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文楽の人

織田作之助

吉田文五郎

 吉田文五郎でござります。お初にお眼に掛ります。何なりと聴いとくなはれ。
 歳でっか。へえ、もう六になります。へえ、そうだす。七十六だす。吉田栄三はんはわてより三つ若うおますさかい、三でんな。さあ何年生れになりまっしゃろか。こうーつとさよか、栄三はんは明治五年でっか。ほんならわては二年生れいう勘定になりまんな。
 さア二年の何月だしたか、たしか十月やと思いっすけど……。日でっか。ころっと忘れてしまいました。えらい鈍なことで、大阪の畳屋町だす、生れた所は…‥。これだけはよう覚えとります。それといいますのが、わての生れた家がいまだに畳屋町に残っとりますのんや。わての父親はその畳屋町で親譲りの質屋とその片店に炭屋をやっとりました。河村清五郎という名アだしたさかい「河清」という家号だしたが、何でもわての九つの時に失敗して人手に渡してしまいました。けど、その「河清」という看板はいまだに畳屋町におます。
 その時分はなんし大阪も随分(とうない)不景気だしたさかい、「河清」を人手に渡してからというものは、父親もえらい苦労して、母親と一緒に一文菓子を売って歩いたりお鮨屋をしたり、住居もわてが覚えてるだけでも、九条、天満の寄木町、上福島、千日前、木津……という風にあっちイ変り、こっちイ移りして、いろいろ商売も変ってみましたが何やってみてもてんと埒があきまへん。そんで父親は世話する人がおましたさかい、松島の文楽座イはいって、-いえ、芸人やおまへん、表方で手代かなんどの仕事するようになりました。
 わてが文楽イはいったのんは、そんな関係からだしたが、けど父親は自分が文楽イ勤めるようになったからいうて、子供まで小屋者にする積りはおまへなんだ。もちっと堅気の稼業に入れる積りでしたさかい、わては十一か十二の歳に奉公へ遣られました。
 その時分は、大阪では良家の坊(ぼ)ン坊ンやない限り、みな子供の時から奉公に行たもんだしたがこれがまた随分辛うおました。なんし今で言うたら尋常学校もまだ出てんくらいの歳だす。それが貴方様(あんさん)、朝は冬でも四時に起きて、戸オあけて冷い水で拭掃除して、それが済むと旦那のお伴して朝銭湯イ行て、旦那の湯くんだり水くんだり、背中流したり、身体拭いたりします。旦那は一足先に帰りはります。裸で飛んで行って下駄揃えて、そのあとではじめて湯ウにつかって雀の行水みたいに一寸身体ぬらしただけで飛んで帰って、漬物二片の朝ごはんを戴いて、それから店へ出て、昼間さんざんこき使われてええ加減くたびれているのに、晩は旦那の按摩をさせられて、煎餅蒲団にくるまって寝るんが十二時だした。一刻うとうとしたかと思うと、もう起きて眠い眼エこすりこすり蒲団たたんで。それで貴方様、お給金いうもんがおまへんのや。休みも半年にたった一日あるだけでその時に小遣三銭いただきます。一年で六銭だす。
 なんし遊びたい盛りだしたさかいそれでは何ぼ何でも辛抱が続きまへん。それにわてはだいたいが子供の時分から芝居や見世物がほん好きだして、その時分は五厘あったら見られましたさかい、母親から小遣さえ貰えば芝居小屋や見世物小屋イ行てましたような按配で、奉公してましても、心がついそっちイ向いて、ああ今頃は道頓堀でやぐら太鼓がにんぎやか(賑か)に唱ってるやろな-と、こない思いますと、そわそわして来まして何にも手がつきまへなんだ。自分から飛び出したり、暇出されたりして、到頭二十三軒も奉公口を変えました。
 そんな按配で、どこイ行っても尻が温もりまへなんでっさかい、父親もえらい心配して、その時分京都の寄席に出たはった吉田玉五郎はんいう人形遣いに、
