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文楽の人

織田作之助

吉田栄三

 人形の道にはいってちょうど十五年が経ち、栄三は二十七歳になった。もと彦六座で一緒に働いていた門治から手紙が来た。今は東京の浅草に住んでいて、寄席の人形芝居に出ているというたよりだった。
 栄三は読んで、羨しかった。彼は子供の頃から、東京というところが一度見たくて堪らなかったのである。で、お前も東京へ来ないかという誘いの文句を見ると、もう我慢がし切れなかった。
 そこで、栄三は血気の余り稲荷座を暇取って、ちょうど小正月の一月十五日の朝、梅田の駅から汽車に乗った。途中名古屋で下車して、白山神社近くの知人の家に立ち寄った。一晩泊めて貰い、すこしは無心を言ってみようと思ったのである。父は五円の旅費しかくれなかったのだ。
 ところが、立ち寄ってみると、主人は留守で、一見識もない細君だけしかいなかった。当てが外れたが、それでも晩御飯だけよばれて、その夜の六時の上りで名古屋を発った。
 翌朝、新橋へついてみると、二十銭しか無かった。十銭ですしを食べ、馬車で浅草まで行き、門治の家を尋ねまわった。やっと探し当てたが、母親が出て来て、門治は神田の新声館という寄席へ行って留守だという。
 もう四銭しかなかった。馬車にも乗れず、その足で神田まで歩いた。途中で「サンライス」という煙草を三銭で買って一銭残り、てくてく歩いているうちに、一本の煙草に酔うてしまうくらい、腹が空って来た。
 やっと、新声館に辿りつくと、案の定門治がいた。楽屋へ通されて、話をしているうち、もと彦六座の頭取をしていた栄造がやはり同じ寄席で働いているらしく顔を見せて、
「光コ、よう来たな。-昼飯はまだやろ」と言って、弁当を注文してくれた。
 弁当を食べ終ると、栄三は楊子ひとつ使う間もなくそのまま黒衣を着て舞台へ出た。そして昼の新声館の芝居をくたくたになって済ませるとその身体で夜はまた別の寄席へ出て働いた。着いた早々、少しは身体に楽をさせねばという気持なぞ栄三にはなく、夜の寄席では門治が遣っていた「酒屋」のお園の役をわざわざ譲ってもらうくらいで、人形さえ遣っておれば、旅の疲れなぞ忘れてしまうのであった。
 泊るところもなく、栄造の家に居候することになった。栄造は彦六座の人形頭取をしていた頃から栄三を師匠のない子として可愛がってくれていた。で、昔に甘えて居候することになったのだが、栄造はちょうど十日前に東京の一座のシンの兵吉の世話で花嫁を貰ったところだった。おまけに、栄造は新町の大火で焼けだされて、東京へ流れて来た矢先ゆえ、万事不如意で、夫婦二人の暮しにさえ困る日日を送っていたらしいのが、栄三にもすぐ判った。細君は贅沢な気性の女だった。
 悪いところへ来たと恐縮していると、ある日栄造は、細君に兵吉のところへ手紙を持たせてやった。そして、
「栄コ、お前もついて行ったりイ」
 と、言う。そこで細君と同道して、兵吉の家へ行くと、兵吉はその手紙を読んで、
「栄コ、お前さきに帰っとりイ」
 と、言った。一人で栄造の家へ戻って来たが、いつまで待っても細君は戻って来ず、実は細君が兵吉のところへ持って行ったのは自分の離縁状だったのだ。
 栄造は栄三を家へ置いた代りに、新妻を追いだしてしまったのである。栄三はますます恐縮したが、けれど栄造はその贅沢な気性の細君が気に入らなかったらしかった。
 栄造の家に居候して一月ばかり新声館その他の席で働いていたが、間もなく、大阪の稲荷座の大隅太夫から、栄造の所へ手紙が来た。栄三を大阪へ帰せというのである。栄造はそれを読んで、
「追い帰すわけやないけど、こらやっぱしお前は帰った方がええな。なんちゅうても、人形浄瑠璃は大阪が本場や。お前もこれから頭を擡げんならん男やさかい、やっぱし大阪イ帰って修行した方がええ。帰んなはれ」
 と、言った。
 そこで、栄三は三月の末に新橋を発って、大阪に帰ると、すぐ稲荷座の三月興行に出て、「忠臣蔵」の喜多八を遣った。
 この「忠臣蔵」は通(とお)しで、「大序」は、弥太夫の直(ただ)義、組太夫の判官、大隅の顔世(こよ)、伊勢太夫(のちの土佐太夫)の若狭(わかさ)之助に、三味線は団平という豪華な顔触れであった。「大序」は一曲の第一章で、普通太夫や三味線の最下位の者が勤めるので、この人達のことを大序の人というくらいである。角力でいえば幕下である。それを紋下以下の精鋭が総出演で勤めるというのだから、いわば勿体ないくらいの「大序」であった。
 七十二歳の名人団平はこの時「大序」のほかに、「茶屋場」と「九段目」を弾いた。その歳でよくそんな無理がきくものだと、ひとびとは老いてなお疲れを知らぬ団平の剛力に感心していたが、さすがに「茶屋場」だけは中頃から源吉がかわって弾いた。
 つづいて四月興行には、団平は大隅の「志渡寺(しどじ)」を弾いた。相変らず、その大ノリのタタキは、まるで三味線の音とも思えぬくらい凄く、表の木戸番が道具が倒れたのだと早合点して、勘定場へ飛び込んで来るほどであった。
 そして、二日目のことである。「まさしく金比羅大権現-」の一二三「すりあげ」の合の手の「たたき」の音を、これが人間業かと感心しながら栄三が舞台で聴いていると、もうあと一枚というところの、「-はやせぐりくる断末魔」の合の手のくりかえしの二へん目が、ふっと調子が狂ったので、栄三がはっと思って見ると、団平は床の上でがくり前のめりになっていた。
 すぐ床を廻し、竜助が着物のままで出し替りを勤めた。栄三は人形を遣いながら、団平のことが案じられてならなかった。
 幕になると、栄三はすぐ二階の団平の部屋へ駈けつけようとした。すると誰かが、
「堀江はんの部屋や」
 と、叫んだ。
 団平の部屋は二階だったので、新左街門と友松(のちの道八)が通称「堀江の大師匠」の弥太夫の部屋へかつぎこんだのであった。
 栄三は弥太夫の部屋へ駈けつけた。が、その時は団平を担架にのせて病院へ運んで行ったあとだった。そして、間もなく栄三の耳に、団平が病院へ行く途中三条橋の北詰で息をひき取ったという報らせがはいった。

