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文楽の人

織田作之助

吉田栄三

 焔の夜が明けると、雨であった。焼跡に降る雨。しかし、その雨もなお焼跡のあちこちでブスブスと生き物の舌のように燃えくすぶっている火を、消さなかった。そして、人々ももう消そうとはしなかった……。
 人々はただもう疲れ切った顔に、虚脱した表情をしょんぼりと泛べて、あるいは焼跡に佇み、あるいはゾロゾロと歩いていた。呆然として歩いていた。ポソポソと不景気な声で何やら呟いているのは、自分たちをこんな惨めな人間にしてしまった軍部や政府への呪いであろうか。もう負けやなアといっているような声であった。
 ゾロゾロと数珠つなぎにされたように歩いて行く。歩いていることだけが生きている証拠であるように歩いて行く。力なくとぼとぼと……。東条の阿呆んだらめ、オッチョコチョイめ、あいつも死ねばよいと歩いて行く。誰も傘をさしていなかった。雨の冷たさなどには、もう無関心になっているのだろう。
 私だけが傘を持っていた。私はしかしすぐ傘を畳んでしまった。そして、それがまるで焼跡の壕の中から拾い出した唯一の品であるかのような顔をして、歩いた。焼跡見物に来ている男だと、思われたくなかった。
 郊外に住んでいるので、私は焼け出されなかった。しかし、私の心の中に住んでいる大阪、そして私自身の郷愁がその中に住んでいる大阪、私の知っている限りの大阪は焼けてしまった以上、私もまた同時に焼けてしまったのと同然だった。
 船場も焼けた。島ノ内もなくなった。心斎橋も道頓堀も、そして「夫婦善哉」の法善寺もなくなってしまった。東条の阿呆んだらめと、私も呟きながら、千日前から日本橋一丁目へ、そして盤舟橋を過ぎ、下寺町の方へ歩いて行った。
 下寺町の停留所附近。ここにも何一つ残っていなかった。そこには私が「夫婦善哉」の中で書いた蝶子のサロン蝶柳があり、「立志伝」や「わが町」で書いた佐渡島他吉-刺青(がまん)の他アやんの人力車の客待場があった筈だ。実際にあったのかどうかは問題ではない。すくなくとも私にとっては、あった筈なのだ。が、もうその名残りをしのぶ何のよすがもない。
 戦争などしなければ……と呟きながら、私は下寺町の坂を登って行った。谷町九丁目。そこから一つ東寄りの筋を右へ折れると、上汐町だ。そこに私の生れた家がある。今、七年振りにその家を見に行くのだ。が、果して、あるかどうか……。行ってみると、無論なかった。茫漠たる焼跡の一点でしかなかったのだ。私は自分自身がその一点と同じようになってしまったような気恥かしさを感じて、こそこそと立ち去ろうとした途端、
「あ、そうだ、この近所に栄三(えいざ)の生れた家があった筈だ」
 と、思い出した。
 上汐町筋の一つ東の筋の濃堂(のど)町(野堂町とも書く)で、栄三は生れたのだ。栄三とは文楽の人形使いの吉田栄三だ。本名、柳本栄次郎。明治五年東区濃堂町に生る-と私は記憶していた。
 しかし、濃堂町のどこの角を曲って何軒目か、あるいは、何屋と何屋の間の家であったかを、私はまだ調べていなかった。それさえ調べて置けば、栄三の生れた家はあるいは少年の私がその前を通るたびに立小便する癖のあった家であったかも知れず、なつかしさも増そうものだのにと、私はふと後悔したが、しかしまた思えば、よしんば調べて置いたところで、今となってみれば、同じことだ。私の少年時代の想い出も栄三との因縁も、家もろとも昨夜のうちに灰になってしまったのだ。調べて置いた家の焼跡に佇んでいたところで何になろう。
 それよりも、帰って栄三のことを今のうちに知っていることだけでも書いて置いた方がいい。私が書かねば誰も書くまい。私は雨に濡れて、再び下寺町の坂を降りて行った。
 人々はやはりゾロゾロと歩いていた。どこへ往くのか、どこへ帰るのか、ゾロゾロと歩いていた。

 栄三が大阪東区濃堂町に生れたのは、明治五年の四月二十九日であった。どうしたわけか戸長役場には明治三年生れとなっていたので、栄三は十九の歳に徴兵検査を受けた。
 栄三の生れた明治五年は、たまたまその一日に松島千代崎橋東詰に、文楽座の新築が落成して、柿落し興行があった年である。文楽の人形浄瑠璃芝居が名実共に文楽座と唱えたのは、この時がはじめてである。それまでは文楽軒の芝居といっていた。
 淡路の興行師正井文楽軒が大阪へ出て来て、現在の高津七番丁、高津の入堀川に架った高津橋の南詰を西へ入った浜側に、文楽軒の浄瑠璃稽古所の看板を掲げたのは、いつの頃か詳かでない。明和といい天明といい寛政ともいい、諸説区々(まちまち)である。が、ともかく、その頃は竹本義太夫、近松門左衛門以来の竹本座も、竹本座から分離した豊竹座もその威地に陥ち、道頓堀の檜舞台を追われて、その残党や末流が水草のように転々としてその日暮しの興行をつづけているという情けないありさまで、この時に淡路から出て来た文楽軒がひそかに期するところがあったことは、いうまでもなかろう。果して寛政の某年には御霊神社境内に文楽軒の芝居が名乗りをあげた。そして文化八年一月には、文楽軒の子浄楽翁が父の志を継いで、博労町稲荷神社南門内の東に文楽軒の芝居をつくった。これは天保十三年までつづき、十四年二月には社寺内の芝居興行禁止令のために北堀江市之側芝居に移り、安政元年一月からは更に清水町浜に移った。天保の禁令がとけて旧地の稲荷境内へ復帰したのは、安政三年の九月であったが、もうその頃は三世文楽翁の時代であった。
 文楽翁は一世の傑物である。正井家の門前に捨てられていたのを先代の浄楽翁に拾われたのだともいわれているが、明治の文楽の隆盛をつくったのはこの人である。はじめ養家の正井姓を称えたが、のち植村に姓を改めた。
 幕末の動乱期、維新の変革期に遭遇して、大阪の興行物は一時大いに衰微したが、文楽翁はよく堪えて、仕打ちとしての才腕を振い、長門、団平、春、越路、玉造等の名人を傘下に集めたばかりでなく、文才にも富み、新作、改作の筆を取った。時勢を視るの明もあり、明治初年大阪府が新開地松島町の発展を策して、道頓堀の歌舞伎芝居や稲荷社内の文楽芝居の松島移転を命じた時、彼は「松島へ移るのは島流しみたいなもんや」といやがった一座の者を説き伏せて、直ちに松島千代崎橋東詰に小屋の新築をはじめた。
 そして、明治五年正月にはその柿落し興行がおこなわれたのであるが、この時の狂言は「大功記」の通しと「三番叟」で、太夫は、春、越、古靭(先代)、越路、染、三味線は団平、新左衛門、吉兵衛、人形は玉造、辰造、喜十郎、玉之助、玉治という豪華な顔触れで、島流し興行といやがったにもかかわらず、五十三日問打ち続けの大当りを取った。この時、春太夫は引退した湊太夫に代って紋下となったが、同時に人形の初代玉造は人形浄瑠璃史上最初の人形の紋下として、櫓下に名を列ねた。
 そして、この引越し興行でかつての稲荷社内東芝居ははじめて松島文楽座として名乗りをあげたのである。もっとも、その前年の九日に、稲荷の芝居の番附に「文楽座」の名が見えているが、しかし、名実共に文楽座としての名乗りをあげたのは、この明治五年一月からである。
 栄三はこの年に生れたのである。いわば、文楽座と共に生れたのである。
 栄次郎と名づけられたのは、父の栄助の一字を取ったのであろう。母は柳本あいといい、下大和橋の寿し屋の娘であった。父の栄助は橋本姓であったが、入聟して柳本の姓を継いだのである。
 栄三は子供の頃、がしんたれと言われた。がしんたれというのは、大阪の方言で、意気地なしのことである。おとなしい性質で、近所の子供と喧嘩をしたり、叩いたり叩かれたり、するようなことは一度もなかった。悪口を言われても、じっとこらえて、鉛のように黙々として手出しなどしなかったから、喧嘩にならなかったのである。それ故に、がしんたれと言われたのであろうが、けれども本当は辛抱づよい子供であったのである。
 この辛抱づよさは記憶して置く必要がある。なぜかといえば、栄三が六十年の間傍眼(わきめ)もふらずに人形一筋の孤独な道をとぼとぼ歩んで来られたのも、ひとつにはこの辛抱づよい性質があった故である。明治の芸道の荒行の中でも、人形の修行は常識を超えた乱暴なものであった。たとえば、派手な人気はなかったが、初代玉造、玉助、先代紋十郎につぐ名手として仲間うちではその技量を怖れられていた吉田多為蔵は、次のような手記を残している。
「私が人形つかいになるようになったのは、九歳の時に人に勧められて堀江市の側の堀江座に出て居た吉田金四という人に弟子入りしたのが始めです。其の時分の修行は仲々厳しかったもので、殊に私の師匠と来たら其の上にも厳しく、入門の最初は、先ず師匠の履物を揃えるとか、外出の供をするとか、帰れば家の内外の掃除から台所の用まで足し、それが済めば雑巾をさす、指固めだといって師匠は元より妻女や娘達の肩を揉ませられる、それも揉んで呉れというのでなく、揉まして貰えといったような調子です。そしてやれ供をするのに余り間が近過ぎるの遠廻るの、やれ提灯の持様が悪いのと、叱られ通しです。芝居では人形の屍骸とか煙草盆とかを手摺の蔭に両手を伸して支えて居るのが役で(その頃は今の様に台を使わなかったのです)それが少しでも動いたりすると直ぐ叱られます。それから少し経つと今度は木偶の足を天井に吊して体の使い方を稽古するので、師匠の家は新町の越後町に在りまして、その格子内で一生懸命に習うのですが、足の使い方が悪いとか、体が据らないとかいっては、煙管で打ち叩かれる。そこへ之も名人でしたが二代目辰造という人がよく遊びに来て、師匠と一緒になって、矢張り煙管を斜めに構えて叱ったり叩いたりします。外には近所の芸妓や娘達が寄ってたかって覗いて居るので、随分恰好の悪い思いをしたものです。時には余り折檻が烈しいので、芸妓が見兼ねて、中へ這入って謝ってくれたこともありました。漸く足も動くようになると、芝居へ出て一人遣いの人形を持たせられます。こんなことで満三ヵ年稽古を積みましたが、其の間一銭の給金とてはありません。三年目に始めて一朱貰いました。今の六銭二厘です。……夜家へ帰って寝る間といったらホンの三時間位しかありません。ですから外を歩いても眠いので、電信柱にぶつかったり、郵便箱に凭れて眠ったり、芝居へ往っても奈落へ落ちたりすることは始終です。そんな修行をして来ても、今日私のような棒鱈です」
 棒鱈という大阪弁は、東京でいうデクの棒のことであろう。そんな辛い烈しい修行をして来ても今日なお棒鱈であると、多為蔵は謙遜しているが、一流たると二流たるを問わず、よしや一生足遣いという下積みで終る人でも、人形遣いという人形遣いはひとり残らず、多為蔵と同様の、いやそれ以上の難行苦行と闘って来たのである。誰もが一度はその辛さにたまりかねて逃げ出そうとした。げんに逃げだした人もいる。そして辛抱づよい人だけがよくその辛さに堪えたのである。そして、栄三もまたその持前の辛抱づよさで、それに堪えて来た人である。

 栄三が人形の道に憧れたのは、父親がおもちゃ人形の職人であった関係もあったろうが、それよりも、母方の叔母が、豊竹湊玉(みなぎょく)という当時大阪でかなり顔の女義太夫であったので、はやくから義太夫に親しんでいたからである。
 栄三が七つの時、彼は当時流行の一枚刷りを見た。初代豊竹古靭太夫が御霊神社裏門土田の席で、大道具方の梶徳という男にチョンナ(大道具の一つ)で背後から斬り殺されている絵刷りであった。
 古靭が殺された原因はこうである。
 その前年、明治十年の九月、全国にコレラが流行した。ことに大阪では猖獗を極めて一切の興行が停止された。そこで古靭は一門一党を率いて南紀へ巡業した。留守中の表方の者はたちまち衣食に窮した。そのうちに、コレラ病の脅威もやみ、興行停止の禁も解かれて、市内の各座は一斉に開場した。が、御霊表門の土田の席だけが、肝腎の古靭が南紀巡業中なので小屋を開けることが出来ない。小屋の借金も嵩む。表方の者や関係者はますます衣食に窮し、債鬼に責めたてられる。たまりかねて、出方頭(でがたがしら)が南紀へ古靭を迎えに行った。そして出方頭は一足先に帰って、開場の準備を万端整えた。演し物も古靭の十八番の「先代萩」を選び、役割も決めて、古靭の帰りを待った。ところが、直ぐに帰って来る等の古靭が、南紀の興行主に足止めされたのか、大阪は海嘯だとの噂に二の足を踏んだのか、十日待っても、二十日過ぎても帰って来ない。この分では年内の開場もむつかしかろ、暮れの算段をどうしてくれるのかと、裏方の者は喧しく騒ぎだして、出方頭に詰め寄った。何をしに紀州くんだりまで行ったのかと、暴言を吐く者もある。借金には責められる、座の者には喧しくいわれる、おまけに折角南紀まで迎えに行ってこのざまである。出方頭はたまりかねて、御霊表門席の木戸前で自らくびれて死んだ。血の気の多い梶徳は、出方頭を殺したのは、古靭だと、逸り立った。古靭は幼年の頃盲目の父親の手をひいて按摩に出掛けていた。梶徳は同じ貧乏長屋の子供として育ち、その頃からの古靭の幼友達であった。それだけに一層古靭を許しがたいと思った。梶徳はかねがね侠客肌が自慢で、道具方仲間でも親分然としていたのである。古靭が帰阪して、やっと開場したのは翌年の二月であった。千秋楽の夜、詰り場を済ませて楽屋風呂にはいった古靭が、やがて風呂を出て、二階への梯子段を上りかけると、薄暗がりから飛びだした男が、背後から斬りつけた。虫の息の古靭のロから、一言「梶徳……」という言葉が洩れた。二日のち御霊神社の床下から、梶徳の死骸が現われた。自殺していたのである。
 市中はこの評判に明け暮れた。道頓堀の弁天座では早速これを狂言に仕組んだ。ひとびとは寄るとさわると、「梶徳」と言っていた。一枚刷りが飛ぶように売れた。栄三の見たのはその一枚刷りである。
 おとなしい栄三は、あくどい色に彩られたその「古靭太夫殺し」の絵を見て、ぶるぶる顫(ふる)えた。梶徳という名前が囁かれているのを耳にすると、ぞっと寒気がして、子供心にそんな惨事の行われる人形芝居の世界が空怖ろしいものに思われた。しかし、この気持も、彼の人形への憧れを減ずるようなことはなかった。
 八つ、九つになると、彼はもう父親のつくるおもちゃ人形などで満足できなかった。彼は叔母の湊玉が出ている席の楽屋へこっそり出入りして、たまに人形が加入した時など楽屋にぶら下っているツメ人形にさわってみたり、時には両手を突っ込んでみたりした。見つかって、叱られたこともあった。
 父親の栄助は栄三がどうやら人形遣いになりたがっているらしいことに気がつくと、栄三を叱りつけた。
「阿呆んだらめや。人形遣いちゅうもんは、あら阿呆のするもんや。阿呆でなけりや、あんな辛い修行はでけん、あの世界だけは、世の中を諦めてしまわな、居れんとこや。栄コ、お前飯も食わんでええいうのんか。あの世界は飯も食べられん地獄やぜ。人形遣いみたいなもんに成りたがる阿呆がどこにある。それより、お父つぁんの真似して、おもちゃの人形でも作っとり」
 父親はそう言い言いしていたが、間もなく栄三の叔母の湊玉が吉田栄寿という人形遣いと結婚すると、もう彼は人形遣いの悪口も言わなくなった。彼は栄寿が自分と同じ栄という名を持っていることに、へんに親しみを感じていた。
 そして、栄三が十二歳の時、この新しい叔父の橋渡しで人形修行の道にはいった折も、父親はつよい反対はしなかった。

