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旅の本 F-1グランプリ ホンダF-1と共に

 F1グランプリは、F1サーカスとも言われる通り、主にヨーロッパ各地を転戦していく一種の旅まわりの興行で、F1レースのインサイダーによって書かれた多くの本は、紀行として楽しめるものになっている。
 本田宗一郎を「技術の神様」と書く、ウェブ上のIT関連の記事を読んでこの本のことを思い出した。少しでもクルマを知るヒトは、本田宗一郎を「技術の神様」とは決して呼ばない。イタリアでは「男はクルマで経済を知る」ということわざがあるという。わたしもそんなクチだ。ただ、いわゆる経済ジャーナリストの書く自動車産業の記事で知ったわけではない。本田宗一郎を「技術の神様」と呼ぶのは、経済ジャーナリストの「技術の本田宗一郎と経営の藤澤武夫の両輪で会社が発展…」という陳腐な表現と同じ種類のもので(例えば、ソニーの創業期も同じように(井深大と盛田昭夫)表現される)、便利で使い回しが利くかわりに使い古しのモノを知らないヒトが使う表現の一つだ。
 経済ジャーナリストが書く、クルマ、建築など技術系の解説記事は短絡的で、物事を見通していないし、専門的な知識は何一つも持ち合わせていない、というより見通すつもりも専門的知識を身に付けるつもりもそれを振りかざすつもりも一切なく、四半期毎の視点、現在の株価、売上、利益、シェア(市場占有率)を結論にしてそこに帰結する記事を書いている。企業の会社案内と瓜二つということも多い。
 本田宗一郎を「技術の神様」と書いたヒトは、経済ジャーナリストが書いたホンダについてのそんな本でも読んだのであろうか。そんな本は、書かれた時の株価、売上、利益、シェアが結論なだけに、それらが変化すれば結論も内容も180度変化する。スーパーの特売チラシ同然、書かれた内容の有効期限は著しく短い(ただ、最近そんな種類の本田宗一郎や松下幸之助の本が文庫版で甦ってきている。)。そもそも、読んだ記事は、経済ジャーナリストが書いたものだったかもしれない。
 今回紹介するこの本を書いた中村良夫氏は、ホンダが四輪乗用車の本格的生産もしていない時期に、F1参戦を果たした、いわゆるホンダF1の第一期(1964〜1968年)のエンジニア、チームマネージャー、監督を務めた人物である。
 この本の中には直接描かれてはいないが、当時の本田宗一郎は、「ポルシェも空冷、第二次世界大戦の時、アフリカの砂漠で連合軍を苦しめたドイツ軍のロンメル将軍の勝利も空冷エンジンによるものだった」という理由とも呼べない噴飯ものの幼稚な、しかし強い思い込みに取り憑かれた、空冷エンジンを信奉する叩上げのオカルトチックな技術オタクで、基礎技術力は1920年代のアメリカ車ナッシュあたりで停滞していた。
 その上、悪いことに社内の絶対的権力者で、良識派の技術者である中村と対立し(本田の空冷エンジン論に、正面から反対したのは中村ただ一人であったいう(「ひとりぼっちの風雲児」中村良夫 山海堂 1994[ちなみに、タイトルの風雲児は世界の本田という虚像を演じた本田(中村によれば)のことを指している])。)、中村の反対を押し切り(無視し)、本田は当時技術的に(現在も)ほぼ絶望的な空冷F1エンジンの開発を推し進める。
 本田の思い込みは、ただでさえ小さなホンダF1開発チームを二分して、中村のホンダF1と本田を総大将とする空冷ホンダF1チームという2つのホンダF1ファクトリーチームを生む。本田宗一郎の空冷F1マシンのグランプリ参戦がどのような悲劇を招いたかは、ここでは書かないが、本田宗一郎は「技術の神様」でもないし、残念なことに天才と呼べる技術的閃きも生涯持ち合わせていなかったようだ(その成功は、レースへのあくなき情熱とほぼ為替相場のおかげといったら言い過ぎだろうか?天才と呼ばれるべきカーエンジニアはアレック・イシゴニスやコーリン・チャプマンなどではないだろうか。)。