「どないもこないも仕様おまへんねや」
 と、わてのことこぼしますと、
「そない困ってるねんやったら、いっそのことわての所イ寄越してみなはれ」
 というわけで、到頭玉五郎はんとこイ預けられました。なんでも十四かそこらの時やったと思います。
 玉五郎はんとこで尻が落ち着いたかと、おっしゃるんでっか。へえ、そらもう貴方様なんし芝居や見世物ずきのわてが到頭芝居の仲間イはいったんでっさかい、前の奉公みたいなことはおまへなんだ。けど芝居いうてもたかが京都の場末の寂しい寄席だす。やっぱし道頓堀や千日前の賑かな小屋が懐かしゅうなって来ます。それに何といってもまだ十四やそこらだっさかい、親の許が恋しなります。ある日、玉五郎はんからお米買いに遣らされたその足で、到頭伏見から三十石船に乗って逃げ戻りました。
 そこで父親も仕様なしに、わてを松島の文楽座イ連れて行って、文楽座の親玉はんの吉田玉造はんの息子はんにあたりはる吉田玉助はんの部屋イ連れて行て、
「よろしゅう頼みます」
 言いまして、その時からわては玉助はんの弟子になることになりました。十五の暮れだした。
 父親にしてみましたら、同じ人形遣いにするねやったら、寄席に出たはる玉五郎はんとこイ弟子とも奉公人ともわからんような恰好で預けとくより、いっそ檜舞台の文楽座のえらいお師匠はんとこイ正式に預けた方が良(え)えとおもったんでっしゃろ。それに何というても父親は文楽イ勧めてましたしまア親の傍で尻を温(ぬく)もらそ思ったんでっしゃろ。

 玉造はんいうお方はえらいお方だした。
 昔から人形遣いには沢山(ぎょうさん)の名人がいやはりますが、名人の中の名人いうと、吉田文三郎はんというお方だした。この方はそれまで人形を一人で遣うておったのを、三人遣いということを考え出しはったお方だして、ま、人形遣いの元祖というても良いお方だしたが、玉造はんはこの吉田文三郎はんにつぐ名人や言われたお方で、人形遣いで紋下にならはったのがこのお方がはじめてやと聴いとります。
 わてらは皆親玉はん親玉はん、言うて怖がってましたが、太夫はんでも床から降りると、親玉はんのお部屋イ挨拶に行かはりまして、「御苦労はんでした」いうて、いちいち礼言うたはったくらい、えらい権式持ったお方だした。
 玉助はんはこの玉造はんのお子さんだしたが、三十に成るや成らずで、もうお父様の親玉はん以上やいわれなはったくらい、腕の達者なお方で、その時分彦六座にいなはりました吉田辰五郎はんというこれまた女形の名人が、「親爺の玉造の芸は評判ほど怖い思わんが、息子の玉助の腕は末おそろしい」言うたはりました。
 そんなえらいお師匠はんとこイ、正式に弟子入りしたんでっさかい、それに、大阪へ帰ったわ、親の傍に居られるわで、わては気持がなんやこう浮々しました。
 ところがさて弟子入りしてみますいうと、その辛さは、今までの奉公の辛さどころやおまへん、毎日泣いとりました。
 その時分、文楽座は松島の千代崎橋、今の八千代座のとこにありまして、松島文楽座とよんでましたが、その松島まで毎朝通います。
 朝というても、夜が明けてからとは違います。昔の芝居は夜の引明け時分から始まりまっさかい、わてらは午前四時というともう小屋入りしてんなりまへん。その頃家は、天満の寄木町におましたさかい、松島の千代崎橋まで一里半の道をテクテク歩いていかんなりまへん。電車はなし、雨の日も風の日もテクテク歩きます。歩いて行って四時には小屋入りするんでっさかい、どないしても二時か三時に起きて、冷飯をたべて握り飯竹の皮イ入れてぶら下げて家を出んなりまへん。暗い道を提灯下げて、河岸伝い、浜伝いに、川風に吹かれてとぼとぼ歩いて行きます。冬は鼻が千切れるほど寒おます、手え出しますと、凍ってしまいますさかい、提灯の柄は兵古帯にぶら下げて懐手してひょこひょこ行きます。
