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狩野芳崖(その一)

坪内逍遥

 私が芳崖翁と差向いで話をしたのは、前後たった三度きりで、しかもそれは明治十九年の事だから、記憶が朦朧となってしまっていて、どうもはっきりとは話せない。それに何分先方はあの通りの天才肌の奇人で、此方はまだ若輩な書生上りであったので、話をしたといっても、シテ役はいつも先方、独り呑込みの達弁で、縦横無尽、支離滅裂の芸術談、話頭は大抵十分位づつで転換したので、所謂応接にいとまあらずで、其時分には面白いなと思った事も、翁が帰った後で、別の来客があったり、仕事が忙しかったりすると、ついそれに取紛れて忘れてしまうのが常であったから、殆ど何にも覚えていない。尤も私もその頃は馬鹿に忙しかった。本郷真砂町八番地に住んでいて、或人に頼まれてその人の関係者の息子達を七八人も監督していたと同時に、今の早大の前身私立東京専門学校へ毎日通って出教授役を勤め、尚別に二ヶ所ほどの私立学枚をも教え、その間に雑誌や新聞に筆を執っていたので、滅法に頭がせわしなく、翁の面白かるべき美術談その他をも、篤と味わって聴くいとまがなかったのである。惜しいことをした、と今更思っても仕方がない。
 何でも私が『読売新聞』へ初めて関係してだらしのない小説論や黙阿弥の弁護やその時々の感想なぞを書いていた時分であったと思う。ある晩、上野公園の桜が岡へ夜桜を観に往って、その所感を『読売』へ書いた、春のや朧という戯号(ぎごう)との関係上、頻りに春の月を有り難がって、唄に歌っていた頃であったから、何でも桜の梢越しに眺めた朧月を、阿弥陀如来に喩えて、寝言のような賛美の語を書き並べた。その頃の桜が岡は今とは全くの別天地で、老樹が夥しくあって、月夜の風情は見事であった。どうせろくな文章ではなかった。今はもう、何を書いたか更に覚えていない。と、その二三日後か、或はもっとずっと後であったか、それはよくは記憶していないが、或日突然に真砂町の宅へ訪ねて来た一老人があった。はじめて逢ったその日は、少々気が触れている老人ではないかとさえ、内の者などは疑った。まるで、区役所の役員ででもあるかという様な質素な羽織袴姿で、齢は五十七八で、腰には弁当箱をぶら下げて、名刺も出さずに狩野某と下女に取次がせて、会いたいという。どういう人だか解らなかったが、無論こちらは書生生活、だれにでも会うのが例であったから、客の間といっても、すぐ玄関の次ぎの八畳の間へ通した。通るや否や、十年の知己のように、極気軽に「や、先月の如来様は敬服です。全く如来さまに相違ない。あの通り通り!」というのむ序開きに、主人には更に文句を言わせず、約三十分間ほど、突拍子もない断片的の支離滅裂の美術談やら、芸術談やら、ノベツ幕なし。いつの間にかそれが演劇の話に移ると「俳優では、何といっても団十郎ですよ。さすがに偉い、うまいもんだ。併しあれほど心得ているようでも、まだどうも歩き方がいけない。小松重盛が、それ、あの、西八条第へ急を聞いて馳せ付けたところの、あの花道の出だ。あの歩き方がいけない。(というや否や老人は席を起って)団十郎はこういう風に歩く。(と弁当箱をぶらぶらさせて、八畳の小座敷をあちこちと歩きながら)これがいかん。腰の据(すわ)りがわるい。あそこは是非こうなくちゃいかんので。……」(とまた歩く。)
 是れが翁の第一次の訪問の時であった。下女の取次で狩野某と聴いたので、多分画家だろうぐらいには思っていたが、どういう身分の人だかも、実はその際には解りかねていたから、少々呆気に取られた気味であった。翁は喋舌りたいいだけ喋舌って、さも愉快そうにして帰って往った。
