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質疑応答

若山牧水

【問】 二三年前文壇には片岡氏横光氏等によって新感覚派が起されましたが、それによく似た手法を(無論多少の相異点はありますが)早くから吾々短歌に用ゐて居る友達を私は知って居ります。私は其友達の短歌二三首を引用して以てその表現手法が果して短歌の堕落ではあるまいかといふ多年の私の疑問を解いて頂きたいと思ひます。邪道であると一面では排斥しながらも又ともすると私はその眩惑的な表現に引きつけられる事があるのですが、今その特徴の著しいものが手元に見当らないのを甚だはがゆく思ひます。

  1 西空の夕かがよひが大道の馬糞にたわみたわみ来るかも
  2 夕びえや小石川原の草原の夕陽の中にさびしき遠み
  3 うづ櫻日あれの風にひそひそと天つ光に散りたまるなり
  4 枯木立夕空遠くぼんやりと見てゐるひまの寒さなりけり

引歌が徐りしっくりしないのでくどい様ですが私の真意を判然させたい為めに今少しいはせて頂きます。それの表現法の中には甚だ晦澁難解で又わがままで普通文法では到底説明が出来ない様な突飛な破格なものが多いのです。
 例へば(これは国語と国文学の紙上で発表された一つの文章ですが)、

  イ、僕は空中散火の下ででたらめに悩む原始人の心臓の感傷だ。
  ロ、失恋は嬉しき波止場にのびるテープである。
  ハ、灯のない歩廊のしらじらさへ汽車が飛躍した。

 といった種類の表現です。かういふ表現が短歌にも応用されていいでせうか。「感覚は絶対だよ。陶醉の境致を捉へてみ給へ、かうならざるをえないよ。」といふのが彼の口ぐせです。実際さうでせうか。
 甚だ長くなって誠に恐縮ですが私自身と又私の友達の為めに御教示をお待ち致します。

【答】 歌に感覚の重んずべきは云ふまでもない。唯だそれが本物であるか否かがむつかしいところだ。
 示された四首の歌はみな歌になってゐないとおもふ。強ひた感じか、無理に言葉や句を解らなくしたか(実際言葉を知らないのかも知れないが)のいづれかでせう。
 また、純粋の感覚から出た言葉ならば多少破格であっても不思議と意味の通ずるものです。強ひてやったのにはそれが無い。
 イ、ロ、ハに対して云ふ所なし。言葉か、感情か、どっちかの遊戯と見る。
 感覚感情といふうちにも、大小もあり深浅もある。従って、作られた歌の上にもそれが出て来るわけである。此処をよく考へてほしい。

【問】 作歌上に於ける語調の位置について。

【答】 「語調」といふのは普通いふ「調べ」を指すものとおもふ。さうであったらば歌にとって最も大事なものである。
 だが、これにもともすると誤解が伴ひやすい。本統の歌の調べは直ちに作者の心に根ざしたものであらねばならぬ。口さき手さきの所謂「上つ調子」であってはいけない。真実の「心の鼓動」「感覚の飛躍」であらぬばならぬ。

【問】 まだ何も分らないのですが、よくどの本にでも説明的な歌と言ふ言葉がございます。説明的かなあと思って見るとだんだんいい歌だと思ったのまで説明的に見えて来ましてほんとはどんなのを言ふのかさっぱり分らなくなってしまひます。
 私は自分の歌に対してはよく出来たとか悪いとか一寸位ゐは自分で考へて出すのですがいつもすっかりはづれてゐます。こんな時にはどこがいいのかと色々分析的に考へますがどうしても分らないので泣きたくなる時があります。例へば大変な比べ方ですが、

  畏こくも神のめぐみかたらちねの母すこやかに吾をみとります

 と云ふのと私の作った、

  大らかな心になりて拝みたし今宵照り出でしまんまるの月

 と云ふのと何故私の歌に力がないのでせう。自分のを読んで人様のを読むと何故力が私にないのかとほんとにいらいらして来ます。初めでございます故よく分かります様に精進したい道を教へて下さいませ。

