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文楽の人

織田作之助

吉田文五郎

 いつ頃のことだしたか、詳しい年月はこうつと忘れてしまいましたが、たしか、玉造はんが戻り駕寵の浪花治郎作を遣いはった時だした。
 わてはその足を遣うてましたが、その初日にどこをどうスカタン遣たんでっしゃろか、いきなり向脛を舞台下駄で蹴られました。ひどいこと血が出て、気が遠うなってしまうくらいだした。が、わてにはどこがスカタンかさっぱり合点(がてん)がいきまへん。玉造はんも言うてくれはれしめへん。どこがわるいもなんとも言わんと、人に怪我させて知らん顔してるそんなえげつないやり方があるか、思って、むっとしましたが、それでもじっと辛抱して、二日目も舞台イ出ました。
 ところが、二日目も蹴られました。次の日もおんなじだす。次の日も、到頭四日というもんは蹴られ通しだした。血が出て、肉がはみ出したその上へまた血が流れて、二重にも三重にも怪我させられたんでっさかい、「なんぼなんでもあんまりや。わるいとこ教(おせ)てもくれんと、まりかなんぞみたいに、ポンポン蹴られてたまるかい。こんど蹴りやがったら、もう師匠とも親玉とも思わんぞ、こっちも蹴りかえして、逃げてこましたろ」
 こない決心して、次の日は、親の仇討に出る気持で、うんと力こめて、血相かえるくらいにして遣いました。すると玉造はんは、
「よっしゃ、出来(でけ)た」
 と、こない小声で言うて眼で笑うてくれはりました。びっくりしました。
 その時の気持は、なんともかともいえん嬉しゅうおました。
 あとから、わかったことだしたが、玉造はんくらいの名人になりはりますと違たもんで、人形もってツツ、ツウと舞台イ出て来はって、きっと極まりはる場所が、毎日一分一厘も狂いまへん。物指しではかったみたいにちゃんときまってます。それをわてがええ加減なとこで足を極めようとしたんでっさかい、怒りはったんだす。
 けど、それならそれと教てくれはったら良かりそうなもんや-こない思いましたが、いや、いや、そやない、前もって教えといたら芸が生きん、そいで黙って蹴って置いて、ひとりでに合点が行くように仕向けはったんや。こない思て、ああ、ありがたいお心遣いやと手エ合わせました。
 そらまあ、貴方様らがお考えになったらむやみやたらに、人の子オ傷つけるて、無茶な話や、なんぼ今と昔とで時代が違ういうたかてあんまりやないかと、言やはるかも判れしめへんけど、しかし、なんだす人形いうもんは一生が修行だす。一芸一代だす。一生掛っても今日はこれでええいう時がおまへん。足遣いになるまででも三年四年、足遣い十年、左遣い十年、その合間合間に胴を覚えて、それからあとはもう一生仕事だす。そういうむつかしい仕事だっさかい、芸を仕込むいうても、ああ遣え、こうせえ言うて、手エ取って、撫でたりさすったりして教えたんでは、シンから腹にはいれしめへん。やっぱし、殴ったり、蹴ったりして、ピシピシ苛めつけて、ひとりでにわれとわが心に合点がいくように仕向けんと、ものになりまへん。
 人形の芸いうもんはそんなもんだす。そら、わてはボンクラだしたさかい、人一倍きびしゅうされまして、生庇の絶え間はおまへなんだが、けど、なにもわてだけやおまへん、誰でも皆修業中はそんな辛い目に会うて来やはったんだす。玉造はんかて、やっぱしおんなじで、そないされて修業して来やはったんだす。
 それについて想いだすことがおます。まあ貴方様、聴いとくなはれ。わてはこの話するたんびに、今でもひとりでに泣けて来て仕様がおまへん。わても人形の道にはいって六十年、そら随分いろいろな話ききもし、いろいろなこと見もして来ましたが、この話ほど泣かされたことはおまへなんだ。
 わてはさきにも言いましたように玉助はんの弟子だしたが、玉助はんは玉造はんのお子さんだっさかい、玉造はんはわてにしてみたら大師匠だす。そんで、玉造はんのお宅イもちょくちょく出入りさせてもろてましたが、行くたびに不思議やなあ、思うことがおました。
 と、言いますのんはほかやおまへん。玉造はんのお宅の二階座敷の床の間アに、黒塗りの大けな長い桐の箱が飾ったアりまして、見たところべつに大した値打ちのありそうなもんやおまへなんだが、玉造はんはそらとても大切に宝物みたいにしたはりまして、「誰も手エ触ったらあかんぜ」こない言やはりまして、時々その前イうつむいて、手エ合わせて拝んだはりました。けったいやな、なんやろか、なにがはいってるわやろか、位牌なら仏壇にちゃんと祀ったアる筈やし、ほんまにけったいやな、なんやろか。こない思うと、見とうて見とうてたまりまへん。
