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六白金星

織田作之助

 中学校へはいった年の夏、兄の修一がなに思ったのか楢雄を家の近くの香櫨園の海岸へ連れ出して、お前ももう中学生だから教えてやるがと、ジロリと楢雄の顔を覗き込みながら、いきなり、
 「俺たちは妾の子やぞ」
 と、言った。ふと声がかすれ、しかしそのためかえって凄んで聴えた筈だがと、修一は思ったが、楢雄はぼそんとして、
 「妾て何やねん?」
 効果をねらって、わざと黄昏刻の海岸を選んだ修一は、すっかり拍子抜けしてしまった。
 修一は物心つき、次第に勘付いているのだ。型を押したような父の週末の帰宅は、芦屋で病院を経営するかたわら、大阪の大学病院へも出て忙しいためだとの母親の言葉は、尤もらしかったが、修一は欺されなかった。香櫨園の自宅から芦屋まで歩いて一時間も掛らぬのに、ついぞ父の病院とやらを見せて貰ったこともなく、おまけに芦屋中を調べてみても自分と同じ村瀬の姓の病院はない。しかも父の帰宅中は仔細ありげなひそひそ話、時には母の泣声、父の呶声が聴かれるなど、思い合わせてみると芦屋の方が本宅で香櫨園のわが家は妾宅だと、はっきり嗅ぎつけた途端、まず生理的に不愉快になり、前途が真っ暗になったような気持に悩まされたが、わずかに弟の楢雄を掴えて、寝耳に水の話を知らせてやるという残酷めいた期待に心慰まっていたのだった。
 それだけに楢雄のそんな態度は修一を失望させた。そのため修一の話は一層誇張された。さすがの楢雄も急に顔色が青白んで来た。うなだれている楢雄の顔をひょいと覗くと、眼鏡の奥が光って、効果はやはりテキ面だった。やがて眼鏡を外して上衣のポケットに入れ、するする落ちる涙を短い指の先でこすり、こするのだった。ふと修一は不憫になって、
「泣くな。妾の子らしゅう生きて行こう」
 これは半分自分にも言い聴かせて、楢雄の肩に手を置くと、楢雄は汗くさい兄の体臭にふと女心めいた頼もしさを感じ、見上げる兄の眉毛はむくむくと頼もしげに見え、しかし何だか随分父親に似ていると思った。
 その夏の休暇が済み、二学期の始業式に大阪の市内にある中学校へ行くと、兄弟二人とも村瀬の姓が突然中那尾に変っていた。楢雄はわけが判らず、けったいな名になりやがったと、ケッケッと笑っていたが、修一はさては籍がはいったのかと苦笑し、友達の手前は養子に行ったのだと言いつくろおうと咄嗟の知慧をめぐらした。しかし、兄弟二人そろって養子に行くというのも変な話だと、さすがにうろたえもしていた。帰ると、赤飯と鯛の焼物が出て、母は泣いていた。
 寿枝は岡山の病院で看護婦をしていた頃、同じ病院で医員をしていた圭介のために女医になる一生の希望をいきなり失った。妊娠させられたのだ。圭介には月並みに妻子があった。生れた子は修学第一の意味で圭介が修一と名をつけた。圭介はそんな親心を示したことは示したが、狭い土地ですぐ噂が立ってみると、折柄大阪の病院から招聘(へい)されるのは寿枝を置き去りにする好機会であった。その通りにした。寿枝は修一を背負ってあとを追い、詰めよると、圭介もいやとはいえず、香櫨園に一戸を構えてやった。そして何十年間、その間に楢雄も生れて、今日まで続いて来たが、圭介はなぜか二人の子を入籍しなかった。本妻が承知しないからと、半分本当のことを言って、寿枝の要求を突っ放して来たのだ。しかし、寿枝は諦めず、圭介を責めぬいて、そして今日のこの喜びだった。
 と、そんな事情は無論きかされなかった故自分は長女、父上は長男、だから今日まで戸籍のことが巧く行かなかったのだと、寿枝はこんな嘘を考えた。