【答】 むつかしい質問である。
 歌が本統によくわかるといふのは実にむつかしい事である。でも、相当には解って来ねば歌は作れないわけである。其処までも解ってゐぬとなれば、もっと勉強しなさいといふのほかはない。あなたの出された二首を比較すればそれは前の「かしこくも」の方がずっと佳い。この歌には充分とは云へないが歌に力がある。「調べ」がある。が、後者にはそれが無い。無いと云はぬまでも、乏しい。何処に無いかと云はれると困るが要するにわたしのよくいふ「さうですか歌」の境地を出てゐないのである。

【問】 「歌は実感から生れなければならぬ」と言ふことは自分の作歌上常に考へてゐることです。けれども私は此の頃さうは考へて居ても実感から離れた歌が即ち空想にも近い心で作った歌がよりよく出来栄えがし、作り易い気がするのです。
 一つの風景に見惚れてゐると他の別な風景が連想されるのです。こんな時現に見て居る風景を歌に詠まうとしながら別な風景の歌が出来るのです。かうして出来た歌は技巧的に見え、遊戯的に私自身にも見えるのですがどこかしら見捨てるに惜しい気がするのです。実感からの歌は尊いと知りつつもそれが作り得ないのはどうした理なのでせう。

【答】 これは「実感」といふことの解釈のしやうに由るであらう。眼前の風景に接してゐても心はそれに向って動かず、寧ろそれを通じて他の風景を実感するといふ様な場合であったらば無論眼前の事実に束縛されてゐることはないのである。
 また、空想も如実に空想したならばそれは実感である。唯だ、都合のいい様にああか斯うかと頭で作りあげる空想はいけないのである。繰返す様に歌は多くの場合、その材料の如何によらず作者の心の生きてるか死んでるかによることを考へ合せて下さい。

【問】 形式方面のことですが、歌を書く時、假名づかひを文部省改正案の假名使に従ひたいと思ひます。又用語もなるべく日常語を用ひて古語を捨てたいと思ひます。語法もなるべく現代口語の語法順序によりたいと思ひます。
「調べ」等いふものもあまりにやかましく言ふと古語古調に落入らざるを得ないのではありますまいか。「調べ」を新しい語と新しい語法に生かすべく、つとめて、文語文などをほとんど知らずして成長しつつある現代の少年達の表現法に学ぶべきものが多いのではないでせうか。

 例へば、中学二年の作った次のやうな歌。
  1 西窓にうす白き陽のさし入りてほのかに白し湯ぶねの面は
  2 お湯の面は暫しくづれてまたかへる一人湯ぶねにからだひたせば
  3 目をつむり顎までひたす心よさ一しきりもづの鳴きてやみたり
  4 洗場に立てば金色三日月の小枝と竹のあひにかかれり
  5 咲き乱る菊やコスモス赤ダリヤ貝殻草は面白き花
  6 はなびらにさはればがらら音のする貝殻草はつくりたるよな

 すべて原作の儘です。作者は絵も上手です。
 2のお湯といふ言葉は現代普通の言葉であるからこんなに用ひていいと思ひます。
 5の咲き乱るは文法的に言へば終止形だから、此の場合連体形の乱るるとせねば誤りであるけれど口語の文法をこの場合にあてはめてこれでいいとしたいんです。
 4の金色三日月はキンイロミカヅキとよむのだらうと思ふんです。
 6のつくりたるよな - この言葉はこの作者達の生活する言葉の世界よりすれば換言すれば現代社会の言葉の用法よりすれば、決して調子のたるんだ言葉ではないんだと思はれます。文語中に口語脈をこれ程とり入れるのはわが国語政策の上よりいっても短歌を新しき日本文学として進めてゆく上より言っても必要なことであり、私達、日本人としての務めではありますまいか。
 私は国語教育にたづさはる者です。これに類した疑問をまだ色々持ってゐます。

【答】 「調べ」が古語にのみあると思ふのは間違ひです。「調べ」はいつもいふ通り(前号参照)ただのお調子や上つ調子ではなく、作者の心の動きを伝へる、極く生々しいものであらねばならぬ。それを強ひて古語によったりして出さうとすればそれはもう本当の「調べ」ではなくなる事にならう。
 それかと云って座談平語式のものを作れば歌に骨の抜けた、わたしの所謂「さうですか歌」になる。
 文部省改正案なるものを知らないのでそれについては返事しかぬるが、わたしは然し今の所ではまだ假名づかひは従来のものでよいと思ふ。よし発音に多少の差などが出来るとはいへ、寧ろ其処に心のしまりがつくことになるかも知れぬ。
 少年達の歌はそれでよいでせう。然し我等は大人であるのである。

