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文楽の人

織田作之助

吉田文五郎

 玉造はんいうお方はえらいお方だした。
 昔から人形遣いには沢山(ぎょうさん)の名人がいやはりますが、名人の中の名人いうと、吉田文三郎はんというお方だした。この方はそれまで人形を一人で遣うておったのを、三人遣いということを考え出しはったお方だして、ま、人形遣いの元祖というても良いお方だしたが、玉造はんはこの吉田文三郎はんにつぐ名人や言われたお方で、人形遣いで紋下にならはったのがこのお方がはじめてやと聴いとります。
 わてらは皆親玉はん親玉はん、言うて怖がってましたが、太夫はんでも床から降りると、親玉はんのお部屋イ挨拶に行かはりまして、「御苦労はんでした」いうて、いちいち礼言うたはったくらい、えらい権式持ったお方だした。
 玉助はんはこの玉造はんのお子さんだしたが、三十に成るや成らずで、もうお父様の親玉はん以上やいわれなはったくらい、腕の達者なお方で、その時分彦六座にいなはりました吉田辰五郎はんというこれまた女形の名人が、「親爺の玉造の芸は評判ほど怖い思わんが、息子の玉助の腕は末おそろしい」言うたはりました。
 そんなえらいお師匠はんとこイ、正式に弟子入りしたんでっさかい、それに、大阪へ帰ったわ、親の傍に居られるわで、わては気持がなんやこう浮々しました。
 ところがさて弟子入りしてみますいうと、その辛さは、今までの奉公の辛さどころやおまへん、毎日泣いとりました。
 その時分、文楽座は松島の千代崎橋、今の八千代座のとこにありまして、松島文楽座とよんでましたが、その松島まで毎朝通います。
 朝というても、夜が明けてからとは違います。昔の芝居は夜の引明け時分から始まりまっさかい、わてらは午前四時というともう小屋入りしてんなりまへん。その頃家は、天満の寄木町におましたさかい、松島の千代崎橋まで一里半の道をテクテク歩いていかんなりまへん。電車はなし、雨の日も風の日もテクテク歩きます。歩いて行って四時には小屋入りするんでっさかい、どないしても二時か三時に起きて、冷飯をたべて握り飯竹の皮イ入れてぶら下げて家を出んなりまへん。暗い道を提灯下げて、河岸伝い、浜伝いに、川風に吹かれてとぼとぼ歩いて行きます。冬は鼻が千切れるほど寒おます、手え出しますと、凍ってしまいますさかい、提灯の柄は兵古帯にぶら下げて懐手してひょこひょこ行きます。
 一里半あるいて、やっと小屋へ着くと、まだ真っ暗だす。手さぐりでランプつけてそれから火イおこします。今みたいに燐寸(マッチ)スッとするわけにいきまへんわ、火打石でカチカチ火イつけます。その火イを牛の油と糠で拵えた蝋燭につけて、その上イ堅炭のせて、お茶沸かし沸かし、部屋の中掃いたり拭いたり、廊下の掃除します。
 そのうちに師匠が部屋入りしやはります。さあ、忙しなります。羽織を畳まんなりまへん。着物着かえささんなりまへん。お茶出さんなりまへん。あれせえ、これせえ、用事いいつけられます。師匠だけの用事やおまへん。親玉はんの肩も揉まんなりまへん。これも揉んでくれ言やはるのと違て、手エ強うするために、こっちから頼んで揉まして貰うんだす。
 それが済む時分には、柝がはいって舞台がざわめいて来ます。黒衣(くろこ)を被って舞台イ出んなりまへん。いえ、人形遣うのんと違いま。誰が貴方様、はいり立ての新米に人形遣わせてくれまっかいな。巳之(みの)コ!わては本名の巳之助いう名ではいってましたさかい、皆んなから巳之コ、巳之コいわれてました、-巳之コ、蓮台運びせ、へえ。何出せ、かに出せ、へえ。何なおしとけ、へえ。ツケ打て。へえ。巳之コ、幕ひけ。へえ。下駄揃え。へえ-というような按配で、舞台と舞台裏の間をあっちイ走ったり、こっちい走ったり、きりきり舞いせんなりまへんが、その合間にまた、部屋へ戻って、師匠の出の支度手伝わんなりまへん。脱いだ衣裳は畳みます。舞台から戻りはると、こんどは裃畳みます。袴を畳みます。それからまた舞台イ飛んで行きます。巳之コ、あれせえ、これせえです。その合間合間に太夫の語りはる文句も覚えんなりまへん。三味線の間も呑み込んどかなりまへん。人形の足拍子の取り方もよ見とかなりまへん。振りも見とかんなりまへん。おちおち飯食うてるひまもおまへん。腰にぶら下げた握り飯を頬ばり頬ばり、テコテコと動きまわります。眠うても、欠伸ひとつゆっくり出来んくらい、忙しおます。