「へえ? そうですか」
 話半分で、修一は大きな頭を二三度右に振り左に振り、二階へ上ってしまった。あとに楢雄が残り、かねがねお前は食事の時間が永すぎると父の小言の通り、もぐもぐ口を動かせていた最中ゆえ、母の喜びを一身に背負った。しかしそれも当然だと、寿枝は、
「兄さんは別として、お前はよくよく父上に感謝しなければいけませんよ」
 その証拠に、最初圭介は楢雄の入籍は反対だったのだと、うかうか本当のことを言った。
「御馳走(ごっと)さん」
 それだけは言って、楢雄はバタバタと二階へ上ると蝿たたきでそこら中はたき廻った。翌日、一年F組の教室で、楢雄は教科書のかげで実におびただしい数の蝿を弄んでいたというかどで、廊下に立たされていた。三年B組の教室では、修一は教科書のかげで羽太鋭治の「性の研究」を読んでいた。
 楢雄が羽太鋭治のその本や、国木田独歩の「正直者」、モーパッサンの「女の一生」、森田草平の「輪廻」などを、修一から読んでみろと貸して貰ったのは、三年生の時だった。伏字の多いそれらの本が、楢雄の大人を眼覚し、女の体への好奇心がにわかにふくれ上ったある夜、修一が、
「おい、お前にもメッチェンを世話してやろうか」
 そう言って楢雄を香櫨園の浜へ連れ出す途々言うのには、実は俺はある女学生と知り合いになったのだが、そいつにはいつも女中(メイド)がついている、今夜も浜で会う約束をしているのだが、女中がついて来るから邪魔だ、だからお前はその女中の方を巧く捌いてくれ、その間に俺はメッチェンの方を云々。
「巧いことやれよ。なに相手はたかが女中(メイド)や。喜んでお前の言いなりになりよるやろ。デカダンで行け」
 デカダンとはどんな意味か知らなかったが、何となくその言葉のどぎつい響きが気に入って、かねがね楢雄は、俺はデカダンやと言いふらしていたのだった。
「よっしゃ。デカダンでやる」
「煙草飲め!」
 一本の煙草を飲み終らぬうちに、セルの着物を着た十七八の女が、兵古帯の結び目を気にするのか、しきりに尻へ手を当てながら、女中と一緒に、ものも言わず、すっと近づいて来た。どこか隙の多そうな醜い女じゃないかと、少し斜視掛ったその女の眼を見ていたが、しかし女中の方は外ッ歯で鼻の頭がまるく、おまけに色が黒かった。楢雄はがっかりしたが、やがてノッポの修一が身体を折り曲げるようにして女に寄り掛りながら歩きだすと、楢雄もあわてて女中に並び、君いくつになったの。われながら嫌気がさすくらい優しい声になったが、しかし心の中では、何となくその外ッ歯の女中が可哀相になっていたのだ。松林の所で修一はちらと振り向いた。途端に楢雄は女中のザラザラした手を握った。手は瞬間ひっ込められたが、すぐ握り返され、兄の言う通りであった。顔を覗くと、女中はきょとんとした眼で空を見上げていた。
「こっちへ行こう」
 修一と反対の方向へ折れて行き、半町ほど黙っていたが、やがて軽い声で、
「おい!」
 ぐいと手を引っ張ってもたれ掛けさせると、いきなり抱き寄せて、口に触れた。
 歯がカチカチと鳴り、女中はガタガタと醜悪にふるえていた。生臭い口臭をかぎながら、ぺたりとその場に坐らせて、
「君、寒いのンか」
 そう言ったまでは覚えていたが、あとは無我夢中になって、好奇心と動物的な感覚が体をしびらしてしまったが、女中は足を固くして、
「それだけは堪忍して、なッ、坊ちゃん、それだけは堪忍して。ああ」