 栄三は最初からいきなり文楽へはいったわけではない。
 その頃松島文楽座のほかに、随分多くの浄瑠璃の寄席があった。多くは素語りであったが、稀に人形一座も加わっていた。そのひとつに、明治十六年六月に、日本橋北詰の安井稲荷のすぐ隣りに開場した沢の席があった。松島の文楽座に対して小文楽と呼ばれ、人形浄瑠璃の席の中では重きを成していた。この沢の席へ十二歳の栄三は入座したのである。
 栄三が入座したのは、丁度この席の柿落し興行の時であった。一座は染(八代田)、春子(後の大隅)、沢(先々代)、朝の太夫、三味線は後に松葉屋さんと呼ばれた五代広助、初代新左衛門、人形は三代目吉田辰五郎、三代豊松東十郎、小辰造(後の三吾)、駒十郎(後の四代辰五郎)等で、狂言は松島文楽座の柿落し興行の時と同じく「大功記」に御祝儀「三番叟」、それから「布引の四段目」そして切が景事であった。
 この時の番附の最下位に、吉田光栄(みつえ)の名が見える。これが栄三で、この名は叔父の栄寿が師匠の光造に入門した時の名で、栄三はその名を継いだ訳であった。
 しかし、栄三は正式に入門したわけではなかった。栄寿はただ栄三が沢の席へ入座する橋渡しをしただけで、師匠というわけではない。
 栄三は不思議なことに、その後も師匠というものを持たなかった。随分多くの名人や先輩に仕え、その足を遣い、左を遣い、教えも請うたが、一生正式の師匠を持たなかったのである。強いて言えば、それらの名人、先輩のすべてが彼の師匠であった。

 人形浄瑠璃の番附には「幽霊」がある。実際その舞台にない役の名や、人の名が番附に乗っていたりする。
 たとえば、沢の席の柿落し興行の番附にも、当時の栄三の名、光栄の上に宗祇坊や三法師丸の役が振ってあるが、栄三は実際にその役を持たせて貰ったわけではなかった。
 それどころか、誰もこの新米の見習いに足すら遣わせなかった。栄三は下働きとして、小使のようにこきつかわれただけである。きまった師匠というものがなかっただけに、誰からもこきつかわれた。舞台ではただ蓮台(れんだい)のさし入れをしたり、横幕の開け閉めをしたり、舞台下駄を揃えたりするだけだったが、ただこれだけの仕事でも、その忙しさと来たら眼のまわるくらいで、家から持って来た握り飯を頬張るひまもなかった。無論、身体はくたくたに疲れた。おまけに気苦労が大変である。十二歳の子供だからといって、容赦してくれなかったのである。
 入座してから十日目のことである。「三番叟」を豊松東十郎が遣っていたが、その舞台下駄を出すのが栄三の役であった。最初は四人上段に構え、それから動きになって東十郎が船底へ降りて来る時、舞台下駄を揃えて出すのだが、うっかりして右と左を間違えて出した。あっと思った時には、もう栄三は船底で気が遠くなっていた。「このどんけつめ!」というなり、大きな舞台下駄で向脛を蹴られていたのである。身体に生庇の絶え間はなかった。
 それでも持前の辛抱づよさでじっと堪えて、その興行を済ませてほっとしたとたんに、頭取から、
「光コ、お前はあかん。お前は鈍臭(どんくさ)いし、それに身体がちっちゃ過ぎる。お前みたいなちんぴらでは間に合わん。やめてしまい」
 と、言われた。それを、叔父の栄寿が「そらあんまりや。たった一興行(しばい)で断ってしまうのもなんやさかい、まあもう一興行使こたっとくなはれ」
 と、とりなしてくれた。
 それで、栄三は引続き沢の席で勤めることになった。次の興行は「一の谷」と「夏祭」であった。染太夫と松葉屋広助はこの時退座して、代りに組太夫がはいって来た。
 この組太夫はもと西京で豆腐屋をしていたのが義太夫へ転向した人で、もと灘の「柳店」という酒屋の旦那をしていた初代柳適太夫と、天満でハラハラ薬を売っていた初代豊竹呂太夫と共に、明治の三大化物といわれた。化物とは素人より玄人になった人をいう。
 因みに、この興行で、「石屋の宝引」を語った琴太夫は、法善寺に「夫婦善哉(めおとぜんざい)」の店をひらいた人である。
 栄三はこの興行中、ここが大事なところだと、身体を粉にして働いた。頭取はその敏捷な働き振りを見て、小柄も一徳だと思ったのか、その興行が済んでも、もうやめてしまいとは言わなかった。
 八月、九月は沢の席は夏休みだった。父親の栄助は話をきいて、
「そんな辛いとこなら、やめてしまい」
 と、言ったが、十月興行がはじまると、栄三はいそいそと沢の席へ出勤した。
 ところが、その興行が終ると、栄三は一緒に働いていた下働きの徳丸と共に、警察へ呼び出された。見習いだった故、鑑礼を受けていたかったのが、いけなかったのである。十二歳の栄三は、薄暗い部屋へ放り込まれて、蒼くなった。が、年少の故を以って、栄三は説諭だけで帰して貰った。徳丸は五十銭の罰金を取られた。徳丸の給金はその当時一興行六銭二厘であった。
 十一月興行が済むと、沢の席はそれを最後に木戸を閉めた。そして一座は翌十七年の一月から博労町稲荷社内北門に出来た彦六座で新しい旗上げをした。栄三もその座へちょこちょこと移って行った。

 彦六座は、長掘中橋南詰に「灘屋」という酒店を出して、俗に灘安さんで通っていた寺井安四郎等がつくっていた「彦六社」という素人浄瑠璃の一派が、沢の席の一座を押し立てて、松島文楽に対抗するために稲荷社内の北門につくった、いわば旦那業の小屋である。
 第一回の旗上げ興行は「菅原」の通しで、沢の席一座のほかに、さきに一寸触れた明治三大化物の一人初代柳適太夫が新加入した。柳適太夫は巴太夫という名で松島文楽座に居ったこともあるんだが、もとは仕打の灘安と同じ酒屋の旦那で、同業のよしみから彦六座へ参加したのである。柳適太夫と改めたのは、この興行からで、もっとも既に次の巴太夫も出来ていたので、口上では「先(せん)巴太夫改め柳適太夫-」と言っていた。当時の口上役は吉田友造といい、後年の吉田冠四である。
 吉田冠四は、昭和五年三月七十五歳で死ぬまで、文楽で一番年長のいわば古老であった。安政二年十二月大阪天神橋筋三丁目に生れて、二十一歳の時に吉田兵吉の門にはいったが、以来六十歳まで足ばかり遣っていた。足遣い四十年である。昭和四年に、文士、画家の有志がつくった文楽の擁護会が、この不遇の人形遣いを慰めるべく、金一封を贈った。五十円の小額であった。が、七十四歳の冠四は、
「わてはこの歳になるまで、こんな大金を人様より頂戴したことは、いっぺんもおまへなんだ」
 と、言った。
 古靭太夫が梶徳に殺された時、冠四も土田の席で働いていて、古靭が死の直前にはいった楽屋風呂には、冠四もはいっていた。冠四はその騒ぎのあった時、まだ風呂の中にいたが、湯から出るのが怖く、中で蛸のようになって顫えていたと、栄三を掴えて話をしたが、しかし、栄三はおちおちその話を聴いているひまもなかった。一座には栄三のほかに子供がいなかったので、舞台の下廻りの用事はもちろん、楽屋の片づけ、走り使いなど、夜明け頃から夜遅くまでテコテコとこき使われていたからである。
 眠る時間といっては殆どなく、一日中うつらうつらしていたが、ことに切狂言近くなって来ると、眠くて仕様がなく、ちょっとした隙をうかがって、ツメ人形を入れてある葛龍(ぼて)の中にかくれてこっそり眠った。そして、「光コ、光コ」と舞台から呼んでいる声にあわてて飛びだし、スカを食って、ひどいこと叱られ、ここでもやはり生庇の絶え間がなかった。

 彦六座の旗上げ興行は、衣裳、道具などすべて新調で、旦那衆の興行らしい豪気なものであったが、散ざんの不入りであった。が、つづく二月興行には松葉屋広助が加入して三味線の紋下に坐って気勢を添えたのと、柳適太夫の「橋供養」衣川庵室が当ったので、大入りをつづけた。三月には盲目の美声語り住太夫が松島文楽座を脱退して、入座して、重太夫と隔日交替で紋下に坐り、ますます大入りをつづけた。
 彦六座の成功はたちまち松島文楽座に影響した。足場の悪い松島まで足を運ぶ客がだんだんに尠(すくな)くなって来たのである。そこで、驚いた文楽座では、御霊表門の土田席を改築して、その年の九月松島から移って来た。が、同じ月に彦六座も改築してその新築記念興行を打って、御霊文楽に対抗した。しかも、文楽で越路太夫(のちの摂津大掾)を弾いていた通称「清水町」の豊沢団平が、この時から彦六座へ加入して、三味線紋下に坐った。
 この時の狂言に「四天王寺伽藍鑑(がらんかがみ)」の通しが出た。その義光館の段切で、本田義光が阿弥陀池から出た仏を背負って、信濃の善光寺へ行くという「負(お)い人形」の趣向がある。人形遣いが頭から義光の人形を被り、人形遣い自身の脚に脚絆をつけ草履をはいて、出孫(でまご)(新客土間)と、平場(ひらば)(平土間)の間の通路を無言で引っ込むという趣向だが、人形との釣合い上、どうしても背の低い人形遣いでなくてはうつりが悪い。
「光コがええやろ」
 と、いうことになった。光コとは勿論栄三の光栄のことである。栄三は座の中では一番のちんぴらであった。
 そこで、栄三ははじめて役を貰ったとよろこんで、義光の人形を頭から被り、脚絆、草履ばきで舞台へ出て、人形の振りのまま段切に引き込むと、客は「人形が歩く、人形が歩く」と言って面白がった。時には引っ込みの通路の附近の栄三は客に足を触られて、
「あ、こらほんまの人間の足や」
 と、言われた。そして鳥屋(とや)口(揚幕)まで来ると、人形遣いが栄三を人形と共に葛籠の中へ放り込んだので、栄三は毎日頭を打っていた。眼から火が出るほど痛かった。
 この時、栄三は十三歳であった。

 その年の十一月から、団平はもと春子太夫といっていた三代大隅太夫を弾くことになった。
 団平は「ほかの太夫はおれが弾いたったが、長門はんだけは、弾かして貰った」というだけあって、義太夫以後の義太夫語りといわれた幕末の名人三代長門太夫には頭が上らなかったが、その他の太夫は皆団平には頭が上らなかった。団平を合三味線とした太夫は一人残らず団平の稽古のはげしさに泣かされたのである。ことに、大隅はのろまといわれていただけに、これを一人前に仕込もうという団平の意気込みは、これまでにない激しさだった。
 その稽古の激しさは、初日の大隅を聴くと、誰にもうなずけた。見違えるほど立派な大隅になっているというより、痛々しいくらい声を痛めていたのである。大隅はすぐ休場して、源太夫が代りを勤めた。
 栄三はこの大隅の休場が、団平の稽古が激しくて声を痛めたためだと判ると、なにか心を打たれて、自分などはまだまだ精進が足らぬと子供心に思った。そして、ますます精をだして修行をはげんだ。
 団平の稽古の激しさは、その後もしばしば栄三の耳にはいった。
 ある夏、大隅は団平から「壬生村」の稽古をして貰った。石川五右衛門の妹お冬が、「守り袋は遺品ぞと」いうところが、のろまの大隅には何度やっても巧く語れない。団平は何百回も繰りかえさせた。夜になった。が、まだ巧く語れない。大隅は半分泣いていた。蚊が出て来るので、団平は蚊帳の中にはいって、横になりながら、大隅の語るのを聴いている。大隅はもちろん蚊帳の外である。そして蚊に喰われながら、気違いのようになって「守り袋は遺品ぞと」の一つ所を繰りかえした。しかし、団平は「よし」と言わない。だんだん夜が更けて来る。蚊はますます出て来る。それでも大隅は繰りかえし語り、語っていた。夏の短か夜がやがて明けようとする頃である。蚊帳の中でもう寝ていた筈の団平が、「よっしゃ、出来た」と言った。団平は一晩中眠らず聴いていたのである。そのため団平は眼をわずらって、半年ばかり眼医者へ通った。
 栄三はこの話を聴いた時、頭の中がジーンとするほど感激した。大隅もえらいが、団平もえらいと思った。のろまの大隅がぐんぐん上達して行くのが、栄三の耳にもよく判った。そして、団平のような名人の三味線を毎日聴きながら働ける自分は、幸福だと思った。自分はまだ子供だが、今のうちにうんと人形のコツを見覚えて置かねばならぬと、下廻りの仕事をしながら、眼をキョロつかせていた。
 人形のコツは、手をとって、ああしろ、こうしろと教えられるものではなく、よしんばそのようにして教えることが出来ても、それでは性根にはいらない。むろん、誰も教えてくれない。結局舞台のコマゴマした仕事をする合間合間に、名人や先輩の遣い方を見て、自ら納得するよりほかに方法がないのである。なお、人形だけではない、浄瑠璃の文句や節、三味線のキマリキマリも耳に入れて置く必要がある。そう思えば、小屋に居る間、一秒の余裕も心にあってはならなかったが、やはり身体がくたくたになって、しびれるような睡魔に襲われる時は、ひそかに引幕にくるまって、居眠ることもあった。
 ある時、「法界坊」の狂言が出たが、その時も栄三は引幕にくるまって、あわただしい眠りを貪りながら、夢をみた。舞台から「綱や、綱や」と言っているように思ったので、あわてて舞台へ飛びだしたが、勿論呼ばれたのではなかった。おかげで、随分ひどく叱られた。十三歳のことである。
 翌年の七月、彦六座は昼夜二部興行をした。それで栄三の身体は一層忙しくなった。が、ちょうどその月に大阪に大洪水があり、二日より十二日まで遠慮休業したので、栄三はほっとした。それほど毎日毎日が辛かったのである。けれども、栄三は人形遣いを諦めようとしなかった。