 一里半あるいて、やっと小屋へ着くと、まだ真っ暗だす。手さぐりでランプつけてそれから火イおこします。今みたいに燐寸(マッチ)スッとするわけにいきまへんわ、火打石でカチカチ火イつけます。その火イを牛の油と糠で拵えた蝋燭につけて、その上イ堅炭のせて、お茶沸かし沸かし、部屋の中掃いたり拭いたり、廊下の掃除します。
 そのうちに師匠が部屋入りしやはります。さあ、忙しなります。羽織を畳まんなりまへん。着物着かえささんなりまへん。お茶出さんなりまへん。あれせえ、これせえ、用事いいつけられます。師匠だけの用事やおまへん。親玉はんの肩も揉まんなりまへん。これも揉んでくれ言やはるのと違て、手エ強うするために、こっちから頼んで揉まして貰うんだす。
 それが済む時分には、柝がはいって舞台がざわめいて来ます。黒衣(くろこ)を被って舞台イ出んなりまへん。いえ、人形遣うのんと違いま。誰が貴方様、はいり立ての新米に人形遣わせてくれまっかいな。巳之(みの)コ!わては本名の巳之助いう名ではいってましたさかい、皆んなから巳之コ、巳之コいわれてました、-巳之コ、蓮台運びせ、へえ。何出せ、かに出せ、へえ。何なおしとけ、へえ。ツケ打て。へえ。巳之コ、幕ひけ。へえ。下駄揃え。へえ-というような按配で、舞台と舞台裏の間をあっちイ走ったり、こっちい走ったり、きりきり舞いせんなりまへんが、その合間にまた、部屋へ戻って、師匠の出の支度手伝わんなりまへん。脱いだ衣裳は畳みます。舞台から戻りはると、こんどは裃畳みます。袴を畳みます。それからまた舞台イ飛んで行きます。巳之コ、あれせえ、これせえです。その合間合間に太夫の語りはる文句も覚えんなりまへん。三味線の間も呑み込んどかなりまへん。人形の足拍子の取り方もよ見とかなりまへん。振りも見とかんなりまへん。おちおち飯食うてるひまもおまへん。腰にぶら下げた握り飯を頬ばり頬ばり、テコテコと動きまわります。眠うても、欠伸ひとつゆっくり出来んくらい、忙しおます。
 芝居は夜の五時にはねます。師匠を送りだしてから、跡かたづけして、それからまた提灯つけて、とぼとぼ一里半の道天満まで帰ります。眠うて眠うてどんなりまへんさかい、居眠りながら歩きます。帰り道で俥屋にあいますと、帰りやさかい、五銭のとこ三銭にまけとく、乗んなはれ言います。けど、乗れまへん。銭がおまへんのや。給金もろておまへん。一銭の銭もいただかれしめへん。そいで、俥にも乗らんと、とぼとぼ歩いて帰って、半分居眠り晩御飯を食べると、そのままくたくたになって蒲団の中イもぐりこんで、もう朝までなんにも判りまへん。
 そんなえらい目えして、三年無料(ただ)働きして、ちょっと足が遣えるようになって、やっと一厘銭をつないだ棒を、給金やいうていただきました。数えてみますと、一厘銭が二十枚おました。三年振りで二銭の給金だす。
 それではとても食べていかれしめへん。ま、わてらは親に食べさしてもろてましたから、食う心配はおまへなんだが、それでも一興行二銭では、小遣いにもなれしまへん。そいでちょっと足が遣えるようになったのを幸いに、文楽がはねてから、寄席や素人浄瑠璃の人形をスケに行って、小遣い稼ぎしました。十日の間夜勤して四十銭くれるとこもおました。そいでちょっと助かりましたが、その代り、昼間散々疲れている上にまだ夜おそくまで働くんでっさかい、身体は疲れるわ、眠りは足らんわ、一日中ボケみたいになってました。
