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文楽の人

織田作之助

吉田栄三

 人形浄瑠璃の番附には「幽霊」がある。実際その舞台にない役の名や、人の名が番附に乗っていたりする。
 たとえば、沢の席の柿落し興行の番附にも、当時の栄三の名、光栄の上に宗祇坊や三法師丸の役が振ってあるが、栄三は実際にその役を持たせて貰ったわけではなかった。
 それどころか、誰もこの新米の見習いに足すら遣わせなかった。栄三は下働きとして、小使のようにこきつかわれただけである。きまった師匠というものがなかっただけに、誰からもこきつかわれた。舞台ではただ蓮台(れんだい)のさし入れをしたり、横幕の開け閉めをしたり、舞台下駄を揃えたりするだけだったが、ただこれだけの仕事でも、その忙しさと来たら眼のまわるくらいで、家から持って来た握り飯を頬張るひまもなかった。無論、身体はくたくたに疲れた。おまけに気苦労が大変である。十二歳の子供だからといって、容赦してくれなかったのである。
 入座してから十日目のことである。「三番叟」を豊松東十郎が遣っていたが、その舞台下駄を出すのが栄三の役であった。最初は四人上段に構え、それから動きになって東十郎が船底へ降りて来る時、舞台下駄を揃えて出すのだが、うっかりして右と左を間違えて出した。あっと思った時には、もう栄三は船底で気が遠くなっていた。「このどんけつめ!」というなり、大きな舞台下駄で向脛を蹴られていたのである。身体に生庇の絶え間はなかった。
 それでも持前の辛抱づよさでじっと堪えて、その興行を済ませてほっとしたとたんに、頭取から、
「光コ、お前はあかん。お前は鈍臭(どんくさ)いし、それに身体がちっちゃ過ぎる。お前みたいなちんぴらでは間に合わん。やめてしまい」
 と、言われた。それを、叔父の栄寿が「そらあんまりや。たった一興行(しばい)で断ってしまうのもなんやさかい、まあもう一興行使こたっとくなはれ」
 と、とりなしてくれた。
 それで、栄三は引続き沢の席で勤めることになった。次の興行は「一の谷」と「夏祭」であった。染太夫と松葉屋広助はこの時退座して、代りに組太夫がはいって来た。
 この組太夫はもと西京で豆腐屋をしていたのが義太夫へ転向した人で、もと灘の「柳店」という酒屋の旦那をしていた初代柳適太夫と、天満でハラハラ薬を売っていた初代豊竹呂太夫と共に、明治の三大化物といわれた。化物とは素人より玄人になった人をいう。
 因みに、この興行で、「石屋の宝引」を語った琴太夫は、法善寺に「夫婦善哉(めおとぜんざい)」の店をひらいた人である。
 栄三はこの興行中、ここが大事なところだと、身体を粉にして働いた。頭取はその敏捷な働き振りを見て、小柄も一徳だと思ったのか、その興行が済んでも、もうやめてしまいとは言わなかった。
 八月、九月は沢の席は夏休みだった。父親の栄助は話をきいて、
「そんな辛いとこなら、やめてしまい」
 と、言ったが、十月興行がはじまると、栄三はいそいそと沢の席へ出勤した。
 ところが、その興行が終ると、栄三は一緒に働いていた下働きの徳丸と共に、警察へ呼び出された。見習いだった故、鑑礼を受けていたかったのが、いけなかったのである。十二歳の栄三は、薄暗い部屋へ放り込まれて、蒼くなった。が、年少の故を以って、栄三は説諭だけで帰して貰った。徳丸は五十銭の罰金を取られた。徳丸の給金はその当時一興行六銭二厘であった。
 十一月興行が済むと、沢の席はそれを最後に木戸を閉めた。そして一座は翌十七年の一月から博労町稲荷社内北門に出来た彦六座で新しい旗上げをした。栄三もその座へちょこちょこと移って行った。

