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文楽の人

織田作之助

吉田栄三

 栄三が大阪東区濃堂町に生れたのは、明治五年の四月二十九日であった。どうしたわけか戸長役場には明治三年生れとなっていたので、栄三は十九の歳に徴兵検査を受けた。
 栄三の生れた明治五年は、たまたまその一日に松島千代崎橋東詰に、文楽座の新築が落成して、柿落し興行があった年である。文楽の人形浄瑠璃芝居が名実共に文楽座と唱えたのは、この時がはじめてである。それまでは文楽軒の芝居といっていた。
 淡路の興行師正井文楽軒が大阪へ出て来て、現在の高津七番丁、高津の入堀川に架った高津橋の南詰を西へ入った浜側に、文楽軒の浄瑠璃稽古所の看板を掲げたのは、いつの頃か詳かでない。明和といい天明といい寛政ともいい、諸説区々(まちまち)である。が、ともかく、その頃は竹本義太夫、近松門左衛門以来の竹本座も、竹本座から分離した豊竹座もその威地に陥ち、道頓堀の檜舞台を追われて、その残党や末流が水草のように転々としてその日暮しの興行をつづけているという情けないありさまで、この時に淡路から出て来た文楽軒がひそかに期するところがあったことは、いうまでもなかろう。果して寛政の某年には御霊神社境内に文楽軒の芝居が名乗りをあげた。そして文化八年一月には、文楽軒の子浄楽翁が父の志を継いで、博労町稲荷神社南門内の東に文楽軒の芝居をつくった。これは天保十三年までつづき、十四年二月には社寺内の芝居興行禁止令のために北堀江市之側芝居に移り、安政元年一月からは更に清水町浜に移った。天保の禁令がとけて旧地の稲荷境内へ復帰したのは、安政三年の九月であったが、もうその頃は三世文楽翁の時代であった。
 文楽翁は一世の傑物である。正井家の門前に捨てられていたのを先代の浄楽翁に拾われたのだともいわれているが、明治の文楽の隆盛をつくったのはこの人である。はじめ養家の正井姓を称えたが、のち植村に姓を改めた。
 幕末の動乱期、維新の変革期に遭遇して、大阪の興行物は一時大いに衰微したが、文楽翁はよく堪えて、仕打ちとしての才腕を振い、長門、団平、春、越路、玉造等の名人を傘下に集めたばかりでなく、文才にも富み、新作、改作の筆を取った。時勢を視るの明もあり、明治初年大阪府が新開地松島町の発展を策して、道頓堀の歌舞伎芝居や稲荷社内の文楽芝居の松島移転を命じた時、彼は「松島へ移るのは島流しみたいなもんや」といやがった一座の者を説き伏せて、直ちに松島千代崎橋東詰に小屋の新築をはじめた。
 そして、明治五年正月にはその柿落し興行がおこなわれたのであるが、この時の狂言は「大功記」の通しと「三番叟」で、太夫は、春、越、古靭(先代)、越路、染、三味線は団平、新左衛門、吉兵衛、人形は玉造、辰造、喜十郎、玉之助、玉治という豪華な顔触れで、島流し興行といやがったにもかかわらず、五十三日問打ち続けの大当りを取った。この時、春太夫は引退した湊太夫に代って紋下となったが、同時に人形の初代玉造は人形浄瑠璃史上最初の人形の紋下として、櫓下に名を列ねた。
 そして、この引越し興行でかつての稲荷社内東芝居ははじめて松島文楽座として名乗りをあげたのである。もっとも、その前年の九日に、稲荷の芝居の番附に「文楽座」の名が見えているが、しかし、名実共に文楽座としての名乗りをあげたのは、この明治五年一月からである。
 栄三はこの年に生れたのである。いわば、文楽座と共に生れたのである。
 栄次郎と名づけられたのは、父の栄助の一字を取ったのであろう。母は柳本あいといい、下大和橋の寿し屋の娘であった。父の栄助は橋本姓であったが、入聟して柳本の姓を継いだのである。
 栄三は子供の頃、がしんたれと言われた。がしんたれというのは、大阪の方言で、意気地なしのことである。おとなしい性質で、近所の子供と喧嘩をしたり、叩いたり叩かれたり、するようなことは一度もなかった。悪口を言われても、じっとこらえて、鉛のように黙々として手出しなどしなかったから、喧嘩にならなかったのである。それ故に、がしんたれと言われたのであろうが、けれども本当は辛抱づよい子供であったのである。
 この辛抱づよさは記憶して置く必要がある。なぜかといえば、栄三が六十年の間傍眼(わきめ)もふらずに人形一筋の孤独な道をとぼとぼ歩んで来られたのも、ひとつにはこの辛抱づよい性質があった故である。明治の芸道の荒行の中でも、人形の修行は常識を超えた乱暴なものであった。たとえば、派手な人気はなかったが、初代玉造、玉助、先代紋十郎につぐ名手として仲間うちではその技量を怖れられていた吉田多為蔵は、次のような手記を残している。
「私が人形つかいになるようになったのは、九歳の時に人に勧められて堀江市の側の堀江座に出て居た吉田金四という人に弟子入りしたのが始めです。其の時分の修行は仲々厳しかったもので、殊に私の師匠と来たら其の上にも厳しく、入門の最初は、先ず師匠の履物を揃えるとか、外出の供をするとか、帰れば家の内外の掃除から台所の用まで足し、それが済めば雑巾をさす、指固めだといって師匠は元より妻女や娘達の肩を揉ませられる、それも揉んで呉れというのでなく、揉まして貰えといったような調子です。そしてやれ供をするのに余り間が近過ぎるの遠廻るの、やれ提灯の持様が悪いのと、叱られ通しです。芝居では人形の屍骸とか煙草盆とかを手摺の蔭に両手を伸して支えて居るのが役で(その頃は今の様に台を使わなかったのです)それが少しでも動いたりすると直ぐ叱られます。それから少し経つと今度は木偶の足を天井に吊して体の使い方を稽古するので、師匠の家は新町の越後町に在りまして、その格子内で一生懸命に習うのですが、足の使い方が悪いとか、体が据らないとかいっては、煙管で打ち叩かれる。そこへ之も名人でしたが二代目辰造という人がよく遊びに来て、師匠と一緒になって、矢張り煙管を斜めに構えて叱ったり叩いたりします。外には近所の芸妓や娘達が寄ってたかって覗いて居るので、随分恰好の悪い思いをしたものです。時には余り折檻が烈しいので、芸妓が見兼ねて、中へ這入って謝ってくれたこともありました。漸く足も動くようになると、芝居へ出て一人遣いの人形を持たせられます。こんなことで満三ヵ年稽古を積みましたが、其の間一銭の給金とてはありません。三年目に始めて一朱貰いました。今の六銭二厘です。……夜家へ帰って寝る間といったらホンの三時間位しかありません。ですから外を歩いても眠いので、電信柱にぶつかったり、郵便箱に凭れて眠ったり、芝居へ往っても奈落へ落ちたりすることは始終です。そんな修行をして来ても、今日私のような棒鱈です」
 棒鱈という大阪弁は、東京でいうデクの棒のことであろう。そんな辛い烈しい修行をして来ても今日なお棒鱈であると、多為蔵は謙遜しているが、一流たると二流たるを問わず、よしや一生足遣いという下積みで終る人でも、人形遣いという人形遣いはひとり残らず、多為蔵と同様の、いやそれ以上の難行苦行と闘って来たのである。誰もが一度はその辛さにたまりかねて逃げ出そうとした。げんに逃げだした人もいる。そして辛抱づよい人だけがよくその辛さに堪えたのである。そして、栄三もまたその持前の辛抱づよさで、それに堪えて来た人である。