 身もだえしながら、キンキンした声で叫び、ふと瞠いた眼が白かった。楢雄ははっと我に帰り、草の上へついた手の力ではね起きると、物も言わず、うしろも向かず、あぶない所だった、俺はもう少しで罪を犯すところだったと、心の中で叫びながら、真青になって逃げ去った。それだけは堪忍して、あッ、坊ちゃんそれだけは堪忍して、ああ、ああというその声は逃げて行く楢雄の耳の奥にいつまでも残り、身もだえしていた女の固い肢態は瞼に焼きつき、追われるように走ったが、松林を抜けて海岸の砂の上へ出た途端、妾になるということはあの辛さを辛棒することだったのかという考えが、元来が極端に走り易い楢雄の、走っている頭をだしぬけにかすめた。楢雄は家へ駈け戻ると、
「母さん、なんぜ妾なんかになったんです」
「…………」
 棒立ちになった寿枝の顔をじっと睨みつけると、
「僕に二十円下さい」
 そして無理矢理母の手から受取ると、眼鏡の隙間からポタポタ涙を落しながら、家を飛び出したが、どこへ行くという当てもないと判ると、急に気の抜けた歩き方になり、家出の決心がふと鈍った。
 ところが、阪神の香櫨園の駅まで来ると、海岸の方から仮面(めん)のように表情を硬張(こわば)らせて歩いて来る修一とばったり出会った。楢雄はぷいと顔をそむけ、丁度駅へ大阪行の電車がはいって来たのを幸い、おい楢雄とあわてて呼び掛けた修一の声をあとに、いきなりその電車に乗ってしまった。修一は間抜けた顔でぽかんと見送っていた。楢雄はそんな兄をますます驚かせるためにも、家出をする必要があると思った。そして家出した以上、自分はもう思い切り堕落するか、野たれ死にするか、二つのうちの一つだと思い、少年らしい極端な思いつきにソワソワと揺れているうちに、電車は梅田に着いた。
 市電で心斎橋まで行き、アオキ洋服店でジャンパーを買い、着ていた制服と制帽を脱いで預けた。堕落するにも、中学生の制服では面白くないと思ったのだ。茶色のジャンパーに黒ズボン、ズボンに両手を突っ込んで、一かどの不良になった積りで、戎橋の上まで来ると、アオキから尾行して来たテンプラらしい大学生の男が、おい、坊っちゃん、一寸来てくれと、法善寺の境内へ連れ込んで、俺の見ている前で制服制帽を脱いだり、あんまり酒落た真似をするなと、十円とられて、鮮かなヒンブルであった。簡単に自尊心を傷つけられたが、文句があるならいつでもアオキで待っていると立去ったそのチンピラの後姿を見送っているうちに、家出の第一歩にこんな眼に合わされては俺はもうおしまいだ、堕落するにも野たれ死にするにもまずあの男を撲ってからだと、キッとした眼になった。法善寺を抜けると、坂町の角のひやし飴屋でひやし飴をラッパ飲みし、それでもまだ乾きが収らぬので、松林寺の前の共同便所の横で胸スカシを飲んだが、こんなチャチなものを飲んでいるからだめなのだと、千日前の停留所前のビヤホールにはいった。大ジョッキとフライビンズを注文し、息の根の停りそうな苦しさを我慢しながら、三分の一ばかり飲んで、ゲエーとおくびを出して、フーフー赧い顔で唸っていると、いきなり耳を引っ張られた。振り向いて、あッドラ猫だ。宮城という受持の教師だったが、咄嗟にその名は想い出せず、思わず、綽名を口走った。ドラ猫もまたそのビヤホールで一杯やっていたらしく、顔を真赤にして、息が酒くさかった。耳を引っ張られたまま表へ連れ出されて、生徒の分際でこんな場所へ出入する奴があるかと、撲られた。すかさず、教師の分際でこんな場所へ出入する奴があるかと言い返してやれば面白いと思ったが、ああこれで家出も失敗に終ったのかという情けない気持が先立って、口も利けなかった。