 けど、うっかりボケておられまへん。一口に足遣い言いますが、足遣いほどむつかしいもんはおまへん「足遣い十年」いいます。それほどむつかしいもんです。四十年足ばっかり遣たはったひともあるくらいだす。家へ帰れば、女房も子もある。たまには孫もあるいう歳になっても、黒衣着て、足ばっかし遣て、そいで一生終ったひともおます。
 だいたい人形遣いいうもんは影の仕事だす。だいいち、太夫に合わして行かんなりまへん。われがおれがと思て勝手に遣て行ったら、舞台がさっぱり駄目になってしまいます。自分いうもんを殺して、太夫はんに合わせていくのんが本当だす。それにまた、人形遣いは人形の影にかくれてしまわんと、本真(ほんま)の人形遣いといえまへん。文五郎なら文五郎が舞台に出てるのんと違います。舞台にはお園か出てるのんだす。小春が出てるのんだす。文五郎はただお園の中へはいってかくれてしまうのんだす。わてらは役者と違て、舞台の上では唖になって、死んでしまわんとあきまへん。人形遣いが消えてしまわんと、まだ見えるようだしたら、そらまだ本真の芸やおまへん。わてらは一生かかって消えてしまう修行してるわけだす。ま、言うてみたら、一生影の仕事だす。その影の仕事の中でも、足遣いが一番影の仕事だす。
 御承知のように、人形いうもんは昔は一人で両手を突っこんで、遣うておったのんを、さきに言いました吉田文三郎はんの時から三人で遣うようになりました。人形の胴を遣うのんが主遣い、シン遣いともいいます。人形の左手遣うのんが左遣い、足-女形には足がおまへんさかい、裾を遣います-足を遣うのんが足遣いです。
 この三人が一つになって一つの人形を遣うのんでっけど、足遣いと左遣いというもんは、主遣いと違(ちご)て出遣いということがめったにおまへん。いつも黒衣を着て、影にかくれます。その中でも、足遣いは、人形の裾につくもって、五尺の身体を二尺八寸の手摺の陰にかくれて、遣わんなりません。
 それと、もうひとつ、足遣いいうもんはなにからなにまで主遣いに合わせていかんなりまへん。自分の勝手で動くいうとこは一つもおまへん。なにからなにまで主遣い任せだす。主遣いの呼吸に合わしていかんなりまへん。一口に、呼吸を合わすいいまっけど、これがちょっとやそっとでは出来まへん。だいいち、前もって三人で打ち合わせしとくということが出来ません。かりに「後追っかけて」いう文句があったとします。太夫の息が長い時は五尺出てキマリがつきまっけど、太夫の息が短かいと四尺しか出られしめへん。それが、その時その時で長い時もあり、短い時もありで、前もって打ち合わしして置いても狂うて来ます。
 ほんなら、なにを目当てに足を遣うか言いますと、足遣いは主遣いの腰に身体すり寄せて、右腕をその腰に当るようにして置いて、主遣いの腰のひねり方ひとつで、ああ、右足を出すのんやな、左足を出すのんやな、坐るのんやな、うしろ向くのんやなと、その時その時に悟るのんです。
 それに、足遣いは足拍子いうもんを踏まんなりまへん。人形いうもんはあの、トントン足拍子を踏むのんが特徴だして、「寺小屋」の「いろは送り」なんか、あの足拍子がおまっさかい、歌舞伎と違て舞台が引き立ちます。ま、足拍子いうもんは人形には大事なもんだす。これは主遣いが踏むように見えまっけど、じつは足遣いが足を遣いながら自分で踏むのんだす。これがむつかしおます。
 そういう按配で、足遣いいうもんはなかなかラクな仕事やおまへん。眠たいからいうて、うかうかボケておれまへん。それに足遣いは主遣いと違て、手のあき次第にあれの足遣え、これの足遣えといわれて、舞台へ出通しだす。休むひまもおまへん。
 おまけに貴方様、この辛い足遣いに廻して貰うのんは、三年舞台裏の仕事を辛抱したあげくだす。たいていの者(もん)はホトホト情けのなります。