 洪水のあった年の翌年の五月、大阪に再びコレラが流行した。折柄彦六座では、団平の妻お千賀の作を団平が節付けした「弥陀本願三信記」を初演していた。この浄瑠璃は二十三冊物で、親鸞上人の御伝記、蓮如(れんにょ)上人の御伝記、顕如上人の御伝記を通しで聴かせるという、いわばありがたい浄瑠璃であったから、連日大入りを続けていたが、さすがにコレラには勝てず、二十五日限りで休業した。そして、その休業は十月の末まで続いた。コレラの猖獗は容易に歇まなかったのである。
 名人初代玉造の実子初代玉助が三十三歳の若さでこの年の七月急死したのも、この夏のコレラの為であった。
 玉助は父の玉造と一緒に文楽座で働いていたが、親まさりの技量があるといわれていた。天才肌の人形遣いであった。玉助は、彦六座の人形紋下であった三代吉田辰五郎のことを、
 「うちの親父の芸は怖くないが、辰五郎はんの腕はおそろしい」
 と、言っていたが、その辰五郎が玉助のことを、
 「親父の玉造の腕は評判ほど怖いと思わんが、倅の玉助の芸はおそろしい」
 と、言っていたのを、栄三は耳にしたことがある。
 名人の家に生れて、いわば血筋が良いとはいうものの、しかし、三十そこそこの若さで、当代随一の人形遣いとおそれられた父の玉造をしのぐ腕があるとは、どんなに偉い人であろうと、栄三はその人の舞台を殆ど見て置かなかったことが、後悔された。彦六座の朝夕忙しい想いをしていた栄三には、文楽座へ足を運ぶ機会が殆ど無かったのである。せめてその人の足をいっぺん遣いたかったと、栄三は思った。
 団平は玉助の急死をきくと、
「親に先立つ奴は親不孝や。コレラで死ぬ阿呆があるか。芸人はもっとほかの死に方がある」
 と、はげしい口調で言った。団平らしい言い方だと、ひとびとは思った。団平の親孝行は知らぬ者はなかったのである。
 団平は両親の命日には、早朝より起きて、斎戒沐浴して、仏間にとじ籠って、先祖代代父母の法名と本名を唱えて読経し、そして仏前に備えた生魚を自ら料理して、お余りだといって朝食に食べた。亡母がそうしろと遺言したので、彼はそれを守って五十年一日のように欠かさなかったのである。
 ある時、歌舞伎役者の左団治が、団平の教えを請おうとして、弥太夫に紹介を頼んだ。しかし、団平は会おうとしなかった。団平は歌舞伎役者を軽蔑していたのである。ところが、団平は弥太夫から、左団治が母親の死んだ晩、夜伽の人の隙をうかがって、ひそかに蒲団の中にもぐり込んで、母親の死骸を抱きしめたという話をきくと、
「そんな親孝行の男なら会おう」
 と、言って、会うたという。芸のほかには何ものもない団平だったが、ただ両親、それもとっくになくなっていた両親だけは大事にした。
 それだけに、団平は一人息子の玉助に死なれた玉造のなげきが人一倍わかるのだった。おまけに玉助が残して行った孫は、生れつきの盲目である。
「可哀想に玉造もがっくり精落したことやろ」
 団平はつづいて言った時、もう涙を落していた。が、すぐそれにつづけて、
「しかし、これで玉造の芸も冴えるやろ」
 と、やはり芸のことを言った。
 名人に二代はないというが、玉造の家は、父の吉田徳蔵、玉造、玉助と三代つづいた名門である。玉造にしてみれば、実子の玉助が二代玉造として自分のあとを継いでくれると思えば、何か安心であったろう。ところが、その玉助が死んだ。玉造の芸ももはや一生一代になってしまったのである。親の代からの芸の血が自分一代で尽きてしまうのかと思えば、玉造の芸も末期の眼に冴えかえって行くだろうと、団平は思ったのか。それとも、盲目の孫を残して一人息子に死なれた玉造の孤独な心が、やがて人形の情合いに現われて行くのを、団平は期待したのだろうか。期待といえば、既に玉造は名人として自他共に許し、その芸の円熟は誰の眼にも頂点に達していると思われたのに、団平はやはりそれ以上を期待したのである。団平の眼には、芸の頂点というものはなかったのである。これでよしという極楽を求めて求められぬ地獄が芸の世界であった。
 太夫も三味線も人形も、畳の目を一つずつ数えて行くように、とぼとぼ芸を磨きながら、上達して行くのである。一足飛びの名手というものは現われないのである。修行の労苦に命を刻む歳月だけが、名手をつくるのである。それを、玉助が三十歳やそこらの若さで名手になれたというのも、天分も無論あったろうが、なんといっても一日を一月にし、一月を一年にするほどの休みなききびしい鞭を、父の玉造から受けて来たからであった。
 玉造もまた父の徳蔵からそうされて来たのである。
 玉造は天保十一年、十一歳で道頓堀の竹田の芝居にはじめて出勤した。名をつけてくれと父に頼むと、
「お前みたいな棒鱈に名つけても仕様がない」
 と、徳蔵は突っ放した。が、名前なしでは出勤するわけにいかない。そこで、徳蔵は、
「お前は円顔やさかい、玉造として置け」
 と、簡単に言った。由緒ある人形遣いの名を与えて子供の初出勤に花を飾ってやろうなどという気持は、徳蔵にはなかったのである。
 そういう父を持っていたから、玉造はとくに徳蔵の子だからといって、優遇されるようなことはなかった。勿論、いきなり役がつくようなこともない。足も遣わせて貰えない。楽屋や舞台裏の雑用にこきつかわれるだけである。それでも辛抱して勤めているうちに、一座が四国へ巡業した。そこではじめて年相応の役がついた。「先代萩」の鶴千代の役である。ところが、千松を遣う人形遣いが、玉造みたいな新米の鶴千代相手では千松が遣えないと言って、納まらなかった。それを拝み倒すようにして頼むと、千松の人形遣いが、
「そんならお前の昼飯をわいにくれるか」
 と、言う。座で貰う弁当では腹が一杯にならぬのである。
「よろしおま」
 鶴千代さえ遣わせてくれるならと、玉造はその興行中自分の昼飯を千松の人形遣いに与えて、機嫌をとりながら、鶴千代を遣った。れいの「腹が空ってもひもじゅうない」という「先代萩」御殿の芝居である。玉造は自分の役の千松のひもじさがひしひしと同感できるくらい、毎日空腹で倒れそうになったという。その代り実感は出たのである。
 そんな苦労のおかげで、倖いその役は好評を博して、大阪へ帰り、間もなく博労町稲荷町に出来た文楽座へ父親と一緒に出勤したが、徳蔵は玉造が遣った「関取二代鑑」の秋津島の内の場の伜力造の役が成っていないと言って、怒りだし、到頭十四歳の玉造を勘当同然にしてしまったということである。
 そういう人を玉造は父に持って、そしてはげしい修行できたえて来たのである。子供の玉助にもすくなくとも芸の上では厳格であったことはいうまでもなかろう。

 名人の玉造がはじめて持った役は鶴千代だったが、栄三もまたなんの因縁でか、はじめて貰った役らしい役は鶴千代であった。コレラの流行した年の翌年の一月である。栄三はこの時十六歳であった。
 以後栄三にはぼつぼつ端役が当てがわれたが、しかし、それでもう下積みの足遣いを卒業したかというと、そうではなかった。やはり自分の役の合間合間には、この足を遣え、あの足を遣えと、こきつかわれた。が、これはひとり栄三だけに限ったことではなく、どの人形遣いも修行中は皆させられるのである。吉田冠四などは、さきにも述べたように、六十歳まで主遣いになれず、足ばかり遣っていた。
 俗に足遣い十年といわれている。いうまでもなく人形は、主遣い(あるいはシン遣い、胴遣い)左遣い、足遣いの三人で操るのだが、その三人の呼吸が少しでも狂えば、もう人形は死んでしまう。それ故、足遣いの仕事といっても莫迦にはならず、ことに足遣いは立つ、坐る、歩く、走るなどの動作のほかに、人形の動きと三味線の間にピッタリ合わせて足拍子を踏まねばならない。そして、それらがすべて主遣いの足もとにかがんで、五尺の身体を三尺にも二尺にも縮めて遣うのだから、骨の折れることは大変なものである。しかも、これらの動きは、あらかじめ打ち合わせてやるわけではなく、自分の身体を主遣いの腰にすりよせて、その腰のひねり方を自分の右腕に感じ、その感じと太夫や三味線のイキによって、咄嗟の動きを悟るのであるから、わずかの歳月では覚えられるものではない。それに、いつなんどき誰のどの役の足を遣わされるかわからず、その役をすっかり呑み込んで置かねばならない。足遣い十年といわれるのも、誇張ではないのである。
 栄三は小柄ゆえ身体を縮めて遣うのには、ひと一倍助かったというものの、しかし、やはりこの縁の下の仕事は辛かった。
 たとえば、栄三はその年の冬「苅萱桑門(かるかやどうしん)」の高野山の場で、辰五郎の道心の足を持たされた時の辛さを、いつまでも忘れることが出来なかった。この場では、石童丸との名残りが二十分も掛るのだが、その間人形の動きは殆どなく、道心はじっと突っ立ったままである。で、栄三は高下駄をはいた道心の足をキッチリ揃えて、ピタリと支えていなければならなかったが、余りの苦しさに一寸気を抜くと、辰五郎の舞台下駄で向脛を蹴られて血がにじんだ。
 また栄三はカゲを打たねばならなかった。カゲを打つというのは、人形のきまり、きまりに、かげに居ってチョンチョンと柝(ひょうしぎ)を打つことであるが、ある時「安達ケ原」の三段目の辰五郎の貞任に、カゲを打ったところ、その打ち方が気にくわぬと、やはり舞台下駄で向脛を蹴られて、大怪我をした。それで翌日はスカタンを打たぬようにと、気を配って舞台へ出るともうその日は辰五郎のきまりの個所が変っているので、狼狽しなければならなかった。

 明治二十一年、栄三が十七歳の二月、彦六座が焼失した。
 それで新築の普請が出来上るまで、一座はちりぢりになって旅巡業に出た。栄三も芳太夫、兵吉、玉松、小才、玉六などの小人数に加わって大和方面を廻った。
 まだ汽車は通じていなかったから、天王寺の河堀(こぼれ)口から国分峠の麓まで馬車で行き、そこから草鞋がけで大和にはいり、あちこちと打ってまわった。土佐町を最後に旅興行を切りあげて、高田へ戻った。そしてそこで一日泊って大阪へ立つ積りだったが、所持金も心細かったし、直ぐ国分峠へ急げば天王寺行きの馬車に間に合いそうだったのを倖い、道を急いだ。ところが、途中で人形遣いの一人が、蛙に悪戯をはじめた。火のついた煙草を紐の先に付けて、蛙の側へ持って行くと、餌かと思って喰いついて来る。それを見て、皆んなも真似て釣りだした。手先きの器用な連中ゆえ、面白いほど釣れた。この悪戯に旅の辛さを忘れながら暫く行くと、小川の辺で犬と蛇が喧嘩していた。犬はすぐ逃げだすのだが、子供たちが集ってけしかけるので、また蛇に突っ掛っている。そのありさまを一行は長い間見物した。
 そんなことで、うっかり時間を食ったので、国分峠を大周章てに越えたが、馬車には乗り遅れた。高い人力車などに乗る金は無論なかった。そこで一行は、とぼとぼ大阪まで歩いて行くことになった。日頃舞台で立ちずくめで足の強い人形遣いもさすがに平野あたりまで来ると、もう歩けなかった。這うようにして栄三が生国魂(いくだま)神社の近くにあるわが家へ辿りついたのは、夜の九時頃であった。

 旅から帰って、間もなく六月二十日を初日として、彦六座の新築興行の幕が開いた。が、思ったほど客は来ず、彦六座の衰運も火災と共に傾いて来たようで、一座の者には気味わるくかつ心細かった。おまけに、翌二十二年の春興行中には、紋下の住太夫がなくなり、つづいて翌二十三年の夏には人形紋下の吉田辰五郎がなくなり、同時に三吉、兵吉などの人形遣いも退座し、いよいよ彦六座はさびれて来て、盆替りの興行は五日しか打てず、すぐ狂言を替えて初日を出さねばならぬという情けないありさまだった。
 栄三は翌二十四年の一年興行が済むと、彦六座から暫く暇をとって、神戸の楠社内にあった菊の亭という寄席へ出勤した。菊の亭へはその頃女義太夫が掛り、人形は文楽の玉五郎がシンで、三吉、兵吉、玉米、栄寿などで、栄三がこの寄席へ出勤したのは、彦六座の先輩である三吉、兵吉や、叔父の栄寿などの勧めであった。
 この時栄三はちょうど二十歳であった。
 栄三はこの寄席の二階に寝起きしながら、まる一年くらした。寄席稼ぎは収入りはよいとはいうものの宿をとったり、どこかの二階を借りたりするには、やはり足りなかったのである。そうして、菊の亭で働いている間、栄三の気に掛るのは大阪の彦六座のことであった。ところが、その年の暮れに兵庫の「村芝居」へ大阪の人形一座が掛ったときいたので、出向いて行くと、果して彦六座の引越し興行で、きけば、この一年彦六座の興行は不入りつづきで、到頭旅興行に出て来たとのことであった。
 栄三は二十一歳の正月まで菊の亭で働いたが、二月にそこの人形の一座が京都四条北側の芝居に掛った素人連の浄瑠璃興行に雇われたので、栄三もそれに一座し、ひきつづき三月から四月へかけて千本通の上(かみ)の方や、猪熊の小屋に出たりした。
 そして、大阪へ帰って来ると、彦六座はまだ休業していたので、栄三はその足で再び神戸へ行き、菊の亭で働いた。この時もやはり女太夫で、今の吉田文五郎が巳之助という名で一緒に働いていた。文五郎は明治二年生れというから、当時栄三よりは三つ年長の二十四歳で、死んだ吉田玉助に入門し、はじめ松島文楽から御霊文楽で働いていたのだが、文楽では食えず、やはりそうして寄席稼ぎしていたのである。
 十月まで神戸にいて、栄三は大阪に帰り、十一月興行から彦六座に復帰した。この時栄三は「大江山」の碓井貞光(うすいさだみつ)と「三日太平記」の松井市作の役を貰ったが、この復帰を機会に彼は叔父の栄寿から貰った光栄の名をかえし、本名の栄次郎からとった栄三郎という名に改めたいと思った。歳もちょうど二十一歳、定まった師匠のない身軽さに、今独立して一本立ちで行こうと思ったのである。そして、この旨を仕打に言うと、
「そら、よかろ。しかし、栄三郎の郎はいらんがな。栄三(えいざ)にしときなはれ」
 と、言われたので、そうすることにした。
 こうして、栄三は独立の喜びに勇み立って、二年余りの寄席廻りにきたえた腕を発揮するのはこの時だと、一生懸命遣ったが、まだ歳も若く人気もない栄三ひとりが力んでみても、団平や大隅が旅に出た留守の無人の一座ではどうにもならず、散ざんの不入りだった。
 その頃から仕打の灘安は逼塞(ひっそく)して土蔵の中に住みだし、彦六座の経営もいよいよ苦しくなった。そして、翌年の盆替り興行まで辛うじてもちこたえたものの、その興行が七日しか打てぬという不成績ぶりを見て、到頭彦六座を投げだしてしまった。灘安が頼りにしていたもと同じ酒屋の旦那の柳適太夫も既になくなっていた。
 彦六座が、没落したので、一座の者はちりぢりにたり、ある者は文楽へはいったがたいていは旅を廻ったり、寄席へ出たりなどして、再起の機会を待っていた。栄三は再び神戸の菊の亭へ出た。
 ところが、その年が明けると、その頃博労町三休(さんきゅう)橋の北東角にあった「花散里」という料理屋の旦那が、彦六座の小屋を買収して、稲荷座と名を改めて、興行することになった。旧彦六座の者は喜んで、これに参加した。栄三も勿論である。旅を廻っていた団平、大隅も帰阪して、加わった。おまけに、十九年に文楽座を退いてからずっと休養していた世話物の名人五世弥太夫が出座して紋下に坐り、また人形では東海道辺りを旅廻りしていた豊松清十郎が大隅の紹介で座頭格として新加入するなど、一座の顔触れは堂堂たるものであった。旧彦六座の仕打の灘安も十八(とはち)太夫と名乗って、こんどは芸人として加わった。
 そうして、三月二十六日の初日で開場したが、栄三は「菅原」の梅王、「お染久松」飯椀(めしわん)の久松、「式三番叟」の千歳の三役を貰った。この興行は大変な入りであったが、旅の間に団平からはげしく仕込まれていた大隅がこれまでとは見違えるほどの「寺子屋」を語ったし、それに紋下の弥太夫の「飯椀」がさすがに世話物の名人といわれるだけあって、悪声ではあったが、見事な写実味で客を泣かしたし、団平の指揮のもとに太夫三味線人形の精鋭が熱演した三番叟もあり、客が来たのも当然であった。旧彦六座の者は涙を流してよろこんだ。
 栄三はその年の盆替りの弥太夫の演し物「四谷怪談」伊右衛門内の段で下男小介の役を振られた。いうまでもなく端役である。ところが、弥太夫から急にダメが出て、小介を駒十郎に、直助権平を栄三に振りかえしてしまった。駒十郎は栄三から見ればはるかに先輩である。その先輩へ何故自分の役であった小介が振られたのであろうと、栄三にはわけがわからなかった。理由もいわずに変えられたのだから、良い気持はしなかった。駒十郎にしても同様であろう。いや、駒十郎にしてみれば、そんな端役を振られて、一層良い気はしなかったであろう。
 ところが、初日になってみて、栄三は驚いた。端役だと思っていた小介を、弥太夫は非常に丁寧に語っている。まるで小介が主役のようである。人物の性格を語りわけるのに妙を得ている弥太夫だから不思議はないものの、しかし、たしかに弥太夫は他の人物よりも小介を重要視しているようである。なるほど端役だと思っていた小介にも、こんな生かし方があったのかと、栄三は感心した。そして同時に、弥太夫が小介を自分に遣わせなかった理由が判ったと思った。弥太夫は自分のような未熟者には、大事な小介を遣わせたくなかったのであろうと、判ったのである。
 栄三はこの時豁然として悟った。慢心してはならないと思った。そしてまた、どんな端役もおろそかにしてはならないと思った。
 ところが、間もなく栄三に大役が廻った。もっとも大役といっても、代役であった。二十八年の二月の興行で、団平が節付けした「勧進帳」(鳴響安宅新関(なりひびくあたかのしんせき))の初演があり、弁慶の役の駒十郎が途中で病気したので、その代役が栄三に廻って来たのである。
 人形遣いは皆代役をよろこぶ。代役が廻って来るのを待っているのである。誰か病気して休んでくれないだろうかとさえ思うくらいである。何故なら、代役でなくては、そんな大役は廻って来ないし、そしてまた代役を立派に勤め果すことが技量を認められる機会になるからである。で、栄三も喜んで引き受けたが、人形を持って舞台へ出てみると、人形の重さに驚いた。おまけに栄三は小柄ゆえ、弁慶の人形をぐっと支え上げねばならず、舞台の高い所にいる富樫に向って勧進帳を読む間の辛さは、わずか二日間であったが、よく寝こんでしまわなかったものだと、あとで思ったくらいであった。それを栄三はじっと辛抱した。
 ところが、この「勧進帳」の上演に対して、市川宗家から板権侵害の訴訟をおこした。そこで団平は法廷へ出て、勧進帳は近松巣林子の原作である、市川宗家のみが私すべきものではないと主張して、事なきを得た。
 どうなるかと思っていた一座の者は、団平が訴訟に勝ったと知ると、ほっとし、ますます団平に信服した。そして、この団平と弥太夫、大隅の居る限り、稲荷座は大丈夫だと安心していたところ、間もなく仕打の花里が株で失敗して、興行をつづけることも危まれた。
 そこで、団平、弥太夫、大隅の三人は、ここで稲荷座がつぶれてしまっては大変だと、無給で出演することを仕打に申出て、ともかく興行をつづけて貰うかたわら、善後策を講じ、その結果ひいきの内の有志が集って大阪文芸株式会社を創立し、その手によって稲荷座の経営を行うことになった。明治二十九年十一月のことである。この時組太夫も帰り、弥太夫以下、大隅、越、組の太夫で「忠臣蔵」の通しを出したところ、大入りであったので、一同は虎口を脱した想いにほっとした。

