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文楽の人

織田作之助

吉田栄三

 洪水のあった年の翌年の五月、大阪に再びコレラが流行した。折柄彦六座では、団平の妻お千賀の作を団平が節付けした「弥陀本願三信記」を初演していた。この浄瑠璃は二十三冊物で、親鸞上人の御伝記、蓮如(れんにょ)上人の御伝記、顕如上人の御伝記を通しで聴かせるという、いわばありがたい浄瑠璃であったから、連日大入りを続けていたが、さすがにコレラには勝てず、二十五日限りで休業した。そして、その休業は十月の末まで続いた。コレラの猖獗は容易に歇まなかったのである。
 名人初代玉造の実子初代玉助が三十三歳の若さでこの年の七月急死したのも、この夏のコレラの為であった。
 玉助は父の玉造と一緒に文楽座で働いていたが、親まさりの技量があるといわれていた。天才肌の人形遣いであった。玉助は、彦六座の人形紋下であった三代吉田辰五郎のことを、
 「うちの親父の芸は怖くないが、辰五郎はんの腕はおそろしい」
 と、言っていたが、その辰五郎が玉助のことを、
 「親父の玉造の腕は評判ほど怖いと思わんが、倅の玉助の芸はおそろしい」
 と、言っていたのを、栄三は耳にしたことがある。
 名人の家に生れて、いわば血筋が良いとはいうものの、しかし、三十そこそこの若さで、当代随一の人形遣いとおそれられた父の玉造をしのぐ腕があるとは、どんなに偉い人であろうと、栄三はその人の舞台を殆ど見て置かなかったことが、後悔された。彦六座の朝夕忙しい想いをしていた栄三には、文楽座へ足を運ぶ機会が殆ど無かったのである。せめてその人の足をいっぺん遣いたかったと、栄三は思った。
 団平は玉助の急死をきくと、
「親に先立つ奴は親不孝や。コレラで死ぬ阿呆があるか。芸人はもっとほかの死に方がある」
 と、はげしい口調で言った。団平らしい言い方だと、ひとびとは思った。団平の親孝行は知らぬ者はなかったのである。
 団平は両親の命日には、早朝より起きて、斎戒沐浴して、仏間にとじ籠って、先祖代代父母の法名と本名を唱えて読経し、そして仏前に備えた生魚を自ら料理して、お余りだといって朝食に食べた。亡母がそうしろと遺言したので、彼はそれを守って五十年一日のように欠かさなかったのである。
 ある時、歌舞伎役者の左団治が、団平の教えを請おうとして、弥太夫に紹介を頼んだ。しかし、団平は会おうとしなかった。団平は歌舞伎役者を軽蔑していたのである。ところが、団平は弥太夫から、左団治が母親の死んだ晩、夜伽の人の隙をうかがって、ひそかに蒲団の中にもぐり込んで、母親の死骸を抱きしめたという話をきくと、
「そんな親孝行の男なら会おう」
 と、言って、会うたという。芸のほかには何ものもない団平だったが、ただ両親、それもとっくになくなっていた両親だけは大事にした。
 それだけに、団平は一人息子の玉助に死なれた玉造のなげきが人一倍わかるのだった。おまけに玉助が残して行った孫は、生れつきの盲目である。
「可哀想に玉造もがっくり精落したことやろ」
 団平はつづいて言った時、もう涙を落していた。が、すぐそれにつづけて、
「しかし、これで玉造の芸も冴えるやろ」
 と、やはり芸のことを言った。
 名人に二代はないというが、玉造の家は、父の吉田徳蔵、玉造、玉助と三代つづいた名門である。玉造にしてみれば、実子の玉助が二代玉造として自分のあとを継いでくれると思えば、何か安心であったろう。ところが、その玉助が死んだ。玉造の芸ももはや一生一代になってしまったのである。親の代からの芸の血が自分一代で尽きてしまうのかと思えば、玉造の芸も末期の眼に冴えかえって行くだろうと、団平は思ったのか。それとも、盲目の孫を残して一人息子に死なれた玉造の孤独な心が、やがて人形の情合いに現われて行くのを、団平は期待したのだろうか。期待といえば、既に玉造は名人として自他共に許し、その芸の円熟は誰の眼にも頂点に達していると思われたのに、団平はやはりそれ以上を期待したのである。団平の眼には、芸の頂点というものはなかったのである。これでよしという極楽を求めて求められぬ地獄が芸の世界であった。
 太夫も三味線も人形も、畳の目を一つずつ数えて行くように、とぼとぼ芸を磨きながら、上達して行くのである。一足飛びの名手というものは現われないのである。修行の労苦に命を刻む歳月だけが、名手をつくるのである。それを、玉助が三十歳やそこらの若さで名手になれたというのも、天分も無論あったろうが、なんといっても一日を一月にし、一月を一年にするほどの休みなききびしい鞭を、父の玉造から受けて来たからであった。
 玉造もまた父の徳蔵からそうされて来たのである。
 玉造は天保十一年、十一歳で道頓堀の竹田の芝居にはじめて出勤した。名をつけてくれと父に頼むと、
「お前みたいな棒鱈に名つけても仕様がない」
 と、徳蔵は突っ放した。が、名前なしでは出勤するわけにいかない。そこで、徳蔵は、
「お前は円顔やさかい、玉造として置け」
 と、簡単に言った。由緒ある人形遣いの名を与えて子供の初出勤に花を飾ってやろうなどという気持は、徳蔵にはなかったのである。
 そういう父を持っていたから、玉造はとくに徳蔵の子だからといって、優遇されるようなことはなかった。勿論、いきなり役がつくようなこともない。足も遣わせて貰えない。楽屋や舞台裏の雑用にこきつかわれるだけである。それでも辛抱して勤めているうちに、一座が四国へ巡業した。そこではじめて年相応の役がついた。「先代萩」の鶴千代の役である。ところが、千松を遣う人形遣いが、玉造みたいな新米の鶴千代相手では千松が遣えないと言って、納まらなかった。それを拝み倒すようにして頼むと、千松の人形遣いが、
「そんならお前の昼飯をわいにくれるか」
 と、言う。座で貰う弁当では腹が一杯にならぬのである。
「よろしおま」
 鶴千代さえ遣わせてくれるならと、玉造はその興行中自分の昼飯を千松の人形遣いに与えて、機嫌をとりながら、鶴千代を遣った。れいの「腹が空ってもひもじゅうない」という「先代萩」御殿の芝居である。玉造は自分の役の千松のひもじさがひしひしと同感できるくらい、毎日空腹で倒れそうになったという。その代り実感は出たのである。
 そんな苦労のおかげで、倖いその役は好評を博して、大阪へ帰り、間もなく博労町稲荷町に出来た文楽座へ父親と一緒に出勤したが、徳蔵は玉造が遣った「関取二代鑑」の秋津島の内の場の伜力造の役が成っていないと言って、怒りだし、到頭十四歳の玉造を勘当同然にしてしまったということである。
 そういう人を玉造は父に持って、そしてはげしい修行できたえて来たのである。子供の玉助にもすくなくとも芸の上では厳格であったことはいうまでもなかろう。

