雄は丁度病院の宿直で留守だったが、わざと留守の時をえらんで来たらしく、その証拠に寿枝は雪江を捕えて、どうか楢雄と別れてくれとくどくど頼んだということだった。寿枝も寿枝だが雪江も雪江で、寿枝の涙を見ると、自分も一緒に泣いて、楢雄さんの幸福のために身を引きますと約束したという。
「莫迦野郎! 俺に黙ってそんな約束をする奴があるか」
 と楢雄は呶鳴りつけて、「運勢早見書」の六白金星のくだりを見せ、
「俺は一且こうと思い込んだら、どこまでもやり通す男やぞ。別れるものか。お前も覚悟せえ」
 翌日、岸ノ里のアパートへ移った。移転先は病院へも秘密にし、そして「俺ハ考エル所ガアッテ好キ勝手ナ生活ヲスル。干渉スルナ。居所ヲ調ベルト承知センゾ。昭和十二年九月十日午前二時誌ス」という端書を母と兄宛に書き送った。
 ところが、それから三日目に田辺の叔母が病院へやって来た。
「あんたの同棲している女は今宮のブリキ職人の娘で、喫茶店にいた女やいうそうやが、あんたは親戚中の面よごしや。それも器量のええ女やったら、まだましやが……」
 そう言って叔母は、一ぺんこの写真の娘はんと較べてみなはれと見せたのは見合用の見知らぬ娘の写真だった。楢雄は廊下に人が集って来るほどの大きな声を出して、叔母を追いかえした。そして三日目に病院をやめてしまった。無論、叔母の再度の来訪を怖れてのことだったが、雪江には、「いくら伝染病院だといっても、あんなに死亡率が高くては、恥しくて勤めていられない」
 と言い、しかしこれは半分本音であった。
 病院をやめるとたちまち暮しに困ったので、やはり学校の紹介で豊中の町医者へ代診に雇われた。夜六時から九時まで三時間の勤務で月給六十円だから、待遇は悪くはなかったが、その代り内科、小児科、皮膚科、産婦人科の四つも持たされ、経験のない楢雄では誤診のないのが不思議なくらいだった。紹介する方も無責任だが、雇う方も無茶だと思った。しかし、それよりもしたりげな顔をして患者に向って居る自分には愛想がつきた。院長は金の取れる注射一点張りで、楢雄にもそれを命じ、注射だけで病気が癒ると考えているらしいのには驚いたが、しかしそんな嫌悪はすぐわが身に戻って来て、えらそうな批判をする前にまず研究だと、夜の勤務で昼の時間が暇なのを倖い、毎日高医の細菌学研究室へ通った。
 そこでも、研究生の物知り振った顔があった。楢雄は俺は何も知らぬから、知っていることだけをすると言って、毎日試験管洗いばかししていた。試験管洗いは誰もいやがる仕事で、普通小使がしていたのだ。それを研究費を出して毎日試験管洗いとは妙な男だと重宝がられ、また軽蔑された。しかし楢雄は、磨き砂と石鹸で見た眼に綺麗に洗うのは易しいが、培養試験に使用できるように洗うのは、なかなかの根気と技術の要る仕事だと、帰って雪江に聴かせた。
 ある夏の日、二つ井戸へ医学書の古本を漁りに行った帰り、道頓堀を歩いていると喫茶店の勘定場で金を払っている修一を見つけた。ちらりとこちらを見た眼が弱々しい微笑を泛べているので、ふとなつかしい気持がこみ上げたが、しかしその微笑は喫茶店の前で修一の出て来るのを待っている若い女に向けられたものだと、すぐ判った。女はずんぐり肩がいかって美人ではなかったが、服装は良家の娘らしく立派であった。相変らずだなと苦笑しながら、物も言わず通り過ぎたが、しかしさすがに修一も楢雄には気づき、帰ると、
「今日楢雄を見ましたよ。この暑いのに合服を着て、ボロ靴をはいて、失業者みたいなみすぼらしい恰好でしたよ」
 と、寿枝に語った。合服ということがまず寿枝の胸をチクリと刺し、なぜ立ち話にでもあの子の居所をきいてくれなかったかと、修一の冷淡さを責めた。
 寿枝は私立探偵を雇って、京阪マーケットに勤めている雪江を尾行して貰い、楢雄のアパートをつきとめた。早速出掛けたが、二人は留守で、管理人や隣室の人にきいてみると、月給は雪江の分と合わせて九十五円はいるのだが、そのうち二十円は雪江の親元へ送金するほか、研究費とむやみやたらに買う医学書の本代に相当要るので、部屋代と交通費を引くといくらも残らず、予想以上にひどい暮しらしかった。昼飯を抜く日も多いという。寿枝は帰ると為替を組んで、夏服代だと百円送ったが、その金はすぐ送り返されて来た。