【問】 万葉集や古今集の様な昔の歌集を読むことは私達の作歌の上には、どんな影響があるのでせうか。

【答】 古今集はともかく、万葉を読んでの影響は大したものでせう、歌の出立点が其処にあったと謂ってもいいものでせうから。また少しでも歌が解りかけて来たら読まずにゐられないのが万葉集でせう。

【問】 歌の材料即ち歌とすべきものはやはり選択せねばなりますまいか。何でも出鱈目に作るわけにはいかないものですか。

【答】 出鱈目にやったでは歌も出鱈目なものしか出来ません。ほんとうをいへば歌は作者の心が主であるのだから材料は何でもいいわけだが、どんな材料にも正当に働きかけて行き得るだけに心が進んでゐるかどうかが先づ問題でせう。

【問】 歌と云ふ程の歌は詠めない人間です。然しどうにかかじり付いて行きたいと思ひます。皮肉な社会層に育まれた人間で有るが故にか作歌迄がひねくれてこまります。此の悪癖からのがれようとすれば、壮大な気分を失ったきはめて狭小なものしか歌ひ得ないのです。心を心の奥底から喜ばし得る事が出来ません。如何したら好いでせうか。

【答】 ひねくれ様によりませう。心に真実を持ったひねくれならばそのままに歌ひ出してさほどきたなくないかも知れない。君の所謂壮大な気分を持ったひねくれならばひねくれ結構です。唯だ、歌は不純不潔を嫌ひますから其処に気をつけて下さい。

【問】 半年程以前のこと私が歌を作り初めたときSといふ私の先輩である絵を描いてゐる人から「明るい人間でなくては勝れた芸術は生れない。あの無口な陰気なM氏の歌を見よ、ちっとも閃きがないではないか。すべからく君も明るい人間になれ」と言はれました。M氏はおとなしい人で某短歌雑誌の中堅の一人として活躍されてゐます。私はこの言葉をきいたときはM氏の歌のよし悪しなんぞわかるわけはなかったのですが、同感してもっと明るい人間にならなくてはいけないなとつくづく思ひました。けれどこの頃になってS氏の云った「明るさが芸術のすべて」と云ふことに疑問を感じるやうになりました。もしS氏の云ったことが誠だったならば私の様な陰気な性格の者には勝れた芸術は生れぬことになります。それだからといって持って生れた性格をガラリと捨ててS氏が云ふやうな人間になることがどうして出来ませう。
 もしかすると、S氏は私を自己に忠実な正直者でいつも損ばかりしてゐる人間のやうに見てゐるのかも知れません。けれど陰気に見えても歌をやってやらうと云ふ心持は人に負けないくらゐあるのですが、S氏が云ったやうなことが誠だったならば一寸困ります。その疑問をときたいのです。

【答】 君に若し色の赤と青とどっちが、えらいかと訊いたら君は何と答へます。明るい人間とか陰気な人間とかその作者の性質などは問題でない。唯だ人間の生活に眼覚むる事なく、そのために陰気に見ゆるのであったならばそれはいけない。

【問】 歌の勉強には只多く読み多くものを見て考へそして作る事を続けて行けばよいのでせうか。他に何うしたらよいのでせうか。御導き下さいませ。

【答】 先づそれでよいでせう。唯だ、多く読むといっても上の空で読んだのではいけない。その真味の解るまで噛みしめて読むべきです。

【問】 私は自分の歌に対して自信を持つことが出来ません(又自信を持てぬのが当然なほど無価値なものかも知れませんが。)それは何故でせうか。
 自分は無学だ。歌に関する智識もなく、また他の人の歌を読んで居ない。歌の本質も知らない。自分の作って居るものは他の人のを見てそれを真似て作った、言はば正宗に真似て作った鈍刀のやうに自分のは歌に似て居るものだといふ自分及び自分の歌を卑下する潜在意識のため自分の歌に自信を持ち得ないのかも知れませんが。
 又さうならざるを得ないのです。私の歌の教師は先輩の作った私の眼に映る(勢ひ外面的にしか見得ない)歌しかないのですから。