 芝居は夜の五時にはねます。師匠を送りだしてから、跡かたづけして、それからまた提灯つけて、とぼとぼ一里半の道天満まで帰ります。眠うて眠うてどんなりまへんさかい、居眠りながら歩きます。帰り道で俥屋にあいますと、帰りやさかい、五銭のとこ三銭にまけとく、乗んなはれ言います。けど、乗れまへん。銭がおまへんのや。給金もろておまへん。一銭の銭もいただかれしめへん。そいで、俥にも乗らんと、とぼとぼ歩いて帰って、半分居眠り晩御飯を食べると、そのままくたくたになって蒲団の中イもぐりこんで、もう朝までなんにも判りまへん。
 そんなえらい目えして、三年無料(ただ)働きして、ちょっと足が遣えるようになって、やっと一厘銭をつないだ棒を、給金やいうていただきました。数えてみますと、一厘銭が二十枚おました。三年振りで二銭の給金だす。
 それではとても食べていかれしめへん。ま、わてらは親に食べさしてもろてましたから、食う心配はおまへなんだが、それでも一興行二銭では、小遣いにもなれしまへん。そいでちょっと足が遣えるようになったのを幸いに、文楽がはねてから、寄席や素人浄瑠璃の人形をスケに行って、小遣い稼ぎしました。十日の間夜勤して四十銭くれるとこもおました。そいでちょっと助かりましたが、その代り、昼間散々疲れている上にまだ夜おそくまで働くんでっさかい、身体は疲れるわ、眠りは足らんわ、一日中ボケみたいになってました。
 けど、うっかりボケておられまへん。一口に足遣い言いますが、足遣いほどむつかしいもんはおまへん「足遣い十年」いいます。それほどむつかしいもんです。四十年足ばっかり遣たはったひともあるくらいだす。家へ帰れば、女房も子もある。たまには孫もあるいう歳になっても、黒衣着て、足ばっかし遣て、そいで一生終ったひともおます。
 だいたい人形遣いいうもんは影の仕事だす。だいいち、太夫に合わして行かんなりまへん。われがおれがと思て勝手に遣て行ったら、舞台がさっぱり駄目になってしまいます。自分いうもんを殺して、太夫はんに合わせていくのんが本当だす。それにまた、人形遣いは人形の影にかくれてしまわんと、本真(ほんま)の人形遣いといえまへん。文五郎なら文五郎が舞台に出てるのんと違います。舞台にはお園か出てるのんだす。小春が出てるのんだす。文五郎はただお園の中へはいってかくれてしまうのんだす。わてらは役者と違て、舞台の上では唖になって、死んでしまわんとあきまへん。人形遣いが消えてしまわんと、まだ見えるようだしたら、そらまだ本真の芸やおまへん。わてらは一生かかって消えてしまう修行してるわけだす。ま、言うてみたら、一生影の仕事だす。その影の仕事の中でも、足遣いが一番影の仕事だす。
 御承知のように、人形いうもんは昔は一人で両手を突っこんで、遣うておったのんを、さきに言いました吉田文三郎はんの時から三人で遣うようになりました。人形の胴を遣うのんが主遣い、シン遣いともいいます。人形の左手遣うのんが左遣い、足-女形には足がおまへんさかい、裾を遣います-足を遣うのんが足遣いです。
 この三人が一つになって一つの人形を遣うのんでっけど、足遣いと左遣いというもんは、主遣いと違(ちご)て出遣いということがめったにおまへん。いつも黒衣を着て、影にかくれます。その中でも、足遣いは、人形の裾につくもって、五尺の身体を二尺八寸の手摺の陰にかくれて、遣わんなりません。
 それと、もうひとつ、足遣いいうもんはなにからなにまで主遣いに合わせていかんなりまへん。自分の勝手で動くいうとこは一つもおまへん。なにからなにまで主遣い任せだす。主遣いの呼吸に合わしていかんなりまへん。一口に、呼吸を合わすいいまっけど、これがちょっとやそっとでは出来まへん。だいいち、前もって三人で打ち合わせしとくということが出来ません。かりに「後追っかけて」いう文句があったとします。太夫の息が長い時は五尺出てキマリがつきまっけど、太夫の息が短かいと四尺しか出られしめへん。それが、その時その時で長い時もあり、短い時もありで、前もって打ち合わしして置いても狂うて来ます。