 給金はただみたいに安いわ、身体はへとへとになるわ、眠りは足らんわ、こら、こんなことしてたら、身体が駄目になってしまう思て、わてもなんべん逃げ出そ思たかわかれしめへん。
 いや、それもただ給金が安いとか身体がえらいとかいうだけやおまへん。そんなことよりも、もっと辛かったのは、気苦労だした。
 わては親玉はんの玉造はんのお伴してよう賑(にぎや)かな通りを歩きましたが、親玉はんはいつも、
「わいに一尺離れて随いて来い。一尺より余計離れてもあかんぞ。一尺より少(すく)のてもあかん。きちんと寸法はかって、随いて来い。それが出来んかったら、一人前の人形遣いになれへんぞ」
 言うて、人ごみの中するりするり抜けてどんどん行かはります。こっちは、ただ人ごみを押しわけて随いて行くだけでも精一杯だす。それを、きちんと一尺だけ離れて随いて行くのんは、容易(たやす)いこっちゃおまへん。それでもまあ、いわれた通り、一生懸命寸法はかって、親玉はんの踵見イ見イ随いて行きますと、親玉はんはうしろ向いて、
「阿呆! どこ見て歩いてるねんや、折角沢山(ぎょうさん)人が通ったはるわや。それ見て歩かんかい。女子(おなご)はんが通りはったら、よう裾さばき見ときィ。よう見といて、人形にうつさんとあかん。ぼやぼやして歩いてるようで、一人前の人形遣いにならへんぞ」
 こない叱りはります。そんで、こんどは寸法間違えのう、人の姿も見んならん思うて、眼をきょろきょろさせて一生懸命随いて行きますと、また振り向いて、
「阿呆!どこ見てんねん」
 どなりはります。
「向うから来やはる女子はん見てまんねん」
 こない言いますと、また叱られます。
「阿呆!向うから来る姿見ても仕様があるか。うしろ姿見んかい。人形はうしろから遣うもんや。うしろ姿よう見とかんと味善(あんじょ)う遣われへんぜ」
 こない叱られます。ほんまにえらい、気苦労だした。
 けど、こんな気苦労はまだ生やさしおました。わてらの修行のはげしさは、ほんまに身体に生庇の絶え間がないくらいだした。毎日泣かん日はおまへなんだ。今日逃げだそ、今日はやめてこましたろと、なんべん思たか、数えきれんほどだした。
 それでもまあ、もうちょっと辛抱してみよ、もう十日だけ、もう一月だけ思て、苦しいのん辛抱して来ましたが、そのうちに到頭辛抱しきれん時が来ました。

 いつ頃のことだしたか、詳しい年月はこうつと忘れてしまいましたが、たしか、玉造はんが戻り駕寵の浪花治郎作を遣いはった時だした。
 わてはその足を遣うてましたが、その初日にどこをどうスカタン遣たんでっしゃろか、いきなり向脛を舞台下駄で蹴られました。ひどいこと血が出て、気が遠うなってしまうくらいだした。が、わてにはどこがスカタンかさっぱり合点(がてん)がいきまへん。玉造はんも言うてくれはれしめへん。どこがわるいもなんとも言わんと、人に怪我させて知らん顔してるそんなえげつないやり方があるか、思って、むっとしましたが、それでもじっと辛抱して、二日目も舞台イ出ました。
 ところが、二日目も蹴られました。次の日もおんなじだす。次の日も、到頭四日というもんは蹴られ通しだした。血が出て、肉がはみ出したその上へまた血が流れて、二重にも三重にも怪我させられたんでっさかい、「なんぼなんでもあんまりや。わるいとこ教(おせ)てもくれんと、まりかなんぞみたいに、ポンポン蹴られてたまるかい。こんど蹴りやがったら、もう師匠とも親玉とも思わんぞ、こっちも蹴りかえして、逃げてこましたろ」
 こない決心して、次の日は、親の仇討に出る気持で、うんと力こめて、血相かえるくらいにして遣いました。すると玉造はんは、
「よっしゃ、出来(でけ)た」
 と、こない小声で言うて眼で笑うてくれはりました。びっくりしました。