 中村は、この本以外にも数々のF1関連の本を書いているが、技術者としての良心に基づくこの本の筆鋒は鋭く。また、初版にあたる本は「グランプリレース :ホンダF-1と共に」山海堂 1979 で、執筆時期が、レース活動休止から10年ほどで、中村のもしも本田がフリーハンドでレースをさせてくれていれば年間タイトルがとれていたハズという悔しさが癒えておらず臨場感が強い。興味深いエピソード満載の本書だが、F1グランプリ参戦時、マシンに塗る日本のナショナルカラーすら無く、パリにあるFIA(国際自動車連盟)本部で中村が日本のナショナルカラーを「アイボリーホワイトに日の丸」に決めたというエピソードは特に面白い(当時、ほぼ全てのグランプリマシンは、チームのナショナルカラーに塗られていた。メルセデスやポルシェは、ドイツのナショナルカラーのシルバー、フェラーリのイタリアンレッド、フランス車はフレンチブルーなど)。中村がクールなだけに手探りで、徒手空拳でグランプリレースに挑戦する現場監督の苦闘は、実感として読む者に伝わってくる。

 中村良夫は既に故人となっているが、久しぶりにこの本のことを思い出し、「フランスで中村良夫が決めたのだ!」というフレーズが頭に浮かんだ。
 赤塚不二夫の「天才バカボン」の中で、バカボンのパパが「国会で青島幸男が決めたのだ!」と言う不条理ギャグがある。
 例えば、バカボンがパパに「何で太陽は東から昇るの?」と質問するとパパは地球の自転とは無関係に「国会で青島幸男が決めたのダ!」と答える。つまり、何の問いに対しても「国会で青島幸男が決めたのだ!」と答えるというギャグである。青島幸男が亡くなり、現在、赤塚不二夫は数年間にわたる意識不明の状態と伝えられる。
 なぜ、本田宗一郎を「技術の神様」と呼ばないのか?は、上記説明は総て白紙に戻した上で、
「フランスで中村良夫が決めたのだ!」と答えてみたい。

 本田を敬愛し、オヤジと呼ぶ中村に言わせれば、本田の自著『ざっくばらん』、『得手に帆をあげて』、『スピードに生きる』も当人の口から出てきたものでなく脚色であり(前掲書)、「世界の本田宗一郎になられる前の,コンクリートにアグラをかいて,皆がクルマ座になってオヤジを囲んでいた頃のオヤジが(「フォーミュラ ワン」中村良夫 三樹書房 1994)」中村にとっての本田宗一郎であるという。

旅の本 バックナンバー

表紙 No image

bookデータ
F−1グランプリ
ホンダF-1と共に 1963〜1968
中村良夫 著
三樹書房
定価 2100円税込
ISBN 4-89522-233-0

中村良夫
なかむら よしお
1918-1994
山口県下関市生まれ。昭和前期の航空エンジニア 昭和期のカーエンジニア 昭和32(1957)年本田技研工業入社
昭和53(1978)年常務取締役を退任 経営の一線から退く

1964年の夏,私は発売されたばかりのホンダS600を購入,家内と共にそれでヨーロッパを1万2000kmにわたって旅した。この旅行の目的は,この年グランプリの舞台に討って出たホンダF1を取材することにあった。ニュルブルクリングのパドックから,真白いボディに真紅の日の丸も鮮かなホンダF1が、中村良夫監督以下のメカニックに押されて,ピットロードへ初めて姿を現したときの,あの感動的な一瞬は,20年後のいまも鮮烈に憶えている。私は,日本人であることを,このときほど誇らしく思ったことはない。…

小林彰太郎「HONDA F-1 1964-1968」二玄社 1984

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