 その翌日になって、私はその老人は有名な芳崖翁であること知った。又、芳崖翁の為人に関しては、その後あちこちから聞いて、成る程、常人ではないなと思った。
 その後、私はつい訪問し得なかったが、たしかその年の内に、更に二度-やはり勤務の帰途に-立寄ってくれられた、能の話、劇の話、画の話と順序もなく、連絡もなく、大抵は例の独り合点式であったので、その頃の私の頭には要領を待ないことが多かった。定めし天才のひらめき式の奇抜な、面白い感興が幾らもあったのであろうが、惜しい事に、どういう取留った記憶も印象もない。或いはとくと考えたら憶い出すかも知れないが、今はまだ思い出せない。
 その頃の私は腸胃病患者でもあり、脳患者でもありて、今の私より虚弱であったのを、翁が頻りに心配してくれられて「自分は平生大蒜(にんにく)を副食物として必ず用いているが、滋養用としても、強壮用としても、至極の物である。食い馴れんうちは、一寸食いにくいが、味噌汁の実などにして食うと、なアに根ッから平気だ。是非やって御覧なさい。全く奇妙なくらい利くから」と繰返して深切に勧められた、大蒜効能論が、その日たしか三十分間も続いた。
 それは翁と面晤した最後であったかと思うが、某日は擂木(すりこぎ)を翁は袴の腰に挿していた。何の為に挿していたのか、聞かなかったが、或いは台所用に買って来たのであったのか?
 私は熱心に勤められると、何でも一応は試みて見るのが癖であったから、翁の勧告を信じて、早速翁の駿河台の宅へ使いを遣って、試用料としての大蒜を、小風呂敷に一包みほど譲り受けた。雑炊にして食うのが最もよい、と翁は言った。
 大抵の物は食い得る私だが、この大蒜雑炊には参った。妻にも是非食えといって、共に食って見たが、大きに参った。とても日に何度の食事用なぞには無理だと我を折って、辟易する妻を説得して味噌汁にも試みたが、とても二度とは箸が取られず、翌日は煮付け、その翌日は何と、三四度料理法を換えたとどの詰りが飴煮。それでも家内中もう一人も箸を着けるものがない。さすがに主人公一人だけは、一週間ほどは勇を鼓して、持薬の積りで、毎日三回づつ食った。その効能で顔はほてる、気は上づる、どうやら脳充血にでもなりそう。とうとう降参して中止。
 翁の三回の来訪に報いるために、たしか一度、駿河台へ-余り久しく翁の消息を聞かなかったので-私の方から訪問した。ところが、それは翁の病中か何かで会うことが出来なくって、空しく帰った。多分、それは最後の往来であったろうと思ふ。
 翁は中々の能楽通で、故松本金太郎老人に師事して、大熱心に「松風」を研究し、勿論立方をも稽古し、頗る自得する所があったとか、後に聞いて知ったが、其せいでもあろう、能の講釈は毎回幾らかづつあった。但し翁の稽古したのは、ただ「松風」一曲だけ、天にも地にも「松風」一曲だけであったということであった。
 翁の死後、友人の某が、「君も芳崖とあれほど親しかったなら、何か一二枚画いて貰っておけばよかったに」といったが、私は翁と話していた間に、ついそんな事は仮にも念頭に持ったことがなかったほど迂闊であった。画いておいて貰えばよかったとは今尚いささかも思わないが、翁の感想を不秩序の中に秩序立たせるようにして引出すだけの素養も工夫もなかったあの頃の私の迂愚と幼稚とを自ら憫まざるを得ない。

(大正九年十二月)

狩野芳崖
かのう ほうがい1828〜1888
日本画家
黙阿弥
河竹黙阿弥 かわたけもくあみ 1816〜1893
江戸日本橋生まれ。江戸末期、明治前期の歌舞伎作者。
団十郎
市川団十郎(九世) 1838〜1903
市川宗家。歌舞伎俳優。七世団十郎の子。新歌舞伎十八番を制定。

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