 その時の気持は、なんともかともいえん嬉しゅうおました。
 あとから、わかったことだしたが、玉造はんくらいの名人になりはりますと違たもんで、人形もってツツ、ツウと舞台イ出て来はって、きっと極まりはる場所が、毎日一分一厘も狂いまへん。物指しではかったみたいにちゃんときまってます。それをわてがええ加減なとこで足を極めようとしたんでっさかい、怒りはったんだす。
 けど、それならそれと教てくれはったら良かりそうなもんや-こない思いましたが、いや、いや、そやない、前もって教えといたら芸が生きん、そいで黙って蹴って置いて、ひとりでに合点が行くように仕向けはったんや。こない思て、ああ、ありがたいお心遣いやと手エ合わせました。
 そらまあ、貴方様らがお考えになったらむやみやたらに、人の子オ傷つけるて、無茶な話や、なんぼ今と昔とで時代が違ういうたかてあんまりやないかと、言やはるかも判れしめへんけど、しかし、なんだす人形いうもんは一生が修行だす。一芸一代だす。一生掛っても今日はこれでええいう時がおまへん。足遣いになるまででも三年四年、足遣い十年、左遣い十年、その合間合間に胴を覚えて、それからあとはもう一生仕事だす。そういうむつかしい仕事だっさかい、芸を仕込むいうても、ああ遣え、こうせえ言うて、手エ取って、撫でたりさすったりして教えたんでは、シンから腹にはいれしめへん。やっぱし、殴ったり、蹴ったりして、ピシピシ苛めつけて、ひとりでにわれとわが心に合点がいくように仕向けんと、ものになりまへん。
 人形の芸いうもんはそんなもんだす。そら、わてはボンクラだしたさかい、人一倍きびしゅうされまして、生庇の絶え間はおまへなんだが、けど、なにもわてだけやおまへん、誰でも皆修業中はそんな辛い目に会うて来やはったんだす。玉造はんかて、やっぱしおんなじで、そないされて修業して来やはったんだす。
 それについて想いだすことがおます。まあ貴方様、聴いとくなはれ。わてはこの話するたんびに、今でもひとりでに泣けて来て仕様がおまへん。わても人形の道にはいって六十年、そら随分いろいろな話ききもし、いろいろなこと見もして来ましたが、この話ほど泣かされたことはおまへなんだ。
 わてはさきにも言いましたように玉助はんの弟子だしたが、玉助はんは玉造はんのお子さんだっさかい、玉造はんはわてにしてみたら大師匠だす。そんで、玉造はんのお宅イもちょくちょく出入りさせてもろてましたが、行くたびに不思議やなあ、思うことがおました。
 と、言いますのんはほかやおまへん。玉造はんのお宅の二階座敷の床の間アに、黒塗りの大けな長い桐の箱が飾ったアりまして、見たところべつに大した値打ちのありそうなもんやおまへなんだが、玉造はんはそらとても大切に宝物みたいにしたはりまして、「誰も手エ触ったらあかんぜ」こない言やはりまして、時々その前イうつむいて、手エ合わせて拝んだはりました。けったいやな、なんやろか、なにがはいってるわやろか、位牌なら仏壇にちゃんと祀ったアる筈やし、ほんまにけったいやな、なんやろか。こない思うと、見とうて見とうてたまりまへん。
 そこで、ある時、玉造はんもよそへ行かれ、家の人も留守になって、わて一人が留守番してましたのを倖いに、こっそり二階へ上って、その蓋あけてみました。
 すると、綿に包んだもんがはいってます。その綿をとってみますと、下からべったり血のあとのある人形の足が出て来ました。綿にもちょっと血の痕みたいなもんが黒うついとります。ぞっとして、なんやこう背中の上をとかげが走ったみたいな気がしまして、寒うなって来ました。
 なんぜ、こんなもん親のかたみかなんぞみたいに蔵(しも)たはるねんや、けったいやな思いましたさかい、玉造さんがよそから帰って来やはるのを待ちうけて、訊いてみましたら、玉造はんは、