 翌日、母親と一緒に校長室へ呼びつけられた。ドラ猫は校長の前で、戎橋の上から尾行してビヤホールにはいった所をつかまえたのだと言い、自分がさきにビヤホールで一杯やっていたことは隠すのだった。楢雄は途端にドラ猫を軽蔑した。嘘をつくと承知しないぞと言われたので、今までしたこと、あることないことを酒唖々々と言った。理科教室の顕微鏡に胡椒をぬりつけたこと、授業中に回転焼をいくつ食えるか実験してみたところ、相手の教師によって違うが、まず八個は大丈夫だ云々、バスの切符をわざと渡さなかったところ、女車掌が金切り声をあげて半町も追い駈けて来たこと、感ずる所あって昼食のパンを五日食べずに、校長官舎の犬が痩せて栄養不良らしかったのでその犬に呉れてやったこと、その犬の尻尾には今も猫イラズを塗りつけてある筈だなどすらすら喋り立てたが、しかし香櫨園の女中のことはさすがに言えなかった。
 寿枝の順番が来ると、寿枝はなぜか急にいそいそとして、まず楢雄の夜尿症を癒した苦心を言い、そして今は癒ったが、しきりに爪を噛んだり、指の節をボキボキ折る癖があって、先生、父もどんなにみっともないと気を揉んだことでしょう。それから、今も暇さえあれば蝿ばかり獲ったり、ぶつぶつひとり言を言う癖がありまして、この頃は易の本を読み耽っているようでございます……と、寿枝はここで泣き、部屋の中はもう暗かった。
「ひとり言を言うのは、心に不平がある証拠だが、易の本というのは、君どういう意味かね」
 と、校長は、ドラ猫の方を向いた。ドラ猫は、
「はあ、皆私が到らぬからであります」
 と、ハンカチで眼鏡を突き上げたかと思うと、いきなり楢雄の腕をつかんで、
「君は、君は、何ということを……」
 泣きだしたので、さすがに楢雄もしみじみして、情けなく窓外の暮色を見たが、しかしなぜドラ猫が泣いたのか判らなかった。
 説教が済み、校門を出ようとすると、そこでずっと待っていたらしく、修一が青い顔で寄って来て、何ぞ俺の話出なかったかと、声をひそめた。大丈夫だと言ってやると、修一はほっとした顔で、お前も要領よくやれよ。途端に修一は楢雄の軽蔑を買った。帰りの阪神電車は混んでいた。寿枝は白足袋を踏みよごされた拍子に、芦屋の本妻の顔を想いだした。すると香櫨園の駅から家まで三丁の道は自然修一と並んで歩くようになった。そして、うしろからボソボソと随いて来る楢雄の足音を聴きながら、明日は圭介の知り合いの精神科医の許へ楢雄を連れて行こうと思った。
 若森というその医者は精神科医のくせにひどくせっかちの早のみ込みで、おまけに早口であった。若森は寿枝の話を聴くなり、あ、そりゃ、エ、エ、エディプス・コンプレックス的傾向だね、お袋を愛する余り親父を憎むんだねと言うと、寿枝は何だかよく判らぬままにニコニコしてうなずいた。楢雄はむっとして、若森が、
「君一つこの紙に、君の頭に澄んだ単語を二十個正直に書いてみ給え」
 と言うとあっという間にその紙を破って、
「あんたには僕の心を調べる権利はない筈や。人間が人間を実験するのは侮辱や」
「これ、楢雄、何を言うのです」
「お母さんもお母さんです。あんたは自分の子供が蛙みたいに実験されているのを見るのンが、そんなに面白いのですか。だいいち、こんな所イ連れて来るのが間違いです」
 キッと寿枝を睨みつけた眼の白さを見て、若森はお袋を愛する余り云々と言った自分の言葉が、ふと頼りなくなって来た。
 楢雄はその後何といわれても若森の所へ行かなかったが、寿枝はひそかにそこへ行っていろいろ指図を受けて来るらしく、木の枕や瀬戸物の枕を当てがったり冷水摩擦を勧めたりした。また、知らぬ間に蒲団の綿が何か固いものに変っていた。日記やノート、教科書などもひそかにひらかれた形跡があり、仔細ありげな母の眼付きがいそいそと自分の身辺を取り囲んでいるような気がして、楢雄はそんな母が次第にうとましくなって来た。

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