 栄三が人形の道に憧れたのは、父親がおもちゃ人形の職人であった関係もあったろうが、それよりも、母方の叔母が、豊竹湊玉(みなぎょく)という当時大阪でかなり顔の女義太夫であったので、はやくから義太夫に親しんでいたからである。
 栄三が七つの時、彼は当時流行の一枚刷りを見た。初代豊竹古靭太夫が御霊神社裏門土田の席で、大道具方の梶徳という男にチョンナ(大道具の一つ)で背後から斬り殺されている絵刷りであった。
 古靭が殺された原因はこうである。
 その前年、明治十年の九月、全国にコレラが流行した。ことに大阪では猖獗を極めて一切の興行が停止された。そこで古靭は一門一党を率いて南紀へ巡業した。留守中の表方の者はたちまち衣食に窮した。そのうちに、コレラ病の脅威もやみ、興行停止の禁も解かれて、市内の各座は一斉に開場した。が、御霊表門の土田の席だけが、肝腎の古靭が南紀巡業中なので小屋を開けることが出来ない。小屋の借金も嵩む。表方の者や関係者はますます衣食に窮し、債鬼に責めたてられる。たまりかねて、出方頭(でがたがしら)が南紀へ古靭を迎えに行った。そして出方頭は一足先に帰って、開場の準備を万端整えた。演し物も古靭の十八番の「先代萩」を選び、役割も決めて、古靭の帰りを待った。ところが、直ぐに帰って来る等の古靭が、南紀の興行主に足止めされたのか、大阪は海嘯だとの噂に二の足を踏んだのか、十日待っても、二十日過ぎても帰って来ない。この分では年内の開場もむつかしかろ、暮れの算段をどうしてくれるのかと、裏方の者は喧しく騒ぎだして、出方頭に詰め寄った。何をしに紀州くんだりまで行ったのかと、暴言を吐く者もある。借金には責められる、座の者には喧しくいわれる、おまけに折角南紀まで迎えに行ってこのざまである。出方頭はたまりかねて、御霊表門席の木戸前で自らくびれて死んだ。血の気の多い梶徳は、出方頭を殺したのは、古靭だと、逸り立った。古靭は幼年の頃盲目の父親の手をひいて按摩に出掛けていた。梶徳は同じ貧乏長屋の子供として育ち、その頃からの古靭の幼友達であった。それだけに一層古靭を許しがたいと思った。梶徳はかねがね侠客肌が自慢で、道具方仲間でも親分然としていたのである。古靭が帰阪して、やっと開場したのは翌年の二月であった。千秋楽の夜、詰り場を済ませて楽屋風呂にはいった古靭が、やがて風呂を出て、二階への梯子段を上りかけると、薄暗がりから飛びだした男が、背後から斬りつけた。虫の息の古靭のロから、一言「梶徳……」という言葉が洩れた。二日のち御霊神社の床下から、梶徳の死骸が現われた。自殺していたのである。
 市中はこの評判に明け暮れた。道頓堀の弁天座では早速これを狂言に仕組んだ。ひとびとは寄るとさわると、「梶徳」と言っていた。一枚刷りが飛ぶように売れた。栄三の見たのはその一枚刷りである。
 おとなしい栄三は、あくどい色に彩られたその「古靭太夫殺し」の絵を見て、ぶるぶる顫(ふる)えた。梶徳という名前が囁かれているのを耳にすると、ぞっと寒気がして、子供心にそんな惨事の行われる人形芝居の世界が空怖ろしいものに思われた。しかし、この気持も、彼の人形への憧れを減ずるようなことはなかった。
 八つ、九つになると、彼はもう父親のつくるおもちゃ人形などで満足できなかった。彼は叔母の湊玉が出ている席の楽屋へこっそり出入りして、たまに人形が加入した時など楽屋にぶら下っているツメ人形にさわってみたり、時には両手を突っ込んでみたりした。見つかって、叱られたこともあった。
 父親の栄助は栄三がどうやら人形遣いになりたがっているらしいことに気がつくと、栄三を叱りつけた。
「阿呆んだらめや。人形遣いちゅうもんは、あら阿呆のするもんや。阿呆でなけりや、あんな辛い修行はでけん、あの世界だけは、世の中を諦めてしまわな、居れんとこや。栄コ、お前飯も食わんでええいうのんか。あの世界は飯も食べられん地獄やぜ。人形遣いみたいなもんに成りたがる阿呆がどこにある。それより、お父つぁんの真似して、おもちゃの人形でも作っとり」
 父親はそう言い言いしていたが、間もなく栄三の叔母の湊玉が吉田栄寿という人形遣いと結婚すると、もう彼は人形遣いの悪口も言わなくなった。彼は栄寿が自分と同じ栄という名を持っていることに、へんに親しみを感じていた。
 そして、栄三が十二歳の時、この新しい叔父の橋渡しで人形修行の道にはいった折も、父親はつよい反対はしなかった。