 人形の道にはいってちょうど十五年が経ち、栄三は二十七歳になった。もと彦六座で一緒に働いていた門治から手紙が来た。今は東京の浅草に住んでいて、寄席の人形芝居に出ているというたよりだった。
 栄三は読んで、羨しかった。彼は子供の頃から、東京というところが一度見たくて堪らなかったのである。で、お前も東京へ来ないかという誘いの文句を見ると、もう我慢がし切れなかった。
 そこで、栄三は血気の余り稲荷座を暇取って、ちょうど小正月の一月十五日の朝、梅田の駅から汽車に乗った。途中名古屋で下車して、白山神社近くの知人の家に立ち寄った。一晩泊めて貰い、すこしは無心を言ってみようと思ったのである。父は五円の旅費しかくれなかったのだ。
 ところが、立ち寄ってみると、主人は留守で、一見識もない細君だけしかいなかった。当てが外れたが、それでも晩御飯だけよばれて、その夜の六時の上りで名古屋を発った。
 翌朝、新橋へついてみると、二十銭しか無かった。十銭ですしを食べ、馬車で浅草まで行き、門治の家を尋ねまわった。やっと探し当てたが、母親が出て来て、門治は神田の新声館という寄席へ行って留守だという。
 もう四銭しかなかった。馬車にも乗れず、その足で神田まで歩いた。途中で「サンライス」という煙草を三銭で買って一銭残り、てくてく歩いているうちに、一本の煙草に酔うてしまうくらい、腹が空って来た。
 やっと、新声館に辿りつくと、案の定門治がいた。楽屋へ通されて、話をしているうち、もと彦六座の頭取をしていた栄造がやはり同じ寄席で働いているらしく顔を見せて、
「光コ、よう来たな。-昼飯はまだやろ」と言って、弁当を注文してくれた。
 弁当を食べ終ると、栄三は楊子ひとつ使う間もなくそのまま黒衣を着て舞台へ出た。そして昼の新声館の芝居をくたくたになって済ませるとその身体で夜はまた別の寄席へ出て働いた。着いた早々、少しは身体に楽をさせねばという気持なぞ栄三にはなく、夜の寄席では門治が遣っていた「酒屋」のお園の役をわざわざ譲ってもらうくらいで、人形さえ遣っておれば、旅の疲れなぞ忘れてしまうのであった。
 泊るところもなく、栄造の家に居候することになった。栄造は彦六座の人形頭取をしていた頃から栄三を師匠のない子として可愛がってくれていた。で、昔に甘えて居候することになったのだが、栄造はちょうど十日前に東京の一座のシンの兵吉の世話で花嫁を貰ったところだった。おまけに、栄造は新町の大火で焼けだされて、東京へ流れて来た矢先ゆえ、万事不如意で、夫婦二人の暮しにさえ困る日日を送っていたらしいのが、栄三にもすぐ判った。細君は贅沢な気性の女だった。
 悪いところへ来たと恐縮していると、ある日栄造は、細君に兵吉のところへ手紙を持たせてやった。そして、
「栄コ、お前もついて行ったりイ」
 と、言う。そこで細君と同道して、兵吉の家へ行くと、兵吉はその手紙を読んで、
「栄コ、お前さきに帰っとりイ」
 と、言った。一人で栄造の家へ戻って来たが、いつまで待っても細君は戻って来ず、実は細君が兵吉のところへ持って行ったのは自分の離縁状だったのだ。
 栄造は栄三を家へ置いた代りに、新妻を追いだしてしまったのである。栄三はますます恐縮したが、けれど栄造はその贅沢な気性の細君が気に入らなかったらしかった。
 栄造の家に居候して一月ばかり新声館その他の席で働いていたが、間もなく、大阪の稲荷座の大隅太夫から、栄造の所へ手紙が来た。栄三を大阪へ帰せというのである。栄造はそれを読んで、
「追い帰すわけやないけど、こらやっぱしお前は帰った方がええな。なんちゅうても、人形浄瑠璃は大阪が本場や。お前もこれから頭を擡げんならん男やさかい、やっぱし大阪イ帰って修行した方がええ。帰んなはれ」
 と、言った。
 そこで、栄三は三月の末に新橋を発って、大阪に帰ると、すぐ稲荷座の三月興行に出て、「忠臣蔵」の喜多八を遣った。
 この「忠臣蔵」は通(とお)しで、「大序」は、弥太夫の直(ただ)義、組太夫の判官、大隅の顔世(こよ)、伊勢太夫(のちの土佐太夫)の若狭(わかさ)之助に、三味線は団平という豪華な顔触れであった。「大序」は一曲の第一章で、普通太夫や三味線の最下位の者が勤めるので、この人達のことを大序の人というくらいである。角力でいえば幕下である。それを紋下以下の精鋭が総出演で勤めるというのだから、いわば勿体ないくらいの「大序」であった。
 七十二歳の名人団平はこの時「大序」のほかに、「茶屋場」と「九段目」を弾いた。その歳でよくそんな無理がきくものだと、ひとびとは老いてなお疲れを知らぬ団平の剛力に感心していたが、さすがに「茶屋場」だけは中頃から源吉がかわって弾いた。
 つづいて四月興行には、団平は大隅の「志渡寺(しどじ)」を弾いた。相変らず、その大ノリのタタキは、まるで三味線の音とも思えぬくらい凄く、表の木戸番が道具が倒れたのだと早合点して、勘定場へ飛び込んで来るほどであった。
 そして、二日目のことである。「まさしく金比羅大権現-」の一二三「すりあげ」の合の手の「たたき」の音を、これが人間業かと感心しながら栄三が舞台で聴いていると、もうあと一枚というところの、「-はやせぐりくる断末魔」の合の手のくりかえしの二へん目が、ふっと調子が狂ったので、栄三がはっと思って見ると、団平は床の上でがくり前のめりになっていた。
 すぐ床を廻し、竜助が着物のままで出し替りを勤めた。栄三は人形を遣いながら、団平のことが案じられてならなかった。
 幕になると、栄三はすぐ二階の団平の部屋へ駈けつけようとした。すると誰かが、
「堀江はんの部屋や」
 と、叫んだ。
 団平の部屋は二階だったので、新左街門と友松(のちの道八)が通称「堀江の大師匠」の弥太夫の部屋へかつぎこんだのであった。
 栄三は弥太夫の部屋へ駈けつけた。が、その時は団平を担架にのせて病院へ運んで行ったあとだった。そして、間もなく栄三の耳に、団平が病院へ行く途中三条橋の北詰で息をひき取ったという報らせがはいった。

 その夜、栄三は島ノ内清水町、心斎橋を東へ入ったところにあった団平の家へ通夜に行った。
 末座にひかえていると、集った人達が団平の噂をしている。
「清水町さんは三味線の一番上まで行きはったが、またもとの大序まで戻って死なはった」
 などと言っている。前の月の興行で団平が「忠臣蔵」の大序を弾いたことを言っているのである。
 そのうちに、主だった者が、
「葬式の金も無いそうや。さあ困ったな、どないしょ」
 と、相談をはじめた。遺産はすこしも無いということであった。
 栄三はそれを傍できいて、団平が物欲に恬淡で金銭に無頓着な人であることはかねがね知ってはいたが、あれほどの名人で、しかもその教えを受けた者が千人を下るまいといわれていた団平が葬式金も残さなかったのは、まるで、嘘のように思われ、なるほど清水町はんは芸のほかに何もなかった人や、芸が命になってしもたら、貧乏も忘れてしまうのかと、今更のように感心した。
 そして、団平が稲荷座の経済難を救うために弥太夫や大隅太夫を説いて、無給で出演していたことなどを想いだしていると、誰かが、「清水町はんは、なんでもかでも紙屑箱に放り込む人やったさかい、いっぺん紙屑箱の中探してみたらどないや」
 と、言いだした。
 それで、みんなが団平の稽古机の傍にあった紙屑箱の中のものを出してみると、果して団平が貰った給金や、祝儀や稽古の謝礼が封もきらずに紙包のまま、紙屑と一緒に放りこんであったのが、いくつも出て来た。
「助かった。これで葬式金が出来た」
 と、一人が言うと、誰かがまた、
「それで想いだしたが……」
 と、こんな話をした。
 団平のところへ、二度目の細君のお千賀が来た頃のことである。
 月末になって、借金取りが来ると、団平はその紙屑箱を出して、
「さあ、その中からほしいだけ取って、持って帰りなはれ」
 と、言って、そのまま借金取りの顔も見ず、稽古をつづけていたという。
「なるほど、そ言えば、そやったな。しかし、そら借金取りの話やが、わいの聴いたのは、泥棒にはいられた時の話や」
 と、また一人が話しだしたのは、こうだった。
 団平がまだ独り身の時に、泥棒がはいった。すると、団平は、
「三味線と撥と、舞台で着るもんのほかやったら、なんでも持って往きなはれ」
 と、言って、れいの紙屑箱を出した。泥棒は両手を突っ込んで、さらって持って逃げたが、あとで泥棒が勘定してみると、百十両もあった。それで、泥棒は、気味がわるくなって、どうにも手がつけられず、団平のとこへ戻して来たというのである。
「その泥棒はあとで捕った時、団平という男はえらい男やと言うとったが、たしかに、芸人は清水町はんみたいにならんといかん。大きな声では言えんけど、松葉屋の師匠とえらい違いやな」
 と、その男は言った。
 松葉屋の師匠というのは、当時団平につぐ三味線弾きとして、文楽座に出勤していた五代広助のことである。細君の‘はな’がお茶屋をしていた時の家号が松葉屋だったので、広助はそれを家号としていたのである。
 この松葉屋広助は、放縦な父親のために莫大な借金を背負わされて、随分金には苦しみ、貧乏の辛さが骨身にこたえたので、発奮して蓄財を志し、宴会の折詰の折箱まで金にかえるという芸人にはめずらしい吝嗇(こまか)さがつもりつもって、もう十万円も残したとか言われていた。
「松葉屋の師匠は道端の葱を捨(ひろ)て帰って、食べたちゅうことや」
 そう噂しているところへ、松葉屋広助が顔を見せた。そして、団平の枕元へ坐ると、蝋色になった団平の手を取って、
「ああ惜しい手を死なしたこの手は何万両だしても買われん手や」
 と、言った。
 松葉屋らしいことを言うと、ひとびとは思ったが、その言葉で、ひとびとは今更のように、もうあの三味線が聴かれぬのかと、すすり泣いた。

 間もなく、初代玉造がはいって来た。
「あ、親玉はん、ようこそ」
 と、挨拶したひとびとにはちょっと頭を下げたままで、玉造は団平の枕元へ駈けるように寄って行って、
「団平さん、団平さん」
 と、言いながら、ぼろぼろ涙を落した。
 それを見て、ひとびとは、かつての団平と玉造の喧嘩を想いだした。
 まだ長門太夫が生きていた頃のことである。長門が団平の三味線で「志渡寺」を語ることになって、その総稽古の日のことである。
 お辻の祈りのくだりの、「ものを言わっしゃれぬか」トチチリトチチリ「南無金比羅大権現」トチチリトチチリという、団平の「たたき」が物凄い音を出す正念場へ来た時、団平はどうした気のゆるみだろうか、稽古というので気を許したのであろうか、三味線の棹に粉をかけ、胴をなめた。
 すると、玉造は、
「胴がなめたかったら、楽屋でなめて来なはれ。気がぬけて仕様がない」
 と、舞台から怒鳴った。団平ははっと思ったが、けれどまだ若かった。団平は血相をかえた。が、長門が仲裁したので、喧嘩にならずに済んだ。
 その次の興行で「千本桜」が出た。権太の引っ込みの「是れ忘れては」のくだりの打ち合わせを、団平から言って来た時、玉造は、
「あんたのええように弾いとくなはれ。こっちはどう弾かれても乗って行きまっさかい」
 と、打ち合わせに応じなかった。
 団平はむっとした。そこで、初日にそのくだりへ来ると、団平は力のあらん限り弾きだした。長門はその調子に攻められて、みるみる苦しい汗を絞りだした。が、それよりも権太を遣っている玉造が苦しみだした。団平の調子に乗って行こうとすると、どんなに力があっても足りないくらいであった。が、玉造はどう弾かれても乗って行くと言った手前、その調子を外すわけにはいかなかった。玉造は歯をくいしぼった。その拍子に緊めていた腹帯がぷっつり切れた。あとで、玉造は、
「さすがは団平や。おれやさかい腹帯で済んだが、ほかの者(もん)やったら、腸が捻じれてしもたろ」
 と、言った。
 この喧嘩をひとびとは想いだしたのである。以後、二人は不和になっていたという。けれど、いま玉造が死んだ団平の枕元で、
「団平さん、団平さん」
 と呼びながら、おいおい泣きだしたのを見ていると、二人が不和になっていたなどというのは、ひとびとには嘘のように思われた。よしんば喧嘩はしても、芸のほかには何ものもないこの二人の名人には、つまりはそれは芸の上の喧嘩で、それだけに相手の芸を愛する心は人一倍強かったのであろうと、ひとびとには思われたのである。
 すくなくとも栄三にはそう思われた。
 四月二日の夜は次第に更けて行った。栄三は、
「清水町は自分で阿呆や言うて、葬式銭も残さんと、一生貧乏で通したが、それがほんまに賢こかったんや。おれみたいになまじっか金に眼がくれてる芸人の方が阿呆や」
 と、しみじみと松葉屋広助が言った言葉を聴きながら、こんなありがたい通夜に列ぶことの出来た自分を、倖せに思い思いしていた。

 団平が死んでしまうと、稲荷座はにわかにさびしくなった。客の入りも目立って減って来た。経営主の文芸株式会社の会計ももうその以前から苦しくなっていて、小屋を抵当に入れて、金を借りていたらしかった。
 それでも五月興行は無事に済み、そして六月興行がはじまったある日のことである。
 一座の者は、いきなり、今日限り稲荷座を解散すると言いきかされて、呆然とした。まもなく六月興行も千秋楽で、夏休みである。夏休みの間に小屋の借金の整理をして、盆替りをあける積りであったのに、千秋楽もまたずに解散するという。誰ひとりとして耳を疑わぬ者はなかった。
 しかし、だんだん聴けば、文芸株式会社の社長の岡崎が、稲荷座を独断で文楽座へ売ってしまったということである。文楽座ではかねがね目の上のこぶである稲荷座の崩壊を策し、これまでにもしばしば団平、弥太夫の引き抜き運動をやっていたが、それが効を奏さなかったので、こんどは社長の岡崎に働き掛けて、遂に稲荷座を買収してしまったのである。
 稲荷座が潰れてしまったので、栄三は再び寄席を廻るより道はなかったが、伴い文楽座の頭取の吉田三吾が、寄席を稼ぐよりはいっそ文楽の檜舞台で修行してみてはどうかと言ってくれた。
 そこで、栄三は盆替りから御霊文楽座へ出勤することになった。
 その頃文楽座は、三世文楽翁は既になく、また四代目の座主植村大助も早世して、その実子の泰蔵が五代目を継いでいた。しかし、泰蔵は病弱の上に素行も修らず、実際の監督は大助の未亡人ハルが当っていた。ハルは幕内の信頼があり、「おえはん」と呼ばれていた。
 紋下は越路太夫、ほかに法善寺の津太夫、ハラハラ屋の呂太夫、染太夫、七五三(しめ)太夫、文字太夫、源太夫、むら太夫など、三味線は松葉屋広助が紋下で、五代吉兵衛、勝鳳(しょうほう)、才治、四代勝右衛門、四代勇造など、人形は紋下の玉造のほかに、先代紋十郎、玉治、二代玉助、金之助(後の多為蔵)、玉五郎、助太郎など、頭取は吉田三吾で、稲荷座にくらべてさすがに賑かな顔触れであった。
 ことに、栄三にとっては、人形芝居始まって以来の名人吉田文三郎につぐ名人といわれている玉造や、女形遣いの名人桐竹紋十郎と一座することがうれしく、思わず心がひきしまったが、けれど文楽座は昔から古参者を大切にして、新参者には待遇のわるいというしきたりだったので、稲荷座では若手の花形であった栄三も、碌な役も貰えなかった。
 ところが、「相撲場」の長吉を遣う金之助がトチッたので、その代役が初日から栄三に廻って来た。文楽へはいったその日から代役が廻るとは、なんとありがたいことかと、栄三はよろこんで勤めたが、それが「おえはん」や勘定場の者の眼にとまって、栄コはよう遣れるということになった。
 しかし、それですぐ優遇されるということはなかった。それどころか、その次の年の二月興行で「阿波鳴門」のお鶴の役を当てがわれた。この役割が発表されると、さすがに栄三はよい気はしなかった。稲荷座では重次郎や勝頼を遣っていたのに、今更子役を遣えとはあまりだと思ったのである。
 ところが、初日になって、お弓とお鶴との母子対面の場を済ませて、次の殺しの場の出を待っていると、十兵衛の玉造が、
「栄コ、おれの足遣え。そんな端役のお鶴は誰ぞに遣わせ。お前はおれの足持って、十郎兵衛をよう見とき、見とき」
 と、言った。
「へえ、おおけに」
 と、栄三はよろこんだ。足遣いからもう一度たたき上げてやろうという玉造の気持が、うれしかったのである。
 そして、その後栄三は本役のほかに随分足を持たされ、まるで子役上りのように、一日忙しい想いがしたが、しかしこれも皆末のためだ、修行だと思って、我慢して黙々と勤めた。