 そこでお答へ願ひたいのは、
一、無学者にも歌は作れるか否か。
一、今の私の立場より言って、このまま作歌を続けて行けばよいか。
一、私の作った次のは果して歌の部類に入るでせうか。

  風なぎし冬の一日の日高浦ゆ沖つ邊遠く阿波の山見ゆ

【答】 自信といっても厄介なもので、僅かの事で自惚れとならぬとも限らない。また、君の様に妙におどおどしてしまふ人もある。双方ともいけないと思ふ。先づ、自分は自分だけの歌を作る、といふ気になってごらんなさい。さう急に名人になれるわけもなく、さればとて詠みたい一心で作られた歌には幼いながらになかなかに捨てがたい所を持ってをるものです。無学云々のこと、それは無学の人にも作れる。無学の人だけの歌が作られる。作れるが、本気に歌を愛する人ならば其処だけに留ってゐることは出来なくなる筈である。で、身に叶ふだけの学問をして、漸次に学問と歌とを押し進めて行くべきであらう。また、心さへあれば相当の勉強は誰にでも出来るとおもふ。(第二問の答は自づと以上に含まれた訳である)。第三問の一首の歌、よい歌です。矢張り幼い所はあるが、「風なぎし冬のひと日の日高浦ゆ」など、偶然であらうがよく出来てゐる。あとの「沖つ邊とほく阿波の山見ゆ」はそれに比べて力が抜けてゐる。斯ういふ所のこまかな味はひなどは矢張り独りで勉強して行かねば解りかぬる境地でありませう。

【問】 大家の歌や本誌の本欄に載ってゐる歌の中で、偶々(たまたま)大して佳いと思はぬ歌や「さうですか歌」のやうにさへ見える歌に遭遇することがあります。その時は自分の心の調子に依るのだと思って、日をかへて再々読んで見ますが矢張り感心致しません。これは自分に鑑賞力が乏しい故でせうか。若しさうでしたらこの鑑賞力を養ふには如何なる努力を致したら良いのでせうか。又自分の歌の中でも出来た当時は佳いと思っても、数日を経て読んで見ますとあまり感心しません。何卒御教示を願ひます。

【答】 大家の歌にも佳いのもあらうし拙いのもありませう。で、強ちに鑑賞力が乏しいともいへぬでせうが、その歌に含まれた佳い所を見落すことは間々あることです。自分の眼が低ければその低い範囲のものしか見得ないといふ場合などもある解(わけ)です。充分に鑑賞するには矢張りさうした心を以て熱心に読むといふ事などのほかありますまい。初心の人ならば評釈など読むもいいでせう。来号あたりからその評釈を書いてみるつもりです。

【問】 題詠の場合に題が必ず主眼点(中心点)とならねばなりませんか。
 例へば月と云ふ題に、

  松かげに上る月見つつ箒取る我手に涼し秋の風吹く(私作)

 此の場合に月が背景になりましたが月と云ふ題の場合これでもよいでせうか。
 その他題詠の場合についての注意がありましたなら御伺ひ致します。

【答】 題詠では題が一首の主格をなさねばなりません。が、此処に示された歌を見ると強ちに「秋風」の歌ともいへない。早くいへば月と風との二題が一緒になった形になってゐる。そしてそのために甚しく一首が散漫になってしまった。つまり主題を主題と定めかねたための失敗といへるでせう。

【問】 漸く歌が解りだしたと思ひながら喜んで詠歌しようとすると、どうしても自分の気に入った歌が出来ないのです。どんなにしても思ふ様に行かないので、終にはいらいらして来てなげうつことが度々あります。自分で幾分向上した為であらうと思ってゐますがこれは一体どうした理なんでせう。又この境地から突進する方法を御教へ下さい。