 彦六座は、長掘中橋南詰に「灘屋」という酒店を出して、俗に灘安さんで通っていた寺井安四郎等がつくっていた「彦六社」という素人浄瑠璃の一派が、沢の席の一座を押し立てて、松島文楽に対抗するために稲荷社内の北門につくった、いわば旦那業の小屋である。
 第一回の旗上げ興行は「菅原」の通しで、沢の席一座のほかに、さきに一寸触れた明治三大化物の一人初代柳適太夫が新加入した。柳適太夫は巴太夫という名で松島文楽座に居ったこともあるんだが、もとは仕打の灘安と同じ酒屋の旦那で、同業のよしみから彦六座へ参加したのである。柳適太夫と改めたのは、この興行からで、もっとも既に次の巴太夫も出来ていたので、口上では「先(せん)巴太夫改め柳適太夫-」と言っていた。当時の口上役は吉田友造といい、後年の吉田冠四である。
 吉田冠四は、昭和五年三月七十五歳で死ぬまで、文楽で一番年長のいわば古老であった。安政二年十二月大阪天神橋筋三丁目に生れて、二十一歳の時に吉田兵吉の門にはいったが、以来六十歳まで足ばかり遣っていた。足遣い四十年である。昭和四年に、文士、画家の有志がつくった文楽の擁護会が、この不遇の人形遣いを慰めるべく、金一封を贈った。五十円の小額であった。が、七十四歳の冠四は、
「わてはこの歳になるまで、こんな大金を人様より頂戴したことは、いっぺんもおまへなんだ」
 と、言った。
 古靭太夫が梶徳に殺された時、冠四も土田の席で働いていて、古靭が死の直前にはいった楽屋風呂には、冠四もはいっていた。冠四はその騒ぎのあった時、まだ風呂の中にいたが、湯から出るのが怖く、中で蛸のようになって顫えていたと、栄三を掴えて話をしたが、しかし、栄三はおちおちその話を聴いているひまもなかった。一座には栄三のほかに子供がいなかったので、舞台の下廻りの用事はもちろん、楽屋の片づけ、走り使いなど、夜明け頃から夜遅くまでテコテコとこき使われていたからである。
 眠る時間といっては殆どなく、一日中うつらうつらしていたが、ことに切狂言近くなって来ると、眠くて仕様がなく、ちょっとした隙をうかがって、ツメ人形を入れてある葛龍(ぼて)の中にかくれてこっそり眠った。そして、「光コ、光コ」と舞台から呼んでいる声にあわてて飛びだし、スカを食って、ひどいこと叱られ、ここでもやはり生庇の絶え間がなかった。

 彦六座の旗上げ興行は、衣裳、道具などすべて新調で、旦那衆の興行らしい豪気なものであったが、散ざんの不入りであった。が、つづく二月興行には松葉屋広助が加入して三味線の紋下に坐って気勢を添えたのと、柳適太夫の「橋供養」衣川庵室が当ったので、大入りをつづけた。三月には盲目の美声語り住太夫が松島文楽座を脱退して、入座して、重太夫と隔日交替で紋下に坐り、ますます大入りをつづけた。
 彦六座の成功はたちまち松島文楽座に影響した。足場の悪い松島まで足を運ぶ客がだんだんに尠(すくな)くなって来たのである。そこで、驚いた文楽座では、御霊表門の土田席を改築して、その年の九月松島から移って来た。が、同じ月に彦六座も改築してその新築記念興行を打って、御霊文楽に対抗した。しかも、文楽で越路太夫(のちの摂津大掾)を弾いていた通称「清水町」の豊沢団平が、この時から彦六座へ加入して、三味線紋下に坐った。
 この時の狂言に「四天王寺伽藍鑑(がらんかがみ)」の通しが出た。その義光館の段切で、本田義光が阿弥陀池から出た仏を背負って、信濃の善光寺へ行くという「負(お)い人形」の趣向がある。人形遣いが頭から義光の人形を被り、人形遣い自身の脚に脚絆をつけ草履をはいて、出孫(でまご)(新客土間)と、平場(ひらば)(平土間)の間の通路を無言で引っ込むという趣向だが、人形との釣合い上、どうしても背の低い人形遣いでなくてはうつりが悪い。
「光コがええやろ」
 と、いうことになった。光コとは勿論栄三の光栄のことである。栄三は座の中では一番のちんぴらであった。
 そこで、栄三ははじめて役を貰ったとよろこんで、義光の人形を頭から被り、脚絆、草履ばきで舞台へ出て、人形の振りのまま段切に引き込むと、客は「人形が歩く、人形が歩く」と言って面白がった。時には引っ込みの通路の附近の栄三は客に足を触られて、
「あ、こらほんまの人間の足や」
 と、言われた。そして鳥屋(とや)口(揚幕)まで来ると、人形遣いが栄三を人形と共に葛籠の中へ放り込んだので、栄三は毎日頭を打っていた。眼から火が出るほど痛かった。
 この時、栄三は十三歳であった。