「ヒトノ後ヲ尾行シタリ隣室ヘハイッテ散々俺ノ悪口ヲ言ッタリ、俺ノ生活ヲ覗イタリスルコトハ、今後絶対ニヤメテクレ。コノ俺ノ精神ハ金銭デハ堕落シナイゾ」
 という手紙が添えてあった。寿枝はその手紙を持って田辺へかけつけ、妹の前で泣いた。そして一緒にアパートに行くと、もう楢雄は引っ越したあとだった。
 寿枝は楢雄の手紙を持って親戚や知己を訪れ、手紙を見せて泣くのだった。修一はそんな恥さらしはやめてくれと呶鳴り、そんな暇があったら、僕の細君でも探してくれ、細君がないと僕は出世が出来んと、赧い顔もせずに言った。寿枝は圭介の友人にたのんで、やっと修一の結婚の相手を見つけたが、見合では修一は断られた。妾の子はやはり駄目だと、修一は寿枝に毒づき、その夜外泊したのを切っ掛けに、殆んど家へ帰らず、たまに帰っても口を利かず、寿枝は老い込んだ。
 ある夜、楢雄が豊中からの帰り途、阪急の梅田の改札口を出ようとすると、老眼鏡を掛けてしょんぼり仔んでいる寿枝の姿を見つけた。待ち伏せされているのだと、すぐ判って、楢雄はいきなり駈けだして近くの喫茶店へ飛び込み、茶碗へ顔を突っ込むようにして珈琲を啜りながら、俺は母を憎んでいるのではないと自分に言いきかせた。ちらっと見ただけだったが、母の頭は随分白くなっていた。もう白粉も塗っていなかった。寿枝は楢雄のうしろ姿を見て、靴のカガトの減り方まで眼に残り、預っている千円を送ってやろうと思ったが、いや、あの金はあの子がまともな結婚をする時まで預って置こう、でなければ芦屋の本妻に合わす顔がないと気を変えて、夜更けのガラあきの市電に乗ってしょんぼり小宮町へ帰って行った。すると、翌日の夜、楢雄から速達が来て「俺ハ世間カラキラワレタ人間ダカラ、世間カラキラワレタレプラ療養所デ働ク決心ヲシタ。世間ト絶縁スルノガ俺ノ生キル道ダ。妻モ連レテ行ク。モウ誰モ俺ニ構ウコトハ出来ナイゾ」とあった。寿枝は修一をかき口説いた。修一も楢雄がレプラ療養所などへ行けば、自分の世間もせまくなると、本気に心配したのか、一日中かけずり廻ってやっと楢雄のアパートをつきとめると、電話を掛けた。
「おい、強情はやめて、女と別れて小宮町へ帰れ」
 楢雄の声をきくなりそう言うと、
「無駄な電話を掛けるな。あんたらしくない」
 電話のせいか、ふだんより疳高い声だった。
「とにかく一度会おう」
「その必要はない。時間の無駄だ」
「じゃ、一度将棋をやろう。俺はお前に二回貸しがあるぞ!」
 と、ちくりと自尊心を刺してやると、効果はあった。
「将棋ならやろう。しかし、言って置くが将棋以外のことは一言も口をきかんぞ。あんたも口を利くな。それを誓うなら、やる」
 約束の日、修一が千日前の大阪劇場の前で待っていると、楢雄は濡雑巾のような薄汚い浴衣を着て、のそっとやって来た。あおぐろくやつれた顔に髦(たれがみ)がぼおぼおと生えていたが、しかし眉毛は相変らず薄かった。さすがに不憫になって、飯でも食おうというと、
「将棋以外の口を利くな」
 と呶鳴るように言い、さっと大阪劇場の地下室の将棋倶楽部へはいって行った。
 そして盤の前に坐ると、楢雄は、
「俺は電話が掛ってから今日まで、毎晩寝ずに定跡の研究をしてたんやぞ、あんたとは意気込が達うんだ」
 と言い、そしていきなり、これを見てくれ、とコンクリートの上へ下駄を脱いだ。見れば、その下駄は将棋の駒の形に削ってあり、裏にはそれぞれ「角」と「龍」の駒の字が彫りつけられているのだった。修一はあっと声をのんで、暫らく楢雄の顔を見つめていたが、やがてこの男にはもう何を言っても無駄だと諦めながら、さア来いと駒を並べはじめた。

「新生」
昭和21年3月号

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