【答】 幾度もそれを繰返して自然々々と進んでゆくといふことになりませう。その苦しさに出会って詠歌をよすのは折角開きかけた路を自分で壊してしまふのと同じでせう。またそれぞれの時の気分による事もありませう。わたしなどは過去二十年あまり、幾度となくそれを経験して来てゐる様な気がします。君等はまだ若いのだし、さういらいらする必要はないわけです。

【問】 左の二首の優劣如何。

  流石に淋しくもあり今日よりは持つ要もなきパイプを見れば
  今日限り煙草は止めぬ流石に淋しくもありパイプを見れば

【答】 優劣なし。両方とも拙し。二首ともさうですか歌です。

【問】 写生の歌でも何時でも焦点(主題)といふものがなければならないか。別にそれを定めずに唯眼前のものをそのまま歌ったもの、つまり一首の歌を以って全体的に一の世界を表した場合、それでもいいと思ひますが、若し悪いとすれば何故悪いか。例へば、

  庭松の梢に夕陽は淡れたりそこら一面未だ消えぬ雪

 なぞそれに当らないでせうか。御教示を乞ふ。

【答】 歌は地図や鳥瞰図(見取図)などの様に単に其処に在るものを其儘に写し出すものではない。材料にはするが、要するにその材料を統括する作者の主観が一首をすべねばならぬ。君はともするとその材料そのものに主客の別を置く事を以て主題を云々して居るかの様にも聞えるが、(自然さういふ結果になりもするが)元来は材料そのものに主客がある解(わけ)ではない。示された一首では夕陽が主で、あとは背景をなすものである。みながみな、主題をなしてゐるものではない。

【問】 歌は才のものでせうか。それとも努力のものでせうか。歌道の実に進み難い事を知ると同時に、自分自身の才が疑はれてなりません。

【答】 両方のものです。才が無くては作れず努力が無くては進まない。両方、保ち合って次第に進んでゆくべきでせう。

【問】 一、見るものきくもの思ったもの、さうしてそれによって心の動いた場合(微かながらも)それを全部歌にしてもいいのでせうか。二、歌は真実を歌ふのですか。然りとすれば不純不潔なものもありのままに歌ひ出されることになりますが。事実不純不潔なものの場合は偽って歌ふのでせうか。不純不潔なものの場合でも歌はずに居られぬ時は如何すべきでせうか。

【答】 (一)、左様です。然り而して其処で危いのは例の濫作(らんさく)です。材料を沢山見付けて来その一つ一つに歌をくっ付けて並べ立てる様なことは - 九州八幡あたりでは流行って居る様であるが - 歌の目的ではない。寧ろ一つのものに心を集注する様にして初めて佳い作が出来るかとおもふ。(二)、真実と一口に云ってもむつかしいが、自分にとつての真実を歌へばいいのです。あなたが若し路傍の馬糞に見恍れてしみじみほのぼのとし給うたならばその馬糞を歌ふがよろしい。然し、いやであったら何も強ひて歌ふことは無い。

【問】 近頃殆ど歌が出来なくなりました。偶々出来ましても自分ながら感心致しません。それにどなた様の歌を読みましても、左程感興が湧いて来ません。只今では先生の御著『和歌講話』を五回繰り返して読んで居りますが此の場合如何致したら出来るやうになるでせうか。歌を詠む者に取って、歌の出来ない程淋しい事はありません。何卒御指示を願ひます。

【答】 歌の出来ない嘆きには目下の小生大いに同感致します。現にまだ一首をもようつくらずにゐる身分ではこの問に答へる資格は無いわけだが、假りに - 歌を寧ろ忘れた気持になって自分の好きな本などを読むのも一つの良法です。歌の本でない方が却っていいかも知れぬ。漢詩とか聖書などを朗読するもよい。また、散歩などもよい。散歩の途中で見当った山吹なり篠竹なりを主題にして題詠風に詠みならすのなどもよいでせう。要は、気分の転換、生命の洗濯にあるのです。あまりにあせって却って自縄自縛式に何も出来なくなる事もあります。鬱屈するのが一番いけない。

【問】 詩境の湧いた時にいざ作歌しようと致しますと感じがただ莫然として詠めないのですが、どんなに致しましたら其の詩境なり心の動き等を明らかに感じる事が出来ませうか、御教示下さい。