 ほんなら、なにを目当てに足を遣うか言いますと、足遣いは主遣いの腰に身体すり寄せて、右腕をその腰に当るようにして置いて、主遣いの腰のひねり方ひとつで、ああ、右足を出すのんやな、左足を出すのんやな、坐るのんやな、うしろ向くのんやなと、その時その時に悟るのんです。
 それに、足遣いは足拍子いうもんを踏まんなりまへん。人形いうもんはあの、トントン足拍子を踏むのんが特徴だして、「寺小屋」の「いろは送り」なんか、あの足拍子がおまっさかい、歌舞伎と違て舞台が引き立ちます。ま、足拍子いうもんは人形には大事なもんだす。これは主遣いが踏むように見えまっけど、じつは足遣いが足を遣いながら自分で踏むのんだす。これがむつかしおます。
 そういう按配で、足遣いいうもんはなかなかラクな仕事やおまへん。眠たいからいうて、うかうかボケておれまへん。それに足遣いは主遣いと違て、手のあき次第にあれの足遣え、これの足遣えといわれて、舞台へ出通しだす。休むひまもおまへん。
 おまけに貴方様、この辛い足遣いに廻して貰うのんは、三年舞台裏の仕事を辛抱したあげくだす。たいていの者(もん)はホトホト情けのなります。
 給金はただみたいに安いわ、身体はへとへとになるわ、眠りは足らんわ、こら、こんなことしてたら、身体が駄目になってしまう思て、わてもなんべん逃げ出そ思たかわかれしめへん。
 いや、それもただ給金が安いとか身体がえらいとかいうだけやおまへん。そんなことよりも、もっと辛かったのは、気苦労だした。
 わては親玉はんの玉造はんのお伴してよう賑(にぎや)かな通りを歩きましたが、親玉はんはいつも、
「わいに一尺離れて随いて来い。一尺より余計離れてもあかんぞ。一尺より少(すく)のてもあかん。きちんと寸法はかって、随いて来い。それが出来んかったら、一人前の人形遣いになれへんぞ」
 言うて、人ごみの中するりするり抜けてどんどん行かはります。こっちは、ただ人ごみを押しわけて随いて行くだけでも精一杯だす。それを、きちんと一尺だけ離れて随いて行くのんは、容易(たやす)いこっちゃおまへん。それでもまあ、いわれた通り、一生懸命寸法はかって、親玉はんの踵見イ見イ随いて行きますと、親玉はんはうしろ向いて、
「阿呆! どこ見て歩いてるねんや、折角沢山(ぎょうさん)人が通ったはるわや。それ見て歩かんかい。女子(おなご)はんが通りはったら、よう裾さばき見ときィ。よう見といて、人形にうつさんとあかん。ぼやぼやして歩いてるようで、一人前の人形遣いにならへんぞ」
 こない叱りはります。そんで、こんどは寸法間違えのう、人の姿も見んならん思うて、眼をきょろきょろさせて一生懸命随いて行きますと、また振り向いて、
「阿呆!どこ見てんねん」
 どなりはります。
「向うから来やはる女子はん見てまんねん」
 こない言いますと、また叱られます。
「阿呆!向うから来る姿見ても仕様があるか。うしろ姿見んかい。人形はうしろから遣うもんや。うしろ姿よう見とかんと味善(あんじょ)う遣われへんぜ」
 こない叱られます。ほんまにえらい、気苦労だした。
 けど、こんな気苦労はまだ生やさしおました。わてらの修行のはげしさは、ほんまに身体に生庇の絶え間がないくらいだした。毎日泣かん日はおまへなんだ。今日逃げだそ、今日はやめてこましたろと、なんべん思たか、数えきれんほどだした。
 それでもまあ、もうちょっと辛抱してみよ、もう十日だけ、もう一月だけ思て、苦しいのん辛抱して来ましたが、そのうちに到頭辛抱しきれん時が来ました。

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「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田文五郎
吉田文五郎[四世]よしだぶんごろう 1869-1962
大正−昭和期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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