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都市の味 名古屋 石川栄耀の視線

 都市の味とはどんなものだろうか。

 日本の都市計画学界で最も栄誉のある賞『石川賞』にその名を残す都市計画家 石川栄耀は、旅とは都市を味わい知ることだと語っている(注)。都市に味があるとしたら名古屋の味はどんな味だろうか。

 名古屋生まれで元名古屋市計画局長だった伊藤徳男氏は、名古屋の街について
栄を中心にして、半径1キロで画かれる都市の中枢部において、その面積の二分の一が公共空間で構成されていることは、他都市にも比類がなく、それらが市民の貴重な財産の結集であることは大きな誇りである。」と述べる(『名古屋の街 戦後復興の記録』 伊藤徳男 中日新聞 昭和63年)。
 名古屋に出掛けるのなら、他都市に比類がないという都市の中心でありながら街の50パーセントがパブリックスペースという『栄エリア』に出かけたい。

 ここ数年名古屋では、『栄エリア』対『名駅エリア』という図式が語られることがある。
 名駅エリアとは、名古屋駅周辺の地区のことで、街の名前も「名古屋駅」を縮めた少し味気ないものだ。高層ビルになった駅ビルと周辺部の再開発によって数棟の高層ビルが生まれた。「栄対名駅」で語られる結論はいつも名駅優勢といったものだ。公示地価、オフィスビルの3.3平方メートルあたりの平均賃料、名古屋駅ビル内の高島屋と栄の松坂屋の売上げの伸び率は、すべて名駅の勝ちとジャッジする。
 これから述べたいのは、都市を貫く街づくりの基本的なコンセプト、魂のことである。駅前の再開発ビルや駅ビルの高層化に果たして魂といえるようなものがあるだろうか。
 東京駅丸の内口駅前の東京中央郵便局の建替えに関して、異議を唱えた大臣に対する推進派からの反論は、「手続きは進んでいる。もう遅い。今更この件についての議論が蒸し返され、工事が滞ればビルの完成後入ってくるハズの1ヶ月につき10億のテナント収入が失われていく…」というものだった。反論には、街づくりの一環としてのビル建設といった視点は何もなかった。だいたい、歌舞伎の荒事では、「もう遅い」は悪者が言う科白だ。

 石川にはこんなエピソードがある。名古屋の都市計画技師時代、1年間世界の都市を視察する旅に出て、1924年アムステルダム国際都市計画会議で出会った「イギリス都市計画の父」とも呼ばれるレイモンド・アンウィンに、持参した名古屋の都市計画を見せて高評を仰いだ。
 名古屋の海岸付近がほぼ全て工業地帯になっていたその計画を見たアンウィンは、

「君達の計画を尊敬はします。しかし私にいわせれば忌憚なくいわせれば、あなた方の計画は人生を欠いている。私の察しただけではこの計画は産業を主体においている、いや、主体どころではない産業そのものだ。成程カマドの下の火が一家の生命の出発点であるように産業は立都の根本問題であろう。それに対して何もいわない。しかし、例えて見ても一家の生活においてもカマドの火は高々一時間で消される。そしてそれから後は愉快な茶の間の時間がはじまるハズだ。
 産業は人間生活のカマドでしかない。むずかしく言えばそれは文化生活の基礎である。
 軽い言葉で言えば文化の召使(サーバント)である。
 あなた方はサーバントに客間と茶の間を与えようとしている…(中略)…)」と説かれた。
 言いたい事は充分にあった。弁解もしてみたかった。それよりも自分達のほとんど偶像化している先輩から思いがけなくこうした若い柔らかい意見が聞けたのが何よりも嬉しかった。文句なしに頭が下がった(『都市創作』1巻3号 大正14(1925)年 17ページ)。