【答】 詩境は詩興でせう、どうも男より女人の方が文字や言葉に無神経なのは可笑しい。何のあてはないが唯だ詠みたいなアと思ふ、あの一瞬をさして謂はれたものとおもふ。さうした場合、先づ気を鎮めて自分がかつて経験した中で美しいと心に残ってをるもの、または感動した出来事、それらの一つ一つを思ひ浮べて徐ろに一首々々に詠んでごらんなさい。それか、自分の眼前に在るものの何れかを、花瓶なり書籍なり鏡なり、主題としてその逸(はや)る心を其処に集めて詠んでごらんなさい。また、強ひても一首作って見るとそのあと案外に心がほぐれて次ぎ次ぎと出来ることもあるものです。

【問】 歌は事実に即すべく、概念ではいけない、斯うした注意は先輩に屡々聞きます。而して此信条の下に作歌する時、私は度々次の様な惑ひに陥ります。
 現に歌に詠まうとする材料、即ち眼前の事実そのままでは感興も薄く歌らしい歌にならないが、其事実を基礎として、過去に覚えた事実或は過去に経験した感興が心に蘇って眼前の事実と渾然一緒になってしまって、それが歌となる場合が多いのであります。例へば和やかなる春の海を眺めて歌はうとする場合其海の実景としては帆船は見えてゐないが目前の海を眺めてゐる事によって、帆船が浮かんでゐるのを見た過去の実景が心に浮かび遂に目前の実景に帆船を加へて歌にする。斯うした事は事実に即せぬといふ非難がありませうか。先生の御教示に接したうございます。

【答】 至極同感です。ただ君は概念といふ言葉を誤解しておいでる様だ。君の示された例について云へば、眼前の海に白帆は無いが心にありありと白帆を感じたといふならばそれは実感であって概念ではない。然し、斯うした海には白帆は在るべきもの、在らねば景色をなさぬものとして詠んだのなら、それは即ち概念である。其処の区別はその歌を見ればよく解る。正直なものだ。
 眼前の事実そのものは決して歌ではない。それに対して起る作者の感動の如何によって初めて歌となり得る場合があるのである。
 新聞記事や、役所の報告書は事実ではあらうが、決して歌をば成してゐないことをおもひ給へ。

【問】 街道に沿った未だ新しい亜鉛屋根の二階家、その前に真赤な花(たしかダリヤですが)が咲き乱れて居てそれが夏の陽射の中にあだかもくるめき燃え上ってるやうに見えるのです。漸くにしてまとめたのが、

  ま新しき亜鉛屋根の家ここより見ゆ表にまつかな花群れ咲かせ

ですが、読み返して見ると最初受けた印象とはずっと異ったものになりました。生ぬるくあきたらなく思はれます。彼のゴッホの絵「プロヴンスの大道」のやうなあのやうな劇しくも凄じい風景をそのまま現し度いと思ふと焦々(いらいら)せざるを得ません。

  遠方の亜鉛屋根の家まつかな花押し揺して照れる白日

 作り直しては見たが実にあやふやなものになりました。所詮、我等は前者のやうなもので諦めてあるべきでせうか。かうした場合取るべき態度等、何か御教示願へれば幸甚です。

【答】 改作された歌は概念歌である。徒らに言葉や調子ばかりで強調しようとしてゐる。まだ前のはいい。ただ「おもてにまつかな花群れ咲かせ」は概念臭い。といふより、お芝居臭くなってゐる。斯んな場合、眼前の事象に対してゴッホはもう少し冷酷だったかとおもふ。第一、屋根と云っておいてダリヤを持って来るのから既に不用意である。

【問】 歌はよくよく考へて作ったのがよろしいでせうか、思ったままを歌ったのがよろしいで御座いませうか。お教へ下さりませ。
 左の歌はどこがいけないでございませうか。

  朝まだき静けき道を荷車は音きしらせて過ぎ行きにけり

【答】 その人の性分にもよりませうし、どっちでもいいでせう。唯だ、あまり無考へにべらべらやられては、歌がまごつくでせう。
 お示しの一首相当に出来てゐます。かはゆき歌です。が、佳作とはまだ云へないでせう。

「創作」
昭和2年11月〜同3年8月

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