 その年の十一月から、団平はもと春子太夫といっていた三代大隅太夫を弾くことになった。
 団平は「ほかの太夫はおれが弾いたったが、長門はんだけは、弾かして貰った」というだけあって、義太夫以後の義太夫語りといわれた幕末の名人三代長門太夫には頭が上らなかったが、その他の太夫は皆団平には頭が上らなかった。団平を合三味線とした太夫は一人残らず団平の稽古のはげしさに泣かされたのである。ことに、大隅はのろまといわれていただけに、これを一人前に仕込もうという団平の意気込みは、これまでにない激しさだった。
 その稽古の激しさは、初日の大隅を聴くと、誰にもうなずけた。見違えるほど立派な大隅になっているというより、痛々しいくらい声を痛めていたのである。大隅はすぐ休場して、源太夫が代りを勤めた。
 栄三はこの大隅の休場が、団平の稽古が激しくて声を痛めたためだと判ると、なにか心を打たれて、自分などはまだまだ精進が足らぬと子供心に思った。そして、ますます精をだして修行をはげんだ。
 団平の稽古の激しさは、その後もしばしば栄三の耳にはいった。
 ある夏、大隅は団平から「壬生村」の稽古をして貰った。石川五右衛門の妹お冬が、「守り袋は遺品ぞと」いうところが、のろまの大隅には何度やっても巧く語れない。団平は何百回も繰りかえさせた。夜になった。が、まだ巧く語れない。大隅は半分泣いていた。蚊が出て来るので、団平は蚊帳の中にはいって、横になりながら、大隅の語るのを聴いている。大隅はもちろん蚊帳の外である。そして蚊に喰われながら、気違いのようになって「守り袋は遺品ぞと」の一つ所を繰りかえした。しかし、団平は「よし」と言わない。だんだん夜が更けて来る。蚊はますます出て来る。それでも大隅は繰りかえし語り、語っていた。夏の短か夜がやがて明けようとする頃である。蚊帳の中でもう寝ていた筈の団平が、「よっしゃ、出来た」と言った。団平は一晩中眠らず聴いていたのである。そのため団平は眼をわずらって、半年ばかり眼医者へ通った。
 栄三はこの話を聴いた時、頭の中がジーンとするほど感激した。大隅もえらいが、団平もえらいと思った。のろまの大隅がぐんぐん上達して行くのが、栄三の耳にもよく判った。そして、団平のような名人の三味線を毎日聴きながら働ける自分は、幸福だと思った。自分はまだ子供だが、今のうちにうんと人形のコツを見覚えて置かねばならぬと、下廻りの仕事をしながら、眼をキョロつかせていた。
 人形のコツは、手をとって、ああしろ、こうしろと教えられるものではなく、よしんばそのようにして教えることが出来ても、それでは性根にはいらない。むろん、誰も教えてくれない。結局舞台のコマゴマした仕事をする合間合間に、名人や先輩の遣い方を見て、自ら納得するよりほかに方法がないのである。なお、人形だけではない、浄瑠璃の文句や節、三味線のキマリキマリも耳に入れて置く必要がある。そう思えば、小屋に居る間、一秒の余裕も心にあってはならなかったが、やはり身体がくたくたになって、しびれるような睡魔に襲われる時は、ひそかに引幕にくるまって、居眠ることもあった。
 ある時、「法界坊」の狂言が出たが、その時も栄三は引幕にくるまって、あわただしい眠りを貪りながら、夢をみた。舞台から「綱や、綱や」と言っているように思ったので、あわてて舞台へ飛びだしたが、勿論呼ばれたのではなかった。おかげで、随分ひどく叱られた。十三歳のことである。
 翌年の七月、彦六座は昼夜二部興行をした。それで栄三の身体は一層忙しくなった。が、ちょうどその月に大阪に大洪水があり、二日より十二日まで遠慮休業したので、栄三はほっとした。それほど毎日毎日が辛かったのである。けれども、栄三は人形遣いを諦めようとしなかった。

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「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田栄三
吉田栄三[初世]よしだえいざ 1872-1945
大正−昭和前期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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