 一方、旧稲荷座の者たちは、どうかしてもう一度旗上げしようと、弥太夫以下がもとの文芸株式会社の有志を説いてまわり、稲荷座没落後五ヵ月目の十一月から、北堀江の明楽座に立て籠って、興行していた。
 もっとも、弥太夫は引退して出座せず、後見として監督することになって、太夫は、大隅、組太夫、伊達太夫、住太夫、春子太夫、長子太夫等で、三味線は広作に小団二、浜右衛門、友松、新左衛門など、人形は清十郎、玉米、門蔵、それにもと巳之助といっていた文五郎が簑助の名で稲荷座時代からひきつづいて、この座へはいっていた。
 ところが、翌年六月に花形玉米が急死した。それで、明楽座では急に人形遣いが手不足になったので、文楽座へ行っている栄三を呼び戻そうとした。明楽座の仕打の花里は稲荷座時代から栄三にいくらか金を貸していた。それを楯にとって帰れと言って来たのである。が、文楽座でも栄三を忙しく使っているので、手離したくない。借金があるなら、返してやろうとまで言った。それを明楽座へ伝えると、金を返せというのではない栄三の身体が要るのだ、働いて貰おうと思えばこそ前に金を借してあるのだと言ってきかない。
 そうして、すったもんだしているうちに、三十三年の一月興行の番附には、文楽座と明楽座の両方に、栄三の役が出てしまった。文楽座の方は、前の「八陣」の春姫と柵、中の紋下の越路「酒屋」の半七、明楽座の方は、前の「信長記(しんちょうき)」の信長と十河(そがわ)軍平、切の大隅の「質店」の久松である。
 栄三は困り果てたが、番附にそう出てしまった以上どうするわけにもいかず、まず文楽座の三役を済ませると、その足で北堀江の明楽座へ駈けつけ、「質店」の久松を遣った。しかし、信長と軍平は間に合わず、代りを頼まねばならなかった。二月は文楽座は狂言を持ち越した。明楽座の方は一月の晦日から二月興業の初日をだし、「忠臣蔵」の通しで、栄三の役は小浪とおそのであった。で、栄三は同じように文楽の三役を済ませると、明楽座へ駈けつけ、「道行」の小浪から勤めた。「松伐り」の小浪は間に合わず、勿論代役を頼んだが、その「道行」小浪でさえ、さすがにトチることがあり、玉次郎に頼んで代って貰わねばならなかった。
 栄三は悩んだ。こんな風に忙しく芸の切売りじみたことをしては、芸が荒んで来る一方だ、おまけにトチッて座に迷惑を掛け、客にも会わす顔がない。そう思うと毎日気持が暗くなって、それが一層芸に影響する。どちらか一方を断らねば、自分の芸がくさってしまうと、思った。
 それで、栄三は前まえからの義理を考えて、一時文楽座を暇取って、借金が済むまで明楽座で働くことを決心し、三月からそうした。そして、月々の給金から少しずつ借金を戻して行くことにした。

 明楽座での義理を済ませて、栄三が再び御霊の文楽座へ帰ったのは、それから二年六ヵ月のちの明治三十五年の九月であった。
 その六月の明楽座の興行は、大変な不入りで、早く打ちあげて太夫や三味線は人形なしの素浄瑠璃の旅に出てしまったので、栄三は仕打の花里の手代のところへ行って、借金も既に済んでしまっているし、これを機会に暇をくれと言うと、旦那が旅から帰るまで待てとのことで、それを待っているところへ、文楽座の方から頭取の三吉が迎えに来てくれて、万事話がついたのであった。
 借金で縛られて働いているという気持は暗かったが、けれど栄三は明楽座の舞台を投げやりにしたわけではなく、清十郎や門蔵や、それから一時東京から来ていた名手西川伊三郎に揉まれて精進し、また役によってはわざわざ文楽座の多為蔵に教えを請うたりして一心に勤めたので、めきめき技量が上達していた。それで、文楽でももう栄三を冷遇するようなこともなく、給金ももとの倍になり、番附も「雨晒し」に坐ることになった。
 ここですこし番附のことを言うと、人形遣いの筆頭は、筆下の左端で、次が筆頭の右端である。それと、真中の中軸がある。以下、左右と千鳥に読んで行って、人形遣いの順位がきまるのだが、右端にすこし字間をあけて、更に右端に一人書き出してある。これは「別書出し」といって、左端の座頭とたいした差異はないのだが、座頭が二人あっても困るので、ここに据えて置くのである。それともうひとつ、座頭のまだ左の方に、枠で囲まずに載せてあるのがある。これは囲み即ち屋根がないから、雨に打たれるという意味で、「雨うたせ」もしくは「雨晒し」といい、若手で腕や人気がある者で、本欄にいれると先輩の下位になって顔が悪くなるので、そうするわけにいかぬという者を、ここに置くのである。
 その時、文楽座の座頭は無論玉造、別書出しは先代紋十郎、中軸は多為蔵、右の筆頭は二代玉助、そして栄三は雨晒しへ置かれたのである。現在の文楽座で雨晒しは若手の女形遣いとして人気のある桐竹紋十郎である。それから考えて行けば、当時三十一歳の栄三がいかに優遇されたか、また腕があり、人気があったかがわかるのである。
 さすがに、その時栄三はうれしかった。もう明楽座と掛け持ちで勤めていた時のような暗い気持もなく、もうここで一生修行しようと思った。
 ところが、それから二月余り経った十一月の二十四日に、父の栄助が五十四歳でなくなった。
 良いことは続くものではないと、栄三は思った。おまけに、かえって悪いことが続いたのである。というのは、その翌年の正月から栄三は歯をやみ、それが昂じて到頭骨膜炎になった。入院したが、医者の言うのには、大手術をしなければならぬ、手術の結果生命を落すようなことがあっても構わぬかというのである。えらいことになってしまったと思ったが、そのまま放って置くと、骨が腐るばかりなので、生命を失っても苦情はいわぬという証文をつくった。が、そうして手術の日を待っているうちに、妹が腫物の神様の石切さんへお詣りしてくれた。間もなく手術をしたが、それはほんの骨の一部分を削っただけで、簡単なものであった。証文は捺印はしなかった。
 退院した時には、もう三月興行がはじまっていたが、栄三は途中から舞台へ出た。もっとも本役の「女四孝」の濡衣(ぬれぎぬ)の役は出遣いだったので、まだ包帯のとれぬ栄三は出遣いするわけにいかず、ほかの軽い役に替えてもらった。舞台の合間には、病院通いをしなければならず、まだすっかりよくなっていない身体で舞台に出るのは無理だったが、前後五週間の入院代が思いのほかの高額で、自分の分はもちろん親や妹の乏しい財産まですっかり無くしてしまっていたので、無理をしてでも稼がねばならなかったのである。ひとつには、やはり人形を手にしていないと、淋しかった。
 その興行は大入りだったが、五月は紋下の越路(当時義太夫)が小松宮家から賜った摂津大掾の号に改名する披露興行があるので、その準備のため四十五日ほどで打ち揚げた。
 その頃、明楽座は既に経営難で潰れていて、一座の大隅太夫が文楽入りをして、その「壷坂」を附物に、「妹背山」の通しを出し、「山」の掛け合いは、大掾の定高(さだか)に、三代越路の雛鳥、津の大判事、染の久我(こが)之助、「杉酒屋」は越路、「上使」が津、「竹雀」が大掾という豪華な顔触れだったから、この披露興行は折柄の博覧会の景気も手伝って、五月一日から七月十五日、七十五日間打ち通しの大入りであった。
 この興行の景気の旺んであったことは、その頃の文楽に関係していた人が一人残らずいつまでも語り草にするほどで、栄三もまた後年、「六十年の舞台生活を振りかえってみて、どの点からいっても、あの時の興行が文楽の全盛期でした」と言っているが、けれどこの時、栄三は、傷口のガーゼの上へマスクを掛けて出遣いしなければならず、まだ身体も本調子でなく、芝居の景気にひきかえ、ひとり苦しい舞台であった。

 明治三十七年二月に日露戦争が勃発した。
 その月の十八日、三味線紋下の松葉屋広助が遺産二十万円を残して、死んだ。
 当時、一三味線弾きでこれだけの蓄財をした者はなく、その点でも第一人者であったが、三味線にかけても広助の右に出る者はなかった。道端の葱を拾って台所に使ったり、宴会の折詰の空箱を金にかえたり、絶えず些事にも細心の注意を怠らず、いわば芸と蓄財の二筋道を歩いて来た人だけに、芸一筋でそのほかのことは何も構わなかった団平にはさすがに劣ったが、しかし、団平につぐ近世の名人であった。
 明治二年、まだ広助が若かった頃、堀江の芝居で竹沢弥七が大三味線を弾いた。それを見て、広助はおれも負けるものかと二貫目もある釘貫(くぎぬき)で阿古屋の三曲を弾いたことなど、ひとびとはお通夜で昔語りした。
 広助が死んだので、文楽座の紋下は太夫の摂津大掾と人形の玉造の二人きりになったが、その玉造はそれから一年も経たぬ三十八年の一月十二日に死んでしまった。
 玉造が死んだ時、その胴巻から随分の額の金が出て来た。彼は銀行というものを知らず、あるだけの金をすっかり胴巻の中に押しこんでいたのである。そして、彼の得意の芸の早替りの時も宙乗りの時も、その胴巻を肌身離さなかった。
 玉造はかねがね持ち溜めが良くて、口の悪い者は小心な蓄財家だといっていたけれど、しかし、ひとびとは、
「親玉は松葉屋とはだいぶ違うな」
 と、通夜の時に言った。玉造の胴巻からは通用せぬ大政官札が何枚も出て来た、それを言ったのである。松葉屋の広助ならこんなうっかりした手抜かりはしなかった筈だとひとびとは思ったのである。
 それに、玉造が小心な蓄財家といわれるようにまでなったのは、一人息子の玉助に残していかれた盲目の孫のためであることは、ひとびとにはうなずけた。守銭奴ではなかったのである。
 それどころか、彼もまた団平と同じく芸のほかには何ものもなかった人であることを、ひとびとは知っていた。それについて、通夜の晩、こんな昔話が出た。
 玉造が南区の炭屋町に住んでいた頃のことである。
 ある時、炭屋町へ号外売りが来た。
「号外、号外!」
 という声を聴いて、玉造は、
「おい、ボウガイが来よったぜ」
 と、弟子に言った。
「何言うたはりまんねん、親玉はん」と、弟子は笑いながら、「あら、妨害と違いまんがな。号外だっしゃないか」 と、言った。すると、玉造は、
「一字だけの間違いやないか」
 と、答えたというのである。
 やはり炭屋町に住んでいた頃、文楽座からの帰りの夜道で、玉造は立小便をした。玉造は人一倍大男である。すぐ巡査に見つかって、住所を訊かれた。
「わたいの家でっか。西横堀の御池橋の東詰におます」
「そんなことは訊ねとらん。町名はあるだろう。町名を訊ねとるんだ」
「さあ、どない言いましたかいな」
 自分の住んでいる炭屋町という町名を知らないのである。
「頼りない奴だな。御池橋の東詰だったら、炭屋町だろう」
「へえ、そない言いましたかいな」
「番地は何番だ?」
 すると玉造は、
「そんなもん、うちにはおまへん」
 と、答えたのである。

 そんな風に玉造は世事に疎く、字は一字も読めなかった人だが、人形にかけては神様とまでいわれた人であった。工夫に富み、松島文楽座柿落し興行の時、「松島八景」の所作事で、七化けの早替りをやって魔術かと見物を驚かせたり、明治十三年の五月には、「五天竺」の孫悟空になって軽業師のような宙乗りをやったり、十七年九月の「夜這星」の所作では、夜這星となって天井裏を飛びまわったり、早替りで太夫の見台から現われたり、懐ろから出たり、ケレンの名手であった。
 ことにその狐は天下一品で、毎日床で見ている三味線弾きにも、玉造の狐が早替りでぱっと出て来る場所が舞台のどのへんであるか、判らぬくらい、眼にも止らぬ早業で、しかもいったん狐が舞台へ出ると、もう玉造の身体が狐の中に吸いこまれて見えなくなってしまうくらいの入神の芸であった。
 玉造は狐のほかに猿でも鼠でも獅子でも、虎でも、浄瑠璃にあるほどの動物を全部遣いこなしたが、けれど玉造の本領はこうしたケレンや動物遣いだけにあったのではなく、荒事でも女形でも立役でも道化でも何ひとつ出来ぬものはなく、しかもそのすべてが凄いくらいの芸だった。
 それはもう、単に技巧がすぐれているというような、生易しいものではなかった。いつのことであったか、紋十郎の父の桐竹門十郎が、
「玉造、玉造と騒いどるが、いったいどのくらい遣いよるねやろ、いっぺん舞台で恐れ入りましたと言わしてやろ」と、思って、文楽座入りをした。
 門十郎はそれまで外の芝居ばかりにいた人形遣いであったが、腕は鍛えに鍛えていたので、玉造なにするものぞという自信があったのである。おまけに、門十郎の細君のお久は門十郎に離縁されてからのち、嫁いで行った先がひともあろうに玉造のところだった。門十郎にしてみれば、一層玉造を負かしたかったのであろう。
 ところが、門十郎がまるで道場破りの意気込みではいった時の狂言はたまたま「敵討亀山道中噺」で玉造の石井兵助に門十郎の敵水右衛門という役割であった。宿屋の場で二人の立ち廻りになるのだが、その前に、門十郎の水右衛門が二階から降りて来る、玉造の兵助が表から戻って来る、出合い頭にパックリ顔を見合った途端、ピシャリと戸を閉める、その双方の呼吸(いき)の凄さに、お互いの身体が思わずふるえたくらいであったが、その時この舞台を見ていた文楽翁は、
「門十郎はとてもここに居よりへんやろ」
 と、言った。果して門十郎は間もなく退座した。門十郎の芸も凄かったが、玉造の芸はそれ以上の凄さだったのである。維新前の話だというから、当時玉造はまだ若かった。