「見てしもたんなら仕様ない。まあ、ええ。そんなら、話したろ」
 と、言うて、こんな話聴かせてくれはりました。
 -わいは若い時にゃ吉田金四はんいう師匠の足遣わして貰てたが、ある時、阿波十郎兵衛の足の遣いぶり見て、
「阿呆! いつになったら覚えるねや」
 言うて、その十郎兵衛の足で、額をたたき割られて血が出た。わいは一時は口惜しいとおもったが、いや待て、叱られるのんはこっちが悪い、こっちの修行が足らんさかい師匠に迷惑掛けるのや。そんな思い直してどうぞこの足頂かしとくなはれ言うて、持って帰って、記念に蔵てるねんや。
 わいはいまだにその時のことが忘れられん。思い出しては、われとわが心に鞭打ってるねや、わいが今日ともかくこないして一人前の人形遣いになれたというのも、皆あの時の師匠の折檻のおかげや、この人形の足や思て、手エ合わしてあの人形の片足に拝んでるねや。心にゆるみが出て、芸がふやけた時、あの足拝んでたら、わいはいつも涙が出て来て、いっぺんにはげみが出て来るねや。
 ほんまに師匠とあの足のおかげやぜ。師匠が死んだ時、わいは駆けつけて行って、枕元イ坐りもういよいよやいう師匠の左手握って、
「お師匠はん、こんな立派な手エあの世イ持って行かんとくれやす。わてに残しとくれやす。わてに頂かしておくれやす」
 こない言うて泣いたが、その師匠が死んでからいうもんは、これが師匠のかたみや位牌や思て、毎日あの足イ手エ合わしてるねや。……
 こんな話してくれはりました。わては聴いてるうちに、身体がジーンとなって来まして涙がポトポト落ちて来まして、ああ、やっぱし名人といわれるほどのお方の心掛けは違たもんや、わいもこの心にあやかって、一生懸命芸に精出そ、親玉はんみたいな立派な人形遣いにならないかん、わいの修行はまだまだ親玉はんにくらべたら生易しいもんや、こない思て、それからというもんは、なんぼ逃げ出したいほどの辛い目に会うてもじっと辛抱して来ました。
 子供の時分から、尻の落ちつかなんだわてが、-飛びぬけ阿呆のわてが、名利にも迷わんとわき道もせんと、提灯ぶら下げて浜づたいに松島文楽イとぼとぼ通うてました十五の歳から七十六の今日まで、六十年間一筋に人形の道を歩いて来られたというのも、皆この師匠の教えがあったればこそだす。師匠があの血染めの片足を拝んで芸にはげみつけて来やはったように、わてもこの師匠の教え想いだして、われとわが心に、わき道したらあかん、人形の芸いうもんはありがたいもんや、なんぼ辛ても、辛抱してええ人形遣いにならなあかんぞと、こない言いきかせて来ました。
 お蔭様で、この飛びぬけ阿呆のわてが、今では文五郎文五郎いわれて新聞社アから文化賞たら褒美もいただくようになりましたが、いや、考えてみましたら、言や言うもんの阿呆だしたさかい、こつこつとこの報われん道を歩いて来られたのかもわかれしめへん。随分そら辛い目エも辛抱して来ました。食うやのまずの日もおました。贅沢な暮しみたいなもんしよ思ても一日も出来まへなんだ。考えてみたら暗い道だした。けど、その暗い道を阿呆の一つ覚えに提灯とぼして、とぼとぼ六十年歩いて来ましたんだす。

「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田文五郎
吉田文五郎[四世]よしだぶんごろう 1869-1962
大正−昭和期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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