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文楽の人

織田作之助

吉田栄三

 明治二十一年、栄三が十七歳の二月、彦六座が焼失した。
 それで新築の普請が出来上るまで、一座はちりぢりになって旅巡業に出た。栄三も芳太夫、兵吉、玉松、小才、玉六などの小人数に加わって大和方面を廻った。
 まだ汽車は通じていなかったから、天王寺の河堀(こぼれ)口から国分峠の麓まで馬車で行き、そこから草鞋がけで大和にはいり、あちこちと打ってまわった。土佐町を最後に旅興行を切りあげて、高田へ戻った。そしてそこで一日泊って大阪へ立つ積りだったが、所持金も心細かったし、直ぐ国分峠へ急げば天王寺行きの馬車に間に合いそうだったのを倖い、道を急いだ。ところが、途中で人形遣いの一人が、蛙に悪戯をはじめた。火のついた煙草を紐の先に付けて、蛙の側へ持って行くと、餌かと思って喰いついて来る。それを見て、皆んなも真似て釣りだした。手先きの器用な連中ゆえ、面白いほど釣れた。この悪戯に旅の辛さを忘れながら暫く行くと、小川の辺で犬と蛇が喧嘩していた。犬はすぐ逃げだすのだが、子供たちが集ってけしかけるので、また蛇に突っ掛っている。そのありさまを一行は長い間見物した。
 そんなことで、うっかり時間を食ったので、国分峠を大周章てに越えたが、馬車には乗り遅れた。高い人力車などに乗る金は無論なかった。そこで一行は、とぼとぼ大阪まで歩いて行くことになった。日頃舞台で立ちずくめで足の強い人形遣いもさすがに平野あたりまで来ると、もう歩けなかった。這うようにして栄三が生国魂(いくだま)神社の近くにあるわが家へ辿りついたのは、夜の九時頃であった。