 栄三はこの話をきいて、自分もまた玉造と一緒に舞台に出ていて身体がぶるっと震えるくらいの凄さを経験したことがあるのを、想いだした。そして、栄三は一生師匠をとらぬ積りで、玉造から正式に弟子入りしてはという話があった時も断ったのだが、いま玉造に死なれて見ると、得がたい師匠を失ったような気がした。玉造の足は何度も遣い、またその舞台も暇のあるなしにかかわらず見て来たが、なぜもっとよく見て学んで置かなかったかという後悔が先に来て、通夜の晩、栄三はいきなりわっと泣きだした。
 この時、栄三は三十四歳であった。
 この年の九月、日露戦争が日本の大捷利のうちに終りを告げた。そしてその歓びの最中に、旧稲荷座の若手の者たちが北堀江市之側大露路内の堀江座に拠って、明楽座解散後二年八ヵ月振りに文楽座対抗の旗上げをした。
 大隅は既に文楽座へ走って兄弟子の摂津大掾の傘下にはいっていたので、この堀江座の一座は、春子、伊達、長子、雛、角、錣、新靭、此太夫等に、三味線は竜助、仙左衛門、小団二、新左衛門、人形は兵吉、玉松、文五郎の簑助、玉治等で、文楽座の老手達には及ばなかったが、いずれも背水の陣の熱演をしたので、折柄の戦勝景気もあり稲荷座時代の好況を取り戻すことが出来た。
 五世弥太夫は、稲荷座没落後再び素人相手の稽古に退いていたが、明楽座、堀江座と転々として苦闘をつづけるこの一座のために蔭になり日向になり尽して来たが、この好況に気を許したのか、一月余りのちの十月三十日、七十歳でなくなった。

 弥太夫が死んだ時、彼の文庫の中から、汚れてカチカチになった古い木綿ぎれが出て来た。なぜこんなものを大切に蔵って置いたのかと、ひとびとは不審がったが、彼が十一歳の時から死の直前までつけていた日記で、それが判明した。
 それは弥太夫の師匠の名人長門太夫が床で痰を拭う時の布であった。ある時、長門は床で語りながら、意気ごんだ拍子にこの布をポンと下へ投げた。それを白湯汲みの場所で控えていた弟子の弥太夫が拾って、ひそかに懐へしのばせて持ち帰り、自分もお師匠はんのような太夫になれますようにと、毎日その痰拭きの布に祈っていたというのである。その布がカチカチになっているのは、痰のためであった。
 弥太夫が長門の門にはいったのは十一歳の時であったが、弥太夫の父親は弥太夫の覚えが悪いといっては、銭湯へ連れて行って、弥太夫を逆さまにして湯槽の中へ突っ込んだ。浴客が見兼ねて、助け舟を出してやったということである。
 こうして弥太夫は子供の頃からはげしい修行で鍛えられて来たが、うまれつき悪声小声だったので、泣きと笑いにはことに苦心した。毎朝、未明から、天王寺河堀(こぼれ)口の師匠長門のところへ通うのに、いつも道々泣きの稽古をした。泣きの稽古をしながら、高津のある大工の家の前を通ると、家の中では、「それ泣き男が通った。かかよ、朝飯にしよか」と、言っていた。時太鼓の代りにされていたのである。
 また、笑いの稽古では、丼鉢を二つに割って、それを薄い布でまいて腹へ当てて、稽古した。布が破れると、腹に庇がつく。それで、布が破れぬように笑いの調節を図ったのである。

 明治四十年、栄三は三十六歳になった。
 正月興行の「和田合戦」三段目の板額を遣っていた紋十郎が病気になった。
 普通代役は、左遣いが勤めるものだが、その時紋十郎の左を遣っていた亀三郎は、左遣いが専門であった。いわば左を遣わせると名人だが、胴は遣えない。そこで多為蔵の与市の左を遣っていた栄三に代役が廻って来た。
 代役ほどうれしいものはない。ところが、この時ばかりは栄三は躊躇した。というのは紋十郎は大兵だったので、板額も特別大きな人形をつくらせて遣っていた。それを人一倍小柄な栄三が遣るのは無理である。
 栄三は一応断った。が、是非に遣えという。そこで致し方なく板額を遣うことになった。かねがね紋十郎の板額は見て置いたから助かったが、さすがにその大人形で長丁場を通すのは苦しくて、途中で何度人形を捨ててしまおうと思ったかわからぬくらいであった。けれど、この辛抱ができぬようで、人形遣いが出来るかと、持ち前の辛抱づよさで堪え堪え、九日間代役を勧めたところ、朝日新聞の劇評は「大物の代りとしては案外の出来であった」と激賞した。勘定場の者も賞めた。
 栄三の技量はこの時内外に認められたのである。三十一歳で「雨晒し」になった時、既に栄三の凡手でないことは認められていたが、しかし、栄三の芸の前途がはっきりと約束されたのは、それから五年の精進を経たこの時であった。
 栄三はこの劇評を読んで、うれしかった。けれど、油断はならない。人形の道は所詮一生が修行である。果して、それから二日のち、即ち三月興行の「忠臣蔵」の九段目で、多為蔵の左を遣った時、多為蔵から、「手負いやさかい、強い中にも弱いところがないといかん。本蔵と又助とはまた達うねやぜ」
 と随分叱られた。
 この九段目を語ったのは勿論紋下の摂津大掾だったが、(九段目は至難な語り物で紋下以外には語れぬといわれているくらいである)彼はこれまで九段目の本蔵が不得手だといわれていた。いわば彼の語り口に合わないのである。それをこの時は、申し分ないほど見事に語った。彼はそのことを、
「わいはこれで九段目を九度語る勘定になるが、七十の歳になって、やっと本蔵のコツが判った」
 と、言った。
 栄三はこの言葉を聴いて、芸の道日暮れて遠きをますます悟った。

 この年の八月、京都の南座に人形芝居が掛った。仕打は松竹であった。ちょうど文楽座は夏休みだったので、栄三は紋十郎、門造、助太郎、玉五郎、玉次郎などと一緒に出向いた。太夫は、南部、叶、源太夫、なお堀江座からも住太夫に竜助が加入するという寄合世帯であった。狂言は「二十四孝」「壷坂」「吉田屋」でこの「吉田屋」の伊左衛門は紋十郎が十八番で遣ったが、相手役の夕霧は紋十郎の名指しで栄三に廻って来た。初役だったので、栄三は随分苦心したが、初日の舞台を打ち揚げると、紋十郎の部屋から、ちょっと来いと言う。
 そこで、肩衣をつけたまま、伺うと、
「栄コ、お前、伊左衛門という役は夕霧に遣わして貰う役やぜ」
 紋十郎は裸のまま冷やしそうめんをすすりながら、言う。
「へえ」
「へえやないぜ。お前があんな遣い方したら、わいは遣われへんがな」
 案の定、小言だった。紋十郎の弟子は黙々として師匠の背中を団扇で煽っている。その風が栄三のところまで来るわけもない。たださえ暑い京都の夏の夜の楽屋である。栄三は肩衣をつけたまま汗ずくになっていた。
 ところが、その翌日もまた呼びつけられて、「吉田屋」の講釈である。三日目も同じであった。
 栄三は毎日苦しい想いをした。が、そのおかげで、伊左衛門の型だけはすっかり紋十郎から学び取った。
 その紋十郎は文楽の盆替り興行から、人形頭取になった。それで番附が変り、栄三は中軸になった。もっとも中軸には助太郎と玉次郎も坐り、いわゆる三人中軸になった。それをしおに、間もなく栄三は妻帯した。かなといい、京都の千家下職の浄益の一等職人の娘を娶ったのである。南座出勤の折に、その話が出たのであろう。栄三は三十六歳だったから、どちらかといえば晩婚の方である。
 その頃、文楽座の仕打の植村家は財政に破綻を来たしていた。三世文楽翁の実子大助が骨董癖があって、陽春堂と称し、書画骨董の売買を行い、支那方面にまで手を伸ばしているうちに、次第に損を重ねて、明治二十三年の三月に、父文楽翁のあとを追うて早世した時には、もう植村家は苦境に陥ったのである。大助の死後その子泰蔵が五代文楽座主となったが、この人は病弱で素行も修らず、到底経営の器でなかった。そこで、大助の未亡人ハルが後見して、一座を監督し、傍ら渡辺幸次郎を財政顧問として苦境と闘って来たが、座運振わず、殆ど経営不可能になってしまった。
 このまま放置すれば、植村家の没落ひいては文楽座そのものの崩壊は到底避けがたい。そこで植村家の顧問渡辺は、植村家を救い、文楽座を救う手段としては、文楽座をしかるべき興行主に譲渡するほかはないと見た。そして、その興行主として、渡辺は先年京都南座で人形浄瑠璃芝居の興行を行った松竹会社を選んだ。話は進められた。紋下の摂津大掾も、自分の代に文楽座が亡んでしまっては申訳ないと、白井松竹社長に泣きついた。
 そうして、文楽座は明治四十二年の三月興行を最後に、松竹に譲渡された。松竹が植村家に渡した金は二万円であった。
 初代文楽軒以後人形浄瑠璃界に覇をとなえ、敵国の彦六座を競り陥し、明楽座を買収した文楽座も四代目の座主の骨董癖が災いして、僅か二万円の金で到頭松竹の傘下に投じてしまったのである。もっとも、文楽座の座名は受け継がれた。また、小屋のほか二棟の土蔵の人形、衣裳をはじめ、絵看板、台本をはじめ、太夫三十八人、三味線五十一人、人形遣い二十四人の引き継ぎもその勘定の中にはいっていた。
 引き継ぎの第一回興行は、直ちに四月八日の初日で行われた。この時「先代萩」の土橋(どばし)で、栄三は三婦(さぶ)と金五郎と累の三役を早替りをした。これは松竹の奥役の清水福太郎の注文であった。早替りは栄三には初めてだったから、どうかと危まれたが、白井社長の眼に止まるほどの上出来だった。彦六座時代に、辰五郎や玉松の早替りの介錯をして、そのコツを見覚えて置いたのが役に立ったのである。
 この早替りの成績が良かったので、清水は次々に栄三に良い役をつけた。ところが、それがたいてい皆栄三にとっては初役のものだった。栄三は先輩の舞台を想いだしながら、苦心に苦心を重ねたので随分痩せる想いがした。
 ことに六月興行の「夏祭」の泥場の団七九郎兵衛ではすっかり頬の肉がこけ落ちてしまった。九郎兵衛の人形は丸胴の大物で、ただ持っているだけでも相当苦しい。それを栄三は小柄だから、高い舞台下駄を履いて遣わねばならない。おまけに、相手の義平次が芸風が派手で舞台の激しい紋十郎である。紋十郎は大兵ゆえ低い下駄で、しかも軽い義平次の人形を遣うのだから、「駕返せ」のセリ合いなど、ぐいぐい九郎兵衛に迫って来る。栄三は左を遣っていた玉次郎と共にジリジリと油汗をかき、その油汗が身体の肉をもぎとって行くように思われた。ある日、鏡を見ると眼が落ちこみ、げっそり頬がこけていた。
 この興行で、栄三は「鈴ケ森」のお駒も遣っていたが、「泥仕合」の出を待っている時、紋十郎は、
「栄三、お前こんどの二役が満足に遣えたら、もう座頭やぜ」
 と、言った。栄三の落ちこんだ眼は、さすがに嬉しさに輝いた。
 また、この年の盆替りに、「二十四孝」の山本勘助と、それから紋十郎の代役の八重垣姫の早替りを一回多くして遣った時、摂津大掾は、
「あんた勘助遣て、八重垣の代りしたら、丁度大宝寺町やがな」
 と言った。
 大宝寺町とは玉造のことである。(玉造は晩年大宝寺町に住んでいたから、そう呼ばれた)玉造の遣っていた役を、いま栄三が遣っている、それを言ったのだが、ただ役が同じだからそう言ったのではなかった。
 この時も栄三は天にも上る心持がした。そしてその年が暮れて、明治四十三年の正月には、栄三は「書出し」に昇進した。奥役の清水福太郎が推輓したのである。座頭は勿論紋十郎であった。
 この紋十郎はその年の四月、阿古屋の琴責で、とくに注文して三貫目の人形をつくらせて遣った。これは、ちょうど十年前の明治三十三年の十月に、北堀江の明楽座で東京下りの西川伊三郎が先祖伝来の六尺有余の阿古屋の大人形を遣った向うを張ったのだが、なんといっても、紋十郎は六十四歳と言ってはいたが、本当は七十歳の老齢である。おまけに、一年まえからたびたび栄三に代役をやらせるくらい、身体が弱っていた。果して、この阿古屋の大人形は紋十即の身体に障ったのか、その興行が済むと、到頭ねこんでしまい、間もなく譫語(たわごと)を言いつづけた。そして八月十五日の早朝息を引き取った。
 死ぬ前の日の夕暮れ、紋十郎はもう殆ど虫の息の中から蚊細い掛け声を掛けながら、「二十四孝」の八重垣姫を遣う手振りを、臥たままでしていたと、聴いて、栄三はその八重垣姫の代役をしたのはちょうど一年前だったことなどを想いだして、泣いた。
 紋十郎はれいの玉造と「敵討亀山道中噺」で張り合って負けた桐竹門十郎の子である。門十郎の細君のお久はこの紋十郎を産んでから、離縁になって玉造に嫁ぎ、玉助を産んだので、紋十郎は玉助のいわば種違いの兄弟であった。
 玉助は天才として若くから名人芸を発揮したが、紋十郎は若い頃はぼんくらと言われていた。幼い時から切り紙で人形を作り、障子へ影人形をうつして修行し、父門十郎の血もうけていたから、無能の筈はないと思われたのに、師匠の吉田辰造や義弟の玉助が呆れるほどの拙さで、到底モノにならぬと言われていた。父の死後、亀松と名乗って文楽に入り、「先代萩」の御殿で師匠の辰造の政岡の足を遣うたが、クドキの「武士の種に生れたが果報か因果か、いじらしや」の「いじらしや」の間がどうしても踏めず、毎日舞台下駄で蹴りつけられていた。また同じ「先代萩」の床下の鉄之助を遣うたが、これもぶちこわしの無能ぶりを見せたので、鉄之助の役を取りあげられ、給金は半分に下り仲間に嗤われ、頭取からはモノにならぬと眼の前で言われた。
 そこで、紋十郎は発奮して十六文の銭を懐中して江戸に下り、女形遣いの名人西川伊三郎の門にはいり、女形遣い専門に修行を積んだ。
 ところが、何年修行しても、足ばかりで胴を遣わせてくれない。そこで師匠に、一度胴を遣わせてくれと頼むと、ちょうど浅草の芝居で「忠臣蔵」の九段目が出ていた時だったが、師匠は、それでは下女のおりんを遣えと言った。
 おりんは一人遣いのツメ人形である。しかもこのおりんの仕種は、加古川本蔵の妻の戸無瀬が娘小浪を連れて、大石の山科閑居を訪れるその「頼みましょう頼みましょうと言う声に、襷はずして飛んで出る、昔の奏者今のりん、どうれという-」だけの簡単なものである。
 いくらなんでも、こんな端役をと、紋十郎は憤慨もし、がっかりもしたが、しかし、折角貰った役である。精一杯に勤めようと、さまざま工夫した。そして、本来がツメ人形であるのを、左と足を頼んで三人遣いとし、「昔の奏者今のりん」で、下女のりんは髪を結いかけて立つという趣向にし、髪を鬢付(びんつ)けで立てて赤い襷をかけて飛んで出て、仔細ありげな二人の顔を見てびっくりしたという思い入れを見せ、それから襷をはずして、髪をまきあげ簪で止め、油を前垂で拭いた手を帯にはさんで、それから「どうれ」と両手をついたのである。この新工夫に師匠は驚いた。見物も喜び、その後この型は歌舞伎にも使われるようになった。
 そのうちに、母親のお久からさすがに腹を痛めた子が可愛く、大阪へ帰れと言って来た。そこで、紋十郎は師匠の西川伊三郎のもとを辞し、大阪へ戻って、再び文楽座へはいったのは明治九年の三月である。そして、その四月の「一の谷」で相撲を遣ったが、昔のぼんくらとは見違えるほどの出来栄えで、評判をとった。
 以後師匠譲りの女形専門でメキメキ上達し、玉造と共に文楽座の双壁となった。どちらかといえば、大向う受けを担った派手な芸風で、ケレンが多いとか、花があって実がないとかいわれていたが、宙乗りや早替りで人気をとった立役の玉造と対抗して行くために自然にそうなったのだろうか。死ぬ前の年の十一月には、「忠臣蔵」を見事に遣いこなして、女形専門でありながらさすがに立役を遣っても巧いものだという評判を取って、死に花を咲かせたのが、せめてもの慰めであったろうと、栄三はその死を悲しむかたわらひそかに呟いた。
 そして、紋十郎が死んでしまった今、自分は誰に学んでよいのかと、寂しい気がした。名手の吉田多為蔵もその頃文楽を去っていた。

 翌年の五月、市の側堀江座が瓦解した。しかし、その翌年の明治四十五年一月には、大阪の紳商の手によって、南区佐野屋橋南詰(現在文楽座の所在地)に近松に因んだ近松座が創設されたので、一座はそれに拠って、再び文楽相手の苦闘をつづけることになった。文楽座を去っていた大隅太夫が、この近松座へ帰参したので、一座は漸く活気づいた。