 栄三は最初からいきなり文楽へはいったわけではない。
 その頃松島文楽座のほかに、随分多くの浄瑠璃の寄席があった。多くは素語りであったが、稀に人形一座も加わっていた。そのひとつに、明治十六年六月に、日本橋北詰の安井稲荷のすぐ隣りに開場した沢の席があった。松島の文楽座に対して小文楽と呼ばれ、人形浄瑠璃の席の中では重きを成していた。この沢の席へ十二歳の栄三は入座したのである。
 栄三が入座したのは、丁度この席の柿落し興行の時であった。一座は染(八代田)、春子(後の大隅)、沢(先々代)、朝の太夫、三味線は後に松葉屋さんと呼ばれた五代広助、初代新左衛門、人形は三代目吉田辰五郎、三代豊松東十郎、小辰造(後の三吾)、駒十郎(後の四代辰五郎)等で、狂言は松島文楽座の柿落し興行の時と同じく「大功記」に御祝儀「三番叟」、それから「布引の四段目」そして切が景事であった。
 この時の番附の最下位に、吉田光栄(みつえ)の名が見える。これが栄三で、この名は叔父の栄寿が師匠の光造に入門した時の名で、栄三はその名を継いだ訳であった。
 しかし、栄三は正式に入門したわけではなかった。栄寿はただ栄三が沢の席へ入座する橋渡しをしただけで、師匠というわけではない。
 栄三は不思議なことに、その後も師匠というものを持たなかった。随分多くの名人や先輩に仕え、その足を遣い、左を遣い、教えも請うたが、一生正式の師匠を持たなかったのである。強いて言えば、それらの名人、先輩のすべてが彼の師匠であった。

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「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田栄三
吉田栄三[初世]よしだえいざ 1872-1945
大正−昭和前期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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