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観る方からの演劇の趣味

坪内逍遥

 お訊ねの「趣味」というのはどういうのか知らないが、私共の考えでは、趣味というものは、主として審美的であるべきものだと思う。審美的というのは無目的なのをいう。それによって如何いう利益を得ようとか、如何いう実効を挙げようとか、一言でいえば、是非どうしたい、こうしたいという予定の、まとまった欲望を以てその事に臨まないことなのである。理屈もなく、要求もなく、ただ「あわれあわれ」と詠める鑑賞の態度が、それが趣味の真正の作用であろう。例えば、庭園の趣味、謡曲の趣味というような場合でも、もしその庭園を公衆の観覧に供して収入の助けにしようとか、或いは自分の豪奢風流を誇る道具に使おうとか、或いは主として病気保養の為に設計するとかいうことになると、常識的に考えて見ても、何となく趣味的ではないように思われよう。
 謡曲とても同じ道理で、ただ何という理屈も目的もなしに好いているという処に、却って争われない趣味性の働きがあるのであろう。もしそれが、行く行く専門家になるための準備であったり、腹式呼吸の補いにはじめたのであったり、全くの退屈紛らしであったり、武士道鼓吹が眼目であったり、その他、何か知ら効能ようの事が表招牌(しょうはい)になるようでは、少くともその趣味が純粋でないといえよう。もとより、何等かの目的、即ち何かの為にしようという利用の念が付帯するのは、自意識の強くなった、智慧の善く働く人間には、無論まぬかれがたいことでもあり、且つ敢えて厭(いと)うべきことでもあるまいから、少しでも利用の念が伴っては、それは最早趣味とはいわれないなぞというのではない。今いったのは、無論、先後本末の話なのである。
 さて、仮にこう定義めいたものを定めておいて、それから観劇の趣味ということの話をしよう。お訊ねの題は確か「演劇の趣味」というのであったのだが、観る方からの劇の趣味と演ずる方からのとでは大分ちがうし、二つにはよもや本誌の読者達が、主として女優志願者というようなことともなかろうと思ったから、勝手に題意を、観る方だけのに縮めて見た。
 まず自分の経験から言おう。私は十一二歳の頃から観劇の趣味を覚えた。母親の腰巾着になって折々劇を観るのが、その頃には最上の愉快な事で、草双紙や稗史(よみほん)を読むのよりも以上、無論、飲食以上、遊山、舟遊び以上の楽しみであった。それから十七八歳までは同じ趣味性が続いていた。ところが著述をしたり批評をしたりするようになってからの観劇趣味は、最早純粋ではなかったのである。幼少の時分とても、俳優の巧拙、作のよしあしが全く分らなかった訳ではなかった、併し批評をしようと思って観ているなぞということは幾んど曾(かつ)て無かったのだが、自分が作をしようと思うようになってからは、劇そのものに面白味を感じているというよりも、それを批評することか、それを参考品にすることか、もしくはそれやこれやを引きくるめた或雑駁な目的の為に趣味性以外の感興を覚えていることが多かったのである。それから、更に後になって、自分が主とし責任を負って、一の新劇団をひきいて、一の社会事業としての事に携わるようになってからは、観劇の趣味性が更に一層不純になって、厳密にいうと趣味ではなく、むしろ一種の「仕事」になった。新しい劇を興さねばならぬという責任と希望とが強いために、知らず知らず陳(ひね)いものに対しては無目的で観ていた時分よりは強い反感を持つというような傾きが生じ、新しい劇に対しても、自分の理想が高く、欲望が大きいだけに不満足なことだらけで、観劇は毎に不快な感じをもたらすものになった。もっとも、これは私としては覚悟の上でしたことである。趣味と事業とを一つにしようというのは、中年からの思い立ちであったのである。が、とにかくこの自分の経験によって見ても、趣味というものの本領は無目的な処にあるので、何等かの利用の念が伴ったら、もうその趣味は不純で、局外から臆測するよう、真に「芸に遊ぶ」楽しさは存在していないであろう。そう解釈して見ると、一寸逆説的(パラドキシカル)な結論が生じてくる。即ち何事の趣味も、その道の通人とか、専門家という人には、却って本当には解せられていないかも知れぬということである。たとえ智慧では解せられていようとも、実際享楽されてはいなかろうという疑いである。劇に関して言えば、劇の作者、劇の批評家、俳優、興行当事者、劇場関係者、俳優志願者、素人芝居の熱心家なぞは、何れも観劇の真趣味を享楽し得ているものではないといえるらしい。彼等は劇趣味の中に入浸っている人達ではあるが、観られようとか、批評しようとか、これで金儲けをしようとか、あんなに上手になりたいとか、観劇趣味の本体とは全然関係のないことに脳神経の全部もしくは七八分までを占領させて劇を観ているのである。従来は劇の事は彼等に聴かねばならぬことになっていたのだが、もしこの論理が成立つものとすると、将来は少々考えものである。趣味と理解とは別だとはいうものの、それほど趣味性の濁っているものとすると、その理解もまた歪んでいるかも知れぬ。