 一方、文楽座では、紋十郎のなきあと目ぼしい人形遣いがいなくなった。そこで一時文楽座を去っていた吉田多為蔵を帰参させた。
 ところが、翌大正二年の四月に、天性の美音で文楽座の人気を七分通り一身に背負っていた紋下の摂津大掾がいよいよ引退することになった。
 そして、その引退興行の語り物が「楠昔噺」の三段目であると発表されると、客はもとより幕内の者もあっと驚いた。皆はこんな大物の長丁場を大掾が七十八歳で語ろうとは夢にも思っていなかった。得意の「先代萩」の御殿か、「十種香」が出るだろうと思っていたのである。ところが「楠」である。大事な引退興行の途中で休んでしまうようなことが無ければ良いがと、幕内のものは心配した。そして四月一日の初日をあけてみて、ひとびとはもう一度驚いた。七十八歳とは思えぬ若々しい美音で、美事に語り通したのである。高調子のところを外すようなことも無論なかった。声も枯れなかった。おまけにこの興行は近来にない大入りつづきで翌月の二十一日まで五十一日間打ち通したが、その間大掾は一度も休まず、声の疲れも見せなかった。
「大掾はんはこれ語りはるために、前から声が残したったんやろか」
 楽屋ではそう囁いた。
 なにしろ、明治十六年四月以来、三十年以上もずっと文楽座の紋下に座っていた人である。千秋楽の日は、見物も泣き、楽屋も泣いた。大掾も床を降りて、楽屋で幕内の者の挨拶を受けながら、声をあげて泣いた。ところが、皆そうして泣いているところへ染太夫がやはり眼をしぼたきながらはいって来て、「わても今日限りで引退させて貰いまっさ。永い間いろいろお世話はんでした」
 と、いきなり言ったので、ひとびとは呆然とした。染太夫はなんの前ぶれもなく、引退興行もなしに引退してしまったのである。法善寺の津太夫は既になく、染太夫は大掾の次位の人であったが、次々と名人に去られて行くので、ひとびとはどうなることかと、空虚な想いで、次の六月興行をあけたが、さすがに火の消えたような寂しさで、芝居は倒れんばかりの不入りであった。
 そして、七月を迎えると、大隅太夫が六十歳で台湾で客死したという報らせが来て、もうひとびとは口も利けぬくらいしょげてしまった。ことにこの大隅客死の報にがっくりしたのは、近松座の一同であった。
 大隅は相三味線、というより、師匠の団平に随分苛められて修行した。蚊に喰われながら夜を徹して稽古したことは、前に述べたが、それなどまだ生易しい方である。
 ある時、団平と共に出かけた姫路の旅興行の舞台で、「合邦」を語った。ところが、「オイヤイオイヤイ……」のくだりが巧く語れないというので、団平はいつまで経っても次を弾かず、「オイヤイ」の手を繰りかえした。自然、大隅も同じ個所を繰りかえして語らねばならず、三味線につれて無我夢中に語っているうちに、いつか大隅の顔は真蒼になって、遂に見台へ顔を伏せて、半分気絶状態になってしまった。しかし、団平は相変らず同じところを弾いている。見物が騒ぎだした。楽屋も騒いだ。その声に、はっとわれにかえった大隅は、やっとあとをつづけた。団平は表情一つかえず、次を弾いていた。
 こんな生命がけの修行をして来たのである。だから、大隅はいつか「凝り固り」といわれるほどの芸馬鹿に仕込まれてしまった。その代り、師匠の団平と同じく、芸のほかには何もなく、おまけに性来の奔放不覇な性質が手伝って、随分思慮に欠けた無定見なこともした。
 たとえば、大隅は団平に死なれたあと、堀江座を捨ててひとりで文楽へ走った。贔屓の杉山茂丸は東京でこのことを聴き、棟梁の大隅に去られた堀江座の残留組に同情し、随分大隅を責めた。が、出来てしまったことは仕方がない。せめて文楽へはいったからには、紋下の摂津大掾のあとを継ぐように勉強せよと激励して、一応大隅を許した。そして、杉山翁はなんとかして大隅に文楽座で一花咲かせてやりたいと、大掾にも頼んでいたところ、大隅は一年足らずのちに、フイと文楽座を去って、堀江座の春子太夫や伊達太夫(土佐太夫)と一緒に北海道へ巡業に行ってしまった。
 さすがに杉山翁は怒った。もう大隅など相手にしないと、到頭絶緑されて、大隅が訪ねて行っても会わなかった。
 その後、大隅らの一座が東京の明治座で興行した。大隅は杉山翁のところへ上京の挨拶に行ったが、玄関払いをくらった。杉山翁はむろん明治座へ行こうともしなかった。
 ところが、ある日の新聞に大隅の語り物が「布引四段目」である旨、広告されていた。大隅の十八番である。杉山翁は聴きたくてたまらぬ。たまりかねて、雨の中をひそかに明治座へ出掛けた。自動車を久松署の前に持たして置いて、外套を頭からかぶって、悟られぬように木戸をはいった。平場を見ると、客は六七十人の入りで、さびれていた。杉山翁は坐っていると見つかるので、外套を被ったまま寝転んで聴いた。
 そして、だんだん聴くうちに、すっかり大隅の芸に魅了されてしまった。大隅の出番が済むと、杉山は小屋を出た。そして、待たしてあった自動車に乗ろうとすると、雨の中を舞台衣のままの大隅が駈けて来て、「旦那!」というなり、杉山翁のあとからその自動車に飛び乗って、扉をしめてしまった。杉山翁はにがい顔をして見せたが、もう大隅の芸に打たれて陶然としていたところだったので、眼だけ微笑していた。
 そして、車が杉山邸へつくと、早速稽古がはじまったが、車の中でさんざん叱られていた大隅がこんどは、
「誰がそんな阿呆なこと教せました」
 と、杉山翁を叱りつけたという。
 その日から、大隅は杉山宅へ出入りがかなったが、その後近松座へ出勤して、昔の堀江座への義理をつくしたかと思う間もなく、またもやそこを飛び出して、台湾へ走ったので、杉山翁はかんかんになっていた。
 ところが、間もなく台湾で客死したとの報らせがはいったのである。
 大隅の客死によって、もうこの一枚看板の出座の望みを絶たれた近松座は、気の毒なくらい落胆したが、つづいて翌大正三年の二月には、大隅なきあとの人気太夫であった伊達太夫が、文楽入りをしたので、もはや近松座の運命も殆ど決まったようなものであった。
 果して、その年の十月には、残留組の春子長子等の苦闘も空しく、遂に休座の止むなきに到り、もと簑助といっていた女形遣いの吉田文五郎が明けて正月には文楽へはいって来た。
 つづいて二月には、吉田玉蔵が久し振りに文楽座へ再勤し、四月には近松座の頭取格であった吉田兵吉が出座し、人形一座はにわかに賑ったが、その兵吉も七月五日にはもうなくなり、そして翌五年の六月には多為蔵は病気引退し、十月二十一日にはもうこの世にいなかった。翌六年の一月には吉田駒十郎が退座する。再び人形一座はさびしくなった。十月九日には摂津大掾が死んだ。この月、もと近松座の六世弥太夫が出座したが、もうこの頃から人形浄瑠璃の前途に暗い影がさしかけて、芸道の衰えて行く音が、客の入りがわるくてがらんとした文楽座のさびしい平場に不気味にきこえるような気が誰の心にもした。

 五十一日間打ち通し、その間に大入袋が三十六回も出たという摂津大掾引退興行などもう昔の夢であった。文楽座はさびれる一方だった。おまけに、相つづく名人の死である。大正十年には三世団平が、大正十一年には野沢清六と三世南部太夫が死んだ。紋下の越路も病気欠勤である。一座は毎月、毎月、毎年、毎年暗い気持で興行をつづけて来たが、やがて一座の者が思いがけぬ喜びに身体のしびれる時が来た。
 それは、大正十二年五月二十三日畏くも、秩父宮殿下が文楽座へ御来臨遊ばされて「千本桜の道行」を御台覧になったという光栄に浴したことである。その前年には仏国答礼使ジョッフル元帥の一行が観覧した。
 しかし、その翌年の大正十三年は、再び文楽座に不幸が訪れた年であった。
 三月十八日、紋下の越路太夫が死ぬ。その通夜があけると、三味線紋下の名庭弦阿弥(六世広助)が死んだという報らせだ。二日のうちに太夫、三味線の二人の紋下を失って、一座は呆然とした。
 太夫の紋下には四世津太夫が五月に坐った。そして三味線紋下には野沢吉兵衛(吉弥)が坐る筈であったところ、突然六月の四日に死んだ。が、不幸はそれで済まなかった。野沢吉兵衛の葬儀場へ、弥太夫が死んだという報らせが来たのである。六月六日のことである。
 この相つづく不幸は、ただごとではないと、ひとびとは不吉な想いに濡れて蒼くなった。そして、こんどは誰の順番かと、口には出さなかったが、ひとびとは寒々とした心の底をひそかに覗いて、ひたすら神に祈った。
 おかげで、翌十四年にはさしたる不幸はなかったが、十五年にはまた目に見えぬ糸にあやつられた悪魔が、一座の頭上に現われた。四月に五世竹沢権右衛門が死に、九月に人形の三代玉蔵が死んだことなど、まだ生易しかった。
 栄三はその日を忘れることは出来ない、十一月二十九日のことである。この月は新作の「法然上人」が出て、栄三は上人と、それから紙屋治兵衛を勤めた。そして、二十八日で千秋楽になったので、一座は二十九日は広島へ巡業に旅立つことになっていた。その日の朝十一時、栄三が鰻谷の自宅でおそい朝飯を食べていると、向いの寺の人が来て、
「柳本はん、えらいこっちゃ、御霊の文楽が火事や言うてまっさ」
 と、言った。
 まさかと思ったが、しかし否定する自信はなく、どきんとして、電話を掛けに走った。
 しかし、なかなか通じない。
「何番へお掛けですか」
 交換手が問うたので、
「文楽座へ掛けてまんねん」
 と言うと、
「文楽はいま火事ですよ」
 あわてて、御霊へ駈けつけた。しかし、その時には、もう七分通りまで火が廻り、手がつけられなかった。
「ああ、えらいことになってしもた」
 という想いに足をすくわれて、栄三は暫く動くことも出来なかった。
 昼前に火は消えた。が、小屋は九分九厘まで灰になってしまっていた。その頃には、急をきいて駈けつけた一座の者が 「頭(かしら)はどないしたやろ。頭はどないしたやろ」
 と、囁いていた。頭というのは、人形の首のことである。
 するうちに、誰かが、
「衣裳は助かった。葛籠のまんま持ち出したらしい」
 と、言った。
「衣裳なんかどないでもええ。頭は……」
 持ち出せずに、焼いてしまったとわかると、ひとびとはがっかりしてうなだれた。
 人形遣いは焼跡の一隅にひとかたまりになって、おいおい泣きだした。泣きながら、栄三がひょいと見ると、あっちには太夫がひとかたまり、こっちには三味線弾きがひとかたまり、同じように泣いていた。
 その日は旅興行へ出発するので、頭と衣裳は鉄道便で送るために、それぞれ別の葛龍に収めてあった。ところが、火事だと知った小屋の者が、衣裳は金が掛っているというのであわてて衣裳の葛籠をさきに持ちだした。おかげで衣裳は助かったが、頭の葛籠は焼けてしまったのである。
 その時、小屋に居た者は文楽にとって、頭がどんなに大事なものかを知らなかったのである。その葛寵の中にある頭のいくつかが、もはや得ようと思っても得られない、作ろうと思っても作れない国宝級の名品であることを知らなかったのである。
「笹屋(ささや)」が焼けた。これは笹屋喜助という人形細工人がつくった女形の名作で、数ある人形のうちでももっとも珍重されていたものである。顔の左の方が右より少しちいさくつくられているが、それでいて舞台へ出すと、若い娘の可憐な美しさが香気のように匂う名作であった。
「源太(げんた)」の良いのも焼けた。これは初代玉造や二代玉造などが遣って来た二枚目の頭であった。その他、「鬼一」も焼け、「斧右衛門」も焼け、「東馬」も焼け、「陀羅助(だらすけ)」も焼け、「検非違使」も焼け、「孔明」も焼け、また、ツメ人形の良いのも焼けてしまった。
 ただ、「文七」「団七」「景清」「金時」「鬼若」など巡業に使わぬので葛龍に入れなかったものは、誰かが投げだしたおかげで助かった。それが、せめてもの倖せであった。
 焼けた頭はいずれも名人がつくり、名人が遣い、永年の芸道の手垢に磨かれて魂のはいった惜しいものばかりだった。ほかに太夫の床本も焼けた。舞台下駄も焼けた。
 焼跡にうなだれてしょんぼり突っ立っていたひとびとは、いつまでもそこを動かなかった。ある者は灰を掴んで、「笹屋」の可憐な美しさがこんなになってしまったのか、「源太」の水もしたたるようないじらしい男ぶりがこんなになってしまったのかとわが子やわが妻を火葬場に送る人のように、取りかえしのつかぬ想いに寒々として、冬の夜の風が白く渡りかけても、なお立ち去ろうとしなかった。
 さきには多くの名人を失い今また頭を失い、住みなれた小屋を失ったひとびとは、もうこのままで人形浄瑠璃もなくなってしまうのかと、ホロホロ泣いた。
 しかし、仕打の松竹は倖い多くの小屋を持っていた。そこで、道頓堀の弁天座で引越興行を行うことになった。
 初日は、翌昭和二年の一月二日であった。焼け出されたというので同情が寄ったのか、それとも御霊にくらべて足場が良かったのか、客の入りは御霊の時よりもはるかに良かった。
 二月興行も良かった。一座の者はほっとしたが、この興行中に古老の文三が死んだ。
 さきに死んだ玉蔵と、文三の二人はどちらが座頭とも書出しとも区別できぬいわば二人座頭の地位にあった。ところが、その二人は一年経たぬうちに死んでしまったのである。不幸は絶えていなかったのである。
 文三が死んだので、三月興行から番附の改正をすることになった。そこで、栄三と文五郎とそれから玉次郎の三人で、協議した。まず第一に誰が座頭になるかという問題である。人気は女形遣いだけに、文五郎が一番であった。おまけに栄三より三つ年長である。しかし、文五郎はあっさりと、
「わては別書出しで結構だす。玉次郎はんとの間を、ほんのすこしあけといて貰ろたら、そいでよろしおます」
 と、言った。玉次郎は書出しである。書出しとの間が余計あいている方が、位が高いのである。文五郎はしかし「ほんのすこしあけといて貰ろたら」と言ったのである。
 そこで、残る栄三が座頭に坐ることになった。古老という点ではほかに玉七と冠四がいたが、これは中軸に坐った。また、もと駒十郎の四代辰五郎は病気で永らく休んでいたので、一時番附面から去ることになった。辰五郎は大正九年文楽に迎えられた名手で、栄三も判らぬところがあると、時々教えを請うていたくらいゆえ、栄三は礼をつくして辰五郎の病床を訪れ、了解を求めると、辰五郎は、
「結構だす。わても病気が癒ったらまたどこぞへ坐らせて貰います。しかし、もう出られませんやろな」
 と、言った。果して、辰五郎はその年の六月には死んだ。
 栄三が座頭になったことについては、誰も苦情を言うものはなかった。文楽座での年功、技量からいっても、それが順序であると、新聞も書いた。人形の座頭は先代紋十郎以来、番附面では空位のままであった。それを栄三はついだのである。しかし、この時、栄三は五十六歳であった。沢の席へはじめて出動してから四十四年が経っていた。

 さすがに栄三はうれしかった。沢の席の初舞台で、お前みたいなちんぴらはあかんと危く暇を出されかけた時のことを思うと、まるで夢のような気がした。けれど、座頭となった以上一座の責任を負わねばならない、おまけに弁天座の引越し興行は、栄三が座頭となった三月からがた落ちに不入りになった。立役遣いの者が死んでいなくなったので、座頭の栄三は初役の由良之助や熊谷など、小柄の彼には無理な役も遣ってしかもそれが彼の当り芸になるほど健闘したが、小屋はさびれる一方で、三分の入りもない日すら稀らしくないようになった。栄三は座頭として、ひと一倍文楽の前途に想いを致さねばならなかった。座頭になった喜びよりも、その心配の方が大きかったのである。
 そうして、昭和二年が暮れ、三年が暮れ、四年には、もう一座が弁天座へ出たのは、三月と五月の二回だけであった。四月に天満の八千代座へとって置きの「忠臣蔵」を持って行ったが、これも大変な不入りで、一座は人形浄瑠璃の故郷である大阪を離れて、殆ど年中旅から旅へ巡業を続けねばならなかった。
 旅は悲しかった。故郷を追われた者のさびしさがひしひしと来た。おまけに、巡業では、ことに東京での場合は、演し物が三日目か五日目毎に変るので、初日にもう次の演し物の用意や稽古をしなければならなかった。太夫、三味線、人形の三業がぴったり呼吸を合わさねばならぬ人形浄瑠璃では、早替りのようにめまぐるしく演し物を変えられては、もう息をつく暇もなく、舞台での気苦労も大変だった。ことに人形遣いはただ舞台へ出るだけではなく頭(かしら)の手入れや支度、衣裳、小道具の用意まで自分の手でしなければならない。
 それでも、ひとびとは愚痴ひとつ言わず、黙々として、働いた。そして、たまに大入りになると、文楽もまだすっかり見捨てられていないと、子供のように喜んだ。同時に、故郷の大阪ではなぜ文楽は容れられぬのかと、ふとさびしい想いがするのだった。