 旅から帰って、間もなく六月二十日を初日として、彦六座の新築興行の幕が開いた。が、思ったほど客は来ず、彦六座の衰運も火災と共に傾いて来たようで、一座の者には気味わるくかつ心細かった。おまけに、翌二十二年の春興行中には、紋下の住太夫がなくなり、つづいて翌二十三年の夏には人形紋下の吉田辰五郎がなくなり、同時に三吉、兵吉などの人形遣いも退座し、いよいよ彦六座はさびれて来て、盆替りの興行は五日しか打てず、すぐ狂言を替えて初日を出さねばならぬという情けないありさまだった。
 栄三は翌二十四年の一年興行が済むと、彦六座から暫く暇をとって、神戸の楠社内にあった菊の亭という寄席へ出勤した。菊の亭へはその頃女義太夫が掛り、人形は文楽の玉五郎がシンで、三吉、兵吉、玉米、栄寿などで、栄三がこの寄席へ出勤したのは、彦六座の先輩である三吉、兵吉や、叔父の栄寿などの勧めであった。
 この時栄三はちょうど二十歳であった。
 栄三はこの寄席の二階に寝起きしながら、まる一年くらした。寄席稼ぎは収入りはよいとはいうものの宿をとったり、どこかの二階を借りたりするには、やはり足りなかったのである。そうして、菊の亭で働いている間、栄三の気に掛るのは大阪の彦六座のことであった。ところが、その年の暮れに兵庫の「村芝居」へ大阪の人形一座が掛ったときいたので、出向いて行くと、果して彦六座の引越し興行で、きけば、この一年彦六座の興行は不入りつづきで、到頭旅興行に出て来たとのことであった。
 栄三は二十一歳の正月まで菊の亭で働いたが、二月にそこの人形の一座が京都四条北側の芝居に掛った素人連の浄瑠璃興行に雇われたので、栄三もそれに一座し、ひきつづき三月から四月へかけて千本通の上(かみ)の方や、猪熊の小屋に出たりした。
 そして、大阪へ帰って来ると、彦六座はまだ休業していたので、栄三はその足で再び神戸へ行き、菊の亭で働いた。この時もやはり女太夫で、今の吉田文五郎が巳之助という名で一緒に働いていた。文五郎は明治二年生れというから、当時栄三よりは三つ年長の二十四歳で、死んだ吉田玉助に入門し、はじめ松島文楽から御霊文楽で働いていたのだが、文楽では食えず、やはりそうして寄席稼ぎしていたのである。
 十月まで神戸にいて、栄三は大阪に帰り、十一月興行から彦六座に復帰した。この時栄三は「大江山」の碓井貞光(うすいさだみつ)と「三日太平記」の松井市作の役を貰ったが、この復帰を機会に彼は叔父の栄寿から貰った光栄の名をかえし、本名の栄次郎からとった栄三郎という名に改めたいと思った。歳もちょうど二十一歳、定まった師匠のない身軽さに、今独立して一本立ちで行こうと思ったのである。そして、この旨を仕打に言うと、
「そら、よかろ。しかし、栄三郎の郎はいらんがな。栄三(えいざ)にしときなはれ」
 と、言われたので、そうすることにした。
 こうして、栄三は独立の喜びに勇み立って、二年余りの寄席廻りにきたえた腕を発揮するのはこの時だと、一生懸命遣ったが、まだ歳も若く人気もない栄三ひとりが力んでみても、団平や大隅が旅に出た留守の無人の一座ではどうにもならず、散ざんの不入りだった。
 その頃から仕打の灘安は逼塞(ひっそく)して土蔵の中に住みだし、彦六座の経営もいよいよ苦しくなった。そして、翌年の盆替り興行まで辛うじてもちこたえたものの、その興行が七日しか打てぬという不成績ぶりを見て、到頭彦六座を投げだしてしまった。灘安が頼りにしていたもと同じ酒屋の旦那の柳適太夫も既になくなっていた。
 彦六座が、没落したので、一座の者はちりぢりにたり、ある者は文楽へはいったがたいていは旅を廻ったり、寄席へ出たりなどして、再起の機会を待っていた。栄三は再び神戸の菊の亭へ出た。
 ところが、その年が明けると、その頃博労町三休(さんきゅう)橋の北東角にあった「花散里」という料理屋の旦那が、彦六座の小屋を買収して、稲荷座と名を改めて、興行することになった。旧彦六座の者は喜んで、これに参加した。栄三も勿論である。旅を廻っていた団平、大隅も帰阪して、加わった。おまけに、十九年に文楽座を退いてからずっと休養していた世話物の名人五世弥太夫が出座して紋下に坐り、また人形では東海道辺りを旅廻りしていた豊松清十郎が大隅の紹介で座頭格として新加入するなど、一座の顔触れは堂堂たるものであった。旧彦六座の仕打の灘安も十八(とはち)太夫と名乗って、こんどは芸人として加わった。
 そうして、三月二十六日の初日で開場したが、栄三は「菅原」の梅王、「お染久松」飯椀(めしわん)の久松、「式三番叟」の千歳の三役を貰った。この興行は大変な入りであったが、旅の間に団平からはげしく仕込まれていた大隅がこれまでとは見違えるほどの「寺子屋」を語ったし、それに紋下の弥太夫の「飯椀」がさすがに世話物の名人といわれるだけあって、悪声ではあったが、見事な写実味で客を泣かしたし、団平の指揮のもとに太夫三味線人形の精鋭が熱演した三番叟もあり、客が来たのも当然であった。旧彦六座の者は涙を流してよろこんだ。
 栄三はその年の盆替りの弥太夫の演し物「四谷怪談」伊右衛門内の段で下男小介の役を振られた。いうまでもなく端役である。ところが、弥太夫から急にダメが出て、小介を駒十郎に、直助権平を栄三に振りかえしてしまった。駒十郎は栄三から見ればはるかに先輩である。その先輩へ何故自分の役であった小介が振られたのであろうと、栄三にはわけがわからなかった。理由もいわずに変えられたのだから、良い気持はしなかった。駒十郎にしても同様であろう。いや、駒十郎にしてみれば、そんな端役を振られて、一層良い気はしなかったであろう。
 ところが、初日になってみて、栄三は驚いた。端役だと思っていた小介を、弥太夫は非常に丁寧に語っている。まるで小介が主役のようである。人物の性格を語りわけるのに妙を得ている弥太夫だから不思議はないものの、しかし、たしかに弥太夫は他の人物よりも小介を重要視しているようである。なるほど端役だと思っていた小介にも、こんな生かし方があったのかと、栄三は感心した。そして同時に、弥太夫が小介を自分に遣わせなかった理由が判ったと思った。弥太夫は自分のような未熟者には、大事な小介を遣わせたくなかったのであろうと、判ったのである。
 栄三はこの時豁然として悟った。慢心してはならないと思った。そしてまた、どんな端役もおろそかにしてはならないと思った。
 ところが、間もなく栄三に大役が廻った。もっとも大役といっても、代役であった。二十八年の二月の興行で、団平が節付けした「勧進帳」(鳴響安宅新関(なりひびくあたかのしんせき))の初演があり、弁慶の役の駒十郎が途中で病気したので、その代役が栄三に廻って来たのである。
 人形遣いは皆代役をよろこぶ。代役が廻って来るのを待っているのである。誰か病気して休んでくれないだろうかとさえ思うくらいである。何故なら、代役でなくては、そんな大役は廻って来ないし、そしてまた代役を立派に勤め果すことが技量を認められる機会になるからである。で、栄三も喜んで引き受けたが、人形を持って舞台へ出てみると、人形の重さに驚いた。おまけに栄三は小柄ゆえ、弁慶の人形をぐっと支え上げねばならず、舞台の高い所にいる富樫に向って勧進帳を読む間の辛さは、わずか二日間であったが、よく寝こんでしまわなかったものだと、あとで思ったくらいであった。それを栄三はじっと辛抱した。
 ところが、この「勧進帳」の上演に対して、市川宗家から板権侵害の訴訟をおこした。そこで団平は法廷へ出て、勧進帳は近松巣林子の原作である、市川宗家のみが私すべきものではないと主張して、事なきを得た。
 どうなるかと思っていた一座の者は、団平が訴訟に勝ったと知ると、ほっとし、ますます団平に信服した。そして、この団平と弥太夫、大隅の居る限り、稲荷座は大丈夫だと安心していたところ、間もなく仕打の花里が株で失敗して、興行をつづけることも危まれた。
 そこで、団平、弥太夫、大隅の三人は、ここで稲荷座がつぶれてしまっては大変だと、無給で出演することを仕打に申出て、ともかく興行をつづけて貰うかたわら、善後策を講じ、その結果ひいきの内の有志が集って大阪文芸株式会社を創立し、その手によって稲荷座の経営を行うことになった。明治二十九年十一月のことである。この時組太夫も帰り、弥太夫以下、大隅、越、組の太夫で「忠臣蔵」の通しを出したところ、大入りであったので、一同は虎口を脱した想いにほっとした。

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「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田栄三
吉田栄三[初世]よしだえいざ 1872-1945
大正−昭和前期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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