 名人の玉造がはじめて持った役は鶴千代だったが、栄三もまたなんの因縁でか、はじめて貰った役らしい役は鶴千代であった。コレラの流行した年の翌年の一月である。栄三はこの時十六歳であった。
 以後栄三にはぼつぼつ端役が当てがわれたが、しかし、それでもう下積みの足遣いを卒業したかというと、そうではなかった。やはり自分の役の合間合間には、この足を遣え、あの足を遣えと、こきつかわれた。が、これはひとり栄三だけに限ったことではなく、どの人形遣いも修行中は皆させられるのである。吉田冠四などは、さきにも述べたように、六十歳まで主遣いになれず、足ばかり遣っていた。
 俗に足遣い十年といわれている。いうまでもなく人形は、主遣い(あるいはシン遣い、胴遣い)左遣い、足遣いの三人で操るのだが、その三人の呼吸が少しでも狂えば、もう人形は死んでしまう。それ故、足遣いの仕事といっても莫迦にはならず、ことに足遣いは立つ、坐る、歩く、走るなどの動作のほかに、人形の動きと三味線の間にピッタリ合わせて足拍子を踏まねばならない。そして、それらがすべて主遣いの足もとにかがんで、五尺の身体を三尺にも二尺にも縮めて遣うのだから、骨の折れることは大変なものである。しかも、これらの動きは、あらかじめ打ち合わせてやるわけではなく、自分の身体を主遣いの腰にすりよせて、その腰のひねり方を自分の右腕に感じ、その感じと太夫や三味線のイキによって、咄嗟の動きを悟るのであるから、わずかの歳月では覚えられるものではない。それに、いつなんどき誰のどの役の足を遣わされるかわからず、その役をすっかり呑み込んで置かねばならない。足遣い十年といわれるのも、誇張ではないのである。
 栄三は小柄ゆえ身体を縮めて遣うのには、ひと一倍助かったというものの、しかし、やはりこの縁の下の仕事は辛かった。
 たとえば、栄三はその年の冬「苅萱桑門(かるかやどうしん)」の高野山の場で、辰五郎の道心の足を持たされた時の辛さを、いつまでも忘れることが出来なかった。この場では、石童丸との名残りが二十分も掛るのだが、その間人形の動きは殆どなく、道心はじっと突っ立ったままである。で、栄三は高下駄をはいた道心の足をキッチリ揃えて、ピタリと支えていなければならなかったが、余りの苦しさに一寸気を抜くと、辰五郎の舞台下駄で向脛を蹴られて血がにじんだ。
 また栄三はカゲを打たねばならなかった。カゲを打つというのは、人形のきまり、きまりに、かげに居ってチョンチョンと柝(ひょうしぎ)を打つことであるが、ある時「安達ケ原」の三段目の辰五郎の貞任に、カゲを打ったところ、その打ち方が気にくわぬと、やはり舞台下駄で向脛を蹴られて、大怪我をした。それで翌日はスカタンを打たぬようにと、気を配って舞台へ出るともうその日は辰五郎のきまりの個所が変っているので、狼狽しなければならなかった。

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「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田栄三
吉田栄三[初世]よしだえいざ 1872-1945
大正−昭和前期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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