 それと同じ道理で、風俗研究の助けになるからといって、活歴式、絵巻物式の史劇を観に行く人も、真の観劇趣味の人ではない。浄瑠璃物でも、黙阿弥物でも、とにかく昔の芝居は幾らか教訓の意を含んでいて、女子供の為になるからといって観に行く人、それも趣味の人ではない。贔屓の役者が出るからといい、わしの村の事を演るそうだからといい、お祖師さまのお伝記だそうな、といって観にいくなぞも、何れも趣味の観劇ではないのである。
 それと同じで、最も観劇趣味の進んでいるらしく思われる若い人々の間にすら、やッぱり趣味を離れた観劇説が主張される。例えば、云々の劇は、新時代精神の勝利を意味する思想劇であるからとか、何々の劇は女子の為に気を吐くものであるから痛快だ、とかいうようなのは、趣味本位からいうと脱線である。もっとも、所謂問題劇とか、思想劇とか称せられる近代の作には、その作の本来から既に幾らか脱線気味のものもあるが、さすがに大家の作となると、所謂思想なり、問題なりが、さほど劇の本領の邪魔にはならないで、立派に芸術品とし享楽し得られるのである。然るに、観る者の方で頭から利用の念ばかりを盛んに働かせ、間接に自分の鬱憤を洩すため、若しくは他人の口をかりて気焔を吐く為なぞに翻訳劇を観るのを喜ぶ例もある。そういうのは、彼の勧善懲悪の教訓の為に、古い芝居へ女子供を連れて行くのと全く同格の功利主義者である。こういう人達に限って作意をも、俳優の技芸をも、とかく利用の都合上から幾らかづつ曲解する傾きがあるものであって、深刻な、精緻な解剖評は、時に彼等から聴くことが出来るが、真の純粋な、観劇趣味の話は、おそらく、そういう人達からは聴かれないであろう。
 それからまだこういうこともある。観る当人はあくまでも趣味本位で、虚心平気であっても、作そのものが妙に煽動的であったり挑発的であったりするために、純粋な趣味的享楽が得られないことがある。所謂問題劇や思想劇や象徴劇の第二三流に位いするものには、とかくそういう弊が伴う。原作はそうでなくとも、訳しかたがわるかったら、舞台監督なり俳優なりの解釈に、幾分か不純な心持が加わっているために、そういう結果になることもある。又俳優の芸風が妙に衒耀的におれの腕を見ろと言わぬばかりであるために、その役者の個性が目立ち、邪魔になって劇全体の趣味を破壊することもある。写実式と象徴式とが、わるくママコになって折角面白かるべき所作事や浄瑠璃劇やが詰らぬものになることもある。こう見て来ると、観劇の趣味というものも、容易に純粋には享楽しがたいことが分るであろう。
 現代は種々の理由、原因から、観劇の真趣味の得られない時代である。旧派の劇は、主として芸風の不調和-写実式と空想式との不調和-ということが原因となって、趣味性の満足を妨げ、新派劇は其似而非(えせ)写実の芸風と事実めかした而も到底実際にはありそうもないような無理な筋立のわる甘さとが虚心の鑑賞を難(かた)んぜしめる。翻訳劇その他の新劇に至っては、前にいったような煽動的の理屈が邪魔になるのみならず、如何にもまだ芸が未熟なので、正当な意味で謂う趣味の題目とはなりかねる。新劇団の劇は、「将来の劇の為」とか、「新思想鼓吹の為」とか、若しくは「素人出としては」とか、「試演としては」とか、何とか条件を付けぬ以上は落着きかねるのである。
 で、今のところ、我が国の演劇では、比較的純粋な心で鑑賞することの出来るのは、旧式のままに演ぜられる浄瑠璃劇か所作事かであろう。「忠臣蔵」や「先代萩」となると、もう活歴式との不調和が目立って、不快である。が、浄瑠璃物や所作事とても日に月に崩れて行くばかりである。黙阿弥物なぞも、帝劇などでは、見られない。
 併しこう苦情ばかり並べるのが、取りも直さず趣味以外に脱線しているのかも知れない。観劇の趣味を享楽しようというのなら、月花を見るような心持になって、ただ何がなしに覧るがよろしい。いわれを聴いてからでなくては分らぬようなら、その劇が間違っているのか、俳優が拙いのか、その眼が劇といふ比較的複雑な芸術を観るにはまだ余りに幼稚なのであらう。劇の主題は「人生(ライフ)」という事である以上、劇は多少「実人生」を知っていねば分らぬ筈であるが、所作や浄瑠璃物であって見れば、これは楽劇であり舞劇であるから、目や耳でリズムの美を鑑賞し得る多少の素養こそは無くてはならんが、それ以外には別段何の準備も要らない。又それだけの素養と準備とで、虚心平気にそれを味い得る人達こそは幸福である。何となれば趣味の三昧に入り得られるからである。私共は、いわば荒んだ観劇者で、憫れな、気の毒な手合である。

(大正四年十月)

黙阿弥
河竹黙阿弥 かわたけもくあみ
1816〜1893
江戸日本橋生まれ。江戸末期、明治前期の歌舞伎作者。

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