十一

 佐野屋橋畔のもとの近松座を改築して、新しい四ツ橋文楽座が落成したのは、昭和四年も押しつまった師走の二十六日であった。
 二年の間、わが家を失って転々としていた一座の者は、二十六日に開場式と聴いた時には、巡業先の東京で転げまわってよろこんだ。彼等は旅から旅へ巡業を続けている間、このまま定住の家がなくなるのではないかと何度思ったかも知れなかった。けれど、文楽を愛する者はその間しきりに松竹へ定打小屋の建築をすすめてくれていたのである。そして、松竹も放っては置かなかったわけであった。
 開場式には五回にわけて客を招待した。それ故「三番叟」を五回遣わねばならなかった。その話が栄三のところへ持ち込まれると、栄三は、
「そらあきまへん。三番叟は飛んだりはねたりとうない身体がえろおますさかい、一日に五へんも遣たらへたばってしまいま」
 と、言った。
「ま、そう言わんと、折角の開場式やさかい」
 と、しきりに頼む。そこで、
「ほんなら、文五郎はんにきいてみます」
 と、相手役の文五郎を呼ぶと、文五郎も、
「そらあきまへん」
 と、言う。
 しかし、当日、二人はやはり五回遣った。新しい住み家が出来たという喜びが、そんな無理を敢てさせたのである。栄三は五十八歳、文五郎は六十一歳であった。

 開場式が済んで、柿落し興行の初日があいたのは、あけて昭和五年の元旦であった。
 小屋見物の物見高さもあったろうか、この二年の間あれほど文楽に冷淡であった大阪の見物が連日詰めかけて補助椅子の出ぬ日はなく、この興行は到頭三十四日間打ちつづけ、摂津大掾引退興行以来の大入りであった。一座の者は二重の喜びに相好くずして、むしろそわそわしてしまった。二月、三月も大入り、そしてこの状態は七月までつづき、一座の者は正月から七月まで楽屋へ足を踏み入れない日はなかった。そして、十二月まで、到頭一月も休まず打ち通して、文楽の前途にもほのぼのと光明が見えたかと、一座の者は一年前の暗い気持がまるで嘘のようであった。
 しかし、こんな状態はいつまでも続かなかった。
 この一年間の華々しい興行中、古老の吉田冠四が七十五歳でなくなった。栄三とは彦六座以来の古いなじみで、栄三よりは十六歳も年長だったが、番附も中軸にとどまって、座頭にも書出しにもなれず、六十歳まで足を遣っていたという不遇な人であったが、その冠四のそれにも似た運命がやがて文楽座を襲うて来たのである。

 翌昭和六年の九月に満州事変が勃発し、間もなく文楽座も柄にもなく新作の「肉弾三勇士」をだしたり、「空閑少佐血桜日記」をだしたりして、たまに入りのある時もないではなかったが、昭和八年の一月の第六十四回帝国議会に「文楽座保護に関する建議案」が提出されるほど、文楽座の前途はやがて暗胆たるものになっていた。
 この建議案は可決され、文楽座は国庫から三千円の補助を仰ぐことになったので、栄三は津太夫、土佐太夫、文五郎の三人と共に上京して衆議院に礼を述べに行ったが、そのように政府が文楽座の真価を認めて補助してくれることはさすがにうれしかったものの、政府の補助を受けねばならぬほど一般が文楽座に背中を向けていることを思えば、やはり寂しかった。文楽はこのままでは亡びる、今のうちになんとかしなくてはと座の者はもちろん識者も頭を痛めたが、見物は映画や歌舞伎やそれから当時台頭していた漫才へ浅墓に走っていた。市内の女学生や中学生が団体で見学したり、外国の名士が国宝芸術だと聴かされて文楽座を訪れて人形の美に陶酔したりするたびに、一座の者は自分たちの芸道に今更のように誇りを持ったが、けれどそれらはすこしも文楽座の不況を救うに至らなかった。
 けれど、一座の者はよしんば客が来ず、自分たちが食うや飲まずの暮しをしてでも、この不況に堪えて行こうと覚悟していた。修行時代の困苦を想えば、なんでもないと思った。いや、文楽の世界では一生が修行なのである。修行と物欲とが両立しないことを、ひとびとは理屈でなしに知っていた。身を以て体験して来たのである。太夫や三味線弾きの中には素人相手の稽古で口を糊する者もいたが、人形遣いはそれも出来ず、ただ人形を遣うことを一筋の楽しみにじっと不況を堪えた。人形を稽古しようなどという素人の物好きはなく、またしようと思っても出来ないのである。
 けれど、そんなことはどうでも良かった。栄三が頭を痛めたのは、人形遣いの弟子になろうとする者もいないことであった。自分や文五郎が生きている間はまだ良い。しかし、二人が死んでしまったら、どうなるのかと思えば、弟子の問題は一日もゆるがせにすることも出来なかった。しかも、人形遣いにとっては、弟子はただ後継者としてのみ要るのではない。舞台で足を遣わせ、左を遣わすものとして要るのである。弟子はいわば人形遣いの手足なのだ。その弟子になろうとする者がいないのである。修行の厳しさにもかかわらず、給金だけでは暮しの立ちそうにない、しかもいつ亡びるかもわからない文楽の人形遣いになどなろうとする少年はいないのである。よしんばなろうと思っても、親が承知しないのである。
 けれど、栄三にまったく弟子が無かったわけではない。大正二年の六月に北ノ新地の子の栄之助というのが入門して、最初の弟子となった。が、間もなく修行のはげしさに堪えかねて、逃げだした。次に大正八年の秋、栄枝という弟子が入門したが、これも半年も辛抱できずに廃業した、九年の六月には、栄三を手引してくれた栄寿の息子の光之助が入門した。光之助はさすがに人形遣いの子だけあって倖いつづいた。十四年の六月には、また一人弟子が出来たので、二世栄之助の名前をつけた。しかし、この少年もよしてしまった。昭和二年の五月には門造の紹介で、栄三郎が入門した。これはつづいた。昭和五年の八月には十六歳の少年が見つかった。三世吉田栄之助と名づけた。このほかもと玉五郎の弟子で、玉五郎歿後栄三のところへ弟子入りした扇太郎がいて、都合四人の弟子だった。
 ところが昭和十一年の一月に栄之助がなくなった。
 栄三はこの栄之助については、随分細かい心づかいをしてやっていた。栄三はこの少年を弟子にする時、徴兵検査の時まで栄三の家に預かるという条件をつけた。そして栄之助を内弟子にして、寝起きから食事衣服万端、小遣いまで自費で賄ってやり、給金は母親に渡す五円を除いて全部芸名で貯金させた。どうせ一人前になっても人形遣いの給金は知れたものである、それに芸人はややもすると締りのない生活に流れ勝ちだから、下手すると、家も持てないことになる、そんなことでは、預けた親にも申訳ないし、本人のためにもいけないと考えた栄三は、そうやって貯金させて滞った金で、一人前になった時に家を持ち、女房に小商いをさせ、まず生活に困らぬようにして本人には人形一筋に励むことが出来るようにしてやろうと思ったのである。そして五年の間にその貯金が千三百円余りになり、本人もひそかに喜んでいたが、ちょうど約束の徴兵検査の正月、もう直き親の許へ返すのだという時になってちょっとした風邪がもとでポクリと死んでしまったのである。
 芸の筋はよく、漸く足遣いも出来るようになっていたし、また栄三にはそんな風にしてやったのはその弟子がはじめてだったし、死なれて見ると、がっかりしてしまった。ところがそれから一月経たぬうちに、栄三の左を遣っていた扇太郎が死んでしまった。歳は四十二歳で、油の乗って来た矢先きであった。器用で松竹の井上専務の目にもついており、近く名前替えをすることになっていた前途有望の人形遣いであった。
 折角丹誠してつくりあげた有望な弟子を、一年の間に二人まで死なせてしまって、栄三は手足をもぎとられたような気がした。ことに栄之助の死は、これからの弟子はこうして預らねばならないという無い智慧を絞って考えた切羽詰った試みが、もう一息というところで挫折したのも同然だったから、もう再び弟子を取る気もしないくらい、栄三を悲しませた。
 栄三はもう光之助、栄三郎の二人の弟子に頼るほかはなかった。彼は会う人毎に、
「わてが死んだあとは、あんさん光之助と栄三郎の二人を、味善(あんじょ)う頼みます」
 と、言った。
 人形遣いというものの生命が、もしかしたら自分や文五郎の代に亡びてしまうのではないかという心細い想いが、その言葉のうらにひそんでいるかのようであった。
 よしんば、自分たちの代に亡んでしまわず、紋十郎やそれから光之助や栄三郎の代までつづくとしても、そのあとをどうするか。それを想えば、いまのうちに弟子を養成して置かなくては遅いのである。もう弟子をとるのはこりごりだという栄之助を死なせたにがい経験も忘れて、栄三はまた弟子になる少年を探すのだったが、そしてまた文五郎もその点は同じだったが、もう昔と今とでは時勢がちがっていた。
 栄三は文楽座の不況に頭をなやますよりもこの後継者としての弟子の問題に頭を痛める時の方が多かった。しかし、どれだけ前途の不安はあっても、いやそれだけに栄三の芸はますます冴えて、いわば落日の最後の明りのように輝いて、ひとはもう名人と言った。

 その五月頃から栄三はまた歯が痛みだして、どうやら骨膜炎が再発したらしく、舞台を休むことが多かった。
 そして、骨膜炎がやっと癒ったと思ったら、翌十二年の四月には風邪がこじれて寝こんでしまった。
 五月になっても全快しなかった。が、その五月は、津太夫と紋下を争ったほどの、ある点では津太夫以上といわれていた名人級の土佐太夫の引退興行があった。
 また一人名人を失うのかと思えば、そぞろに寂しくて、それだけにまた何か責任感に責め立てられるようで、栄三は病気の身体を舞台へ運んだ。
 六月は、その引退興行を東京の明治座へ持って行ったので、栄三も病気上りだったが、一座と共に上京した。そして五日目毎に演し物の変る苦しい舞台を、飯を食う暇もないくらい忙しく勧めて、帰阪した。
 そして七月の四ツ橋文楽の興行は、折柄勃発した日支事変の影響もあって、おそろしいくらいの不入りであった。そこで十八日からは一座は京都の南座へ出勤した。弟子の栄之助はその翌日応召した。
 南座の興行は五日で打ちあげた。が、一座は大阪へ帰れなかった。文楽座は八月からニュース館になってしまったのだ。一座はさびしく北陸の旅へ出た。
 そして十月には大阪へ帰ったが、文楽座へ出ることは出来ず、一座は北陽演舞場を借りて興行した。不入りだった。
 つづいて、京都の弥栄会館や新町演舞場へ出たりした。正月興行も北陽演舞場で文楽座へは帰れず、一座は勘当されてわが家を追い出された子供のようなさびしさにうなだれて、
「文楽ももうしまいやな」
「いや、亡びる亡びるいわれてから、もう四十年も経ってる。今まで亡びんと来たのは、どこぞええところがあんねやろう。今にお客もそのええとこに気がついて、振り向いてくれはるわいな」
「そやろか」
 などと囁き合っていた。
 一座の者は再び四ツ橋の小屋へ戻れないものと、ひそかに諦めていた。暗い気持が毎月つづいた。
 ところが、一方四ツ橋文楽座ではニュース映画上映の興行の成績も芳しくなかった。そこで松竹では再び人形浄瑠璃を出演させることにした。昭和十三年の五月であった。十ヵ月振りに帰れたのだと、一座の者はうれし泣きにないた。

 そうして、十三年が暮れ、十四年が暮れ十五年が来て、その年もやがて暮れようとする師走の十三日、竹本錣太夫がポックリ死んだ。
 つづいて、十六年の三月の末、文楽に残された唯一の端場語りの名手である駒太夫が死んだ。
 一座の者はふっと通り魔が走ったような寒気にぞっとした。大正十三年、越路、名庭弦阿弥の二人を二日のうちに失ってしまった時のあの不気味さを想って、あわてて首を振った。
 駒太夫は四月興行には「新国村」を語ることになっていた。初日にはあと二日しかない。駒の急死に驚いた奥役はあわててその代役を新進の伊達太夫に振った。
 伊達太夫は聖天坂に住んでいる師匠の土佐太夫のところへ駈けつけ、稽古を頼んだ。
 土佐はもう引退していたが、弟子の頼みである。早速稽古をはじめた。
 「-落人のためかや今は冬枯れて、すすき尾花はなけれども」と、かつて堀江座に居た頃文楽座の紋下美声摂津大掾をもしのいだといわれたほどの美声で語られて行くのを、伊達は一生懸命に聴いていた。すると、突然土佐の手からばたりと撥が落ちた。あっと驚いて伊達が見ると、もう土佐は稽古机の上に俯伏していた。そして間もなく絶命した。

十二

 私がこれまで見た文楽座の興行の中で、一番記憶に残っているのは、この昭和十六年の四月興行であった。
 なぜ記憶に残っているかというと、これほど文楽の余命について考えさせられた興行はないからである。さきには錣太夫を失いそしていまこの興行に出る筈の駒太夫を失った。盲いた顔を上向きにして、身体を二つに折って、ぼそんと見台の前に坐りながら楽々とした美声でいかにも芸に遊んでいるかのように淀みなく語っていた、あの盲老人をもう見ることは出来ないのかと思うと、さすがにさびしかったが、しかも、その代役で「新国村」を語る伊達太夫の真剣な表情のかげには、恩師土佐太夫を失ったひとの悲しみが見えているのだ。私はたまらなかった。
 そればかりではない。この時の狂言に、津、古靭、南部、それから津太夫の息子で最近中支戦線より帰還したばかりの津の子太夫改め五世浜太夫の掛け合いで「妹背山」三段目が出る筈だったが、津太夫は病んで休み、大隅が代って語っているのだ。この狂言は津の子太夫の襲名披露狂言である。父親の津太夫にしてみれば、是が非でも出演して花を飾ってやりたいところである。それを休んでいるのである。私は病気の津太夫の胸中を思うと、絢爛たる「妹背山」三段目の舞台に陶酔することも出来なかった。
 津太夫が死んだのは、土佐の死におくれること約一月の五月七日であった。文楽のことが気になりますと言いつづけて死んだのである。
 気になるのであれば、死んではならなかったのである。土佐太夫の死はもう引退後であったから、直接文楽座にはこたえなかった。が、津太夫は古い文楽の最後の人であり、紋下であった。かけがえのない人を文楽はなくしてしまったのである。残るのはもう古靭一人である。しかも、何という悪因縁であろうか、津太夫の死と日を同じゅうし、殆ど時刻も同じゅうして、古靭は長男をなくしたのである。
 いかなる悪魔に文楽は魅入られたのであろうか。私はそう呟きながら、五月の中頃、四ツ橋へ足を運んだ。津太夫の死がこうまで響くのかと思うくらい、文楽の舞台はさびしかった。けれど、たったひとつ古靭の「尼崎」だけは、津なきあとの床を一身に背負って立たねばならぬという責任感のためだろうか、それとも肉親の死の悲しみが彼の芸をにわかに円熟させたのだろうか、いつにもまして生彩のある語り口で語った。
 そして、その語り口の渋さに合わせて、口をぐっとへの字に曲げながら、黙々として淡々として操る栄三の光秀からは、異様な迫力が舞台一杯に溢れているのだった。私はこれを見ながら、この七十歳の栄三と、そして古靭と文五郎の三人が生きていて、四ツ橋に小屋がある限り、まず文楽は亡びないだろうと思った。無論その時の私は、四年後に文楽座が焼けて、人形も衣裳も失われてしまうなどとは、夢にも想像しなかったのである。

「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田栄三
吉田栄三[初世]よしだえいざ 1872-1945
大正−昭和前期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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