 そこで、ある時、玉造はんもよそへ行かれ、家の人も留守になって、わて一人が留守番してましたのを倖いに、こっそり二階へ上って、その蓋あけてみました。
 すると、綿に包んだもんがはいってます。その綿をとってみますと、下からべったり血のあとのある人形の足が出て来ました。綿にもちょっと血の痕みたいなもんが黒うついとります。ぞっとして、なんやこう背中の上をとかげが走ったみたいな気がしまして、寒うなって来ました。
 なんぜ、こんなもん親のかたみかなんぞみたいに蔵(しも)たはるねんや、けったいやな思いましたさかい、玉造さんがよそから帰って来やはるのを待ちうけて、訊いてみましたら、玉造はんは、
「見てしもたんなら仕様ない。まあ、ええ。そんなら、話したろ」
 と、言うて、こんな話聴かせてくれはりました。
 -わいは若い時にゃ吉田金四はんいう師匠の足遣わして貰てたが、ある時、阿波十郎兵衛の足の遣いぶり見て、
「阿呆! いつになったら覚えるねや」
 言うて、その十郎兵衛の足で、額をたたき割られて血が出た。わいは一時は口惜しいとおもったが、いや待て、叱られるのんはこっちが悪い、こっちの修行が足らんさかい師匠に迷惑掛けるのや。そんな思い直してどうぞこの足頂かしとくなはれ言うて、持って帰って、記念に蔵てるねんや。
 わいはいまだにその時のことが忘れられん。思い出しては、われとわが心に鞭打ってるねや、わいが今日ともかくこないして一人前の人形遣いになれたというのも、皆あの時の師匠の折檻のおかげや、この人形の足や思て、手エ合わしてあの人形の片足に拝んでるねや。心にゆるみが出て、芸がふやけた時、あの足拝んでたら、わいはいつも涙が出て来て、いっぺんにはげみが出て来るねや。
 ほんまに師匠とあの足のおかげやぜ。師匠が死んだ時、わいは駆けつけて行って、枕元イ坐りもういよいよやいう師匠の左手握って、
「お師匠はん、こんな立派な手エあの世イ持って行かんとくれやす。わてに残しとくれやす。わてに頂かしておくれやす」
 こない言うて泣いたが、その師匠が死んでからいうもんは、これが師匠のかたみや位牌や思て、毎日あの足イ手エ合わしてるねや。……
 こんな話してくれはりました。わては聴いてるうちに、身体がジーンとなって来まして涙がポトポト落ちて来まして、ああ、やっぱし名人といわれるほどのお方の心掛けは違たもんや、わいもこの心にあやかって、一生懸命芸に精出そ、親玉はんみたいな立派な人形遣いにならないかん、わいの修行はまだまだ親玉はんにくらべたら生易しいもんや、こない思て、それからというもんは、なんぼ逃げ出したいほどの辛い目に会うてもじっと辛抱して来ました。
 子供の時分から、尻の落ちつかなんだわてが、-飛びぬけ阿呆のわてが、名利にも迷わんとわき道もせんと、提灯ぶら下げて浜づたいに松島文楽イとぼとぼ通うてました十五の歳から七十六の今日まで、六十年間一筋に人形の道を歩いて来られたというのも、皆この師匠の教えがあったればこそだす。師匠があの血染めの片足を拝んで芸にはげみつけて来やはったように、わてもこの師匠の教え想いだして、われとわが心に、わき道したらあかん、人形の芸いうもんはありがたいもんや、なんぼ辛ても、辛抱してええ人形遣いにならなあかんぞと、こない言いきかせて来ました。
 お蔭様で、この飛びぬけ阿呆のわてが、今では文五郎文五郎いわれて新聞社アから文化賞たら褒美もいただくようになりましたが、いや、考えてみましたら、言や言うもんの阿呆だしたさかい、こつこつとこの報われん道を歩いて来られたのかもわかれしめへん。随分そら辛い目エも辛抱して来ました。食うやのまずの日もおました。贅沢な暮しみたいなもんしよ思ても一日も出来まへなんだ。考えてみたら暗い道だした。けど、その暗い道を阿呆の一つ覚えに提灯とぼして、とぼとぼ六十年歩いて来ましたんだす。

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「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田文五郎
吉田文五郎[四世]よしだぶんごろう 1869-1962
大正−昭和期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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