と石川は自らの筆で書き残している。
 別に、駅前の一等地を、サーバント(産業)には与えず、つまり、オフィスビルにしないで名古屋を訪れた旅人のために公園にして差し出せと言うつもりはない(ちなみに、栄エリアの一等地は、100メートル道路の久屋大通で全長1.7キロの帯状の公園となっている。)。ただ、高層ビルの駅ビルや、駅前再開発によって建設された高層ビルには、民間企業として所有する資産(土地)の有効活用という視点以外に何があるのだろうか。そこに味わうべき人生といったものがあるだろうか。
 栄には間違いなく「人生」がある。「街にも寿命があって、1610(慶長15)年の名古屋城の築城と都市の大移動いわゆる「清洲越え」を名古屋の誕生とすれば…」といった比喩ではない。
 戦災によって中心部の大部分が消失した名古屋の街を復興させるとき、この街を作った人たちは何を考えたのだろう。都市の中心部が焼け野原になったとき、この街の都市計画に携わってきた人々は、失われた尊い人命を想って強い後悔と無念を感じたはずだ。何であれ二度とこんなことが起こってはいけないと感じ、起こさないと誓ったはずだ。
 その誓いによって生まれたのが、名古屋の街を中心部で4つに隔てる防火帯(延焼を防ぐオープンスペース)としての2本の100メートル道路だ(注2)。石川を含めてすべての名古屋の都市計画に携わってきた人たちの強い意志(魂)が生んだものだ。伊藤が胸を張る栄エリアの公共空間の大きな割合を100メートル道路が占めている。100メートル道路は現在公園だ。黒沢明の映画『生きる』(1952年)で志村喬演じる市民課長は最後に何を作ったのだろうか?
 新幹線を降りて手近に何でもある名駅の街は便利かもしれないが、都市に味があるとしたら名古屋の味は「栄エリア」に行かないかぎりは味わうことはできない。

注 都市の味 「郷土都市の話になる迄」の【断章ノ三】 石川栄耀

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防火帯としての100メートル道路

名古屋map

注2 名古屋を4分割する防火帯として若宮大通(100メートル道路)が南北を、東西を久屋大通(100メートル)とともに、新堀川が担っている。 IATSS Review Vol.23, No.4 March,1998 9ページなど

久屋大通

久屋大通 100メートル道路

石川栄耀
いしかわ ひであき 1893〜1955
山形県生まれ。「旧都市計画法で最も功績があり、かつ、最も典型的な旧法下の都市計画官」と評される都市計画家。
キャリアをスタートした名古屋について「28歳から42歳迄の自分の名古屋市の生活は都市計画技師としては最高の恵まれたものであったろう」と自著の序文に書いている(「都市計画及国土計画」工業図書 1941)。1920年都市計画地方委員会技師として名古屋地方委員会に赴任。1933年都市計画東京地方委員会に赴任。1948年東京都建設局長就任。1951年早稲田大学理工学部教授に転出。
『典型的な旧法下の都市計画官』との硬いイメージに反し、新宿「歌舞伎町」の命名者であり、殺伐した都庁の雰囲気がたまらず、「都庁ゆうもあくらぶ」をつくったユーモリストでもあった。文学青年でロマンチシストだった石川は、東京都都市計画の覚書で「社会に対する愛情、それを都市計画という」と述べている。
レイモンド・アンウィン
Unwin, Raymond 1863〜1940
イギリスヨークシャー州ホイストン生まれ。イギリスの建築家、都市計画家。イギリスの田園都市運動の創始者E.ハワードらとともに、1903年ロンドン近郊に最初の田園都市レッチワースを設計した。

平成13(2001)年、名古屋の都市計画の沿革を記録した『名古屋都市計画史』(名古屋市計画局・ (財)名古屋都市センター編 (財)名古屋都市センター刊 1999)が名古屋市関係では初めて石川賞(2000年度日本都市計画学会石川賞)を受賞した。

元名古屋市助役浅井(あさい がいち) は、終戦を外地でむかえ、復員船で帰り目にした名古屋の様子を
「栄町の交差点に立って、北を望むと名古屋城の天守閣がなかった。あたり一面焼け野原と化し、瓦礫の山の所々から水道管の水が糸のように漏れていた…」
と回想する(「Nagoya発」No.14 1990.12 名古屋市)。

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