 その夜、栄三は島ノ内清水町、心斎橋を東へ入ったところにあった団平の家へ通夜に行った。
 末座にひかえていると、集った人達が団平の噂をしている。
「清水町さんは三味線の一番上まで行きはったが、またもとの大序まで戻って死なはった」
 などと言っている。前の月の興行で団平が「忠臣蔵」の大序を弾いたことを言っているのである。
 そのうちに、主だった者が、
「葬式の金も無いそうや。さあ困ったな、どないしょ」
 と、相談をはじめた。遺産はすこしも無いということであった。
 栄三はそれを傍できいて、団平が物欲に恬淡で金銭に無頓着な人であることはかねがね知ってはいたが、あれほどの名人で、しかもその教えを受けた者が千人を下るまいといわれていた団平が葬式金も残さなかったのは、まるで、嘘のように思われ、なるほど清水町はんは芸のほかに何もなかった人や、芸が命になってしもたら、貧乏も忘れてしまうのかと、今更のように感心した。
 そして、団平が稲荷座の経済難を救うために弥太夫や大隅太夫を説いて、無給で出演していたことなどを想いだしていると、誰かが、「清水町はんは、なんでもかでも紙屑箱に放り込む人やったさかい、いっぺん紙屑箱の中探してみたらどないや」
 と、言いだした。
 それで、みんなが団平の稽古机の傍にあった紙屑箱の中のものを出してみると、果して団平が貰った給金や、祝儀や稽古の謝礼が封もきらずに紙包のまま、紙屑と一緒に放りこんであったのが、いくつも出て来た。
「助かった。これで葬式金が出来た」
 と、一人が言うと、誰かがまた、
「それで想いだしたが……」
 と、こんな話をした。
 団平のところへ、二度目の細君のお千賀が来た頃のことである。
 月末になって、借金取りが来ると、団平はその紙屑箱を出して、
「さあ、その中からほしいだけ取って、持って帰りなはれ」
 と、言って、そのまま借金取りの顔も見ず、稽古をつづけていたという。
「なるほど、そ言えば、そやったな。しかし、そら借金取りの話やが、わいの聴いたのは、泥棒にはいられた時の話や」
 と、また一人が話しだしたのは、こうだった。
 団平がまだ独り身の時に、泥棒がはいった。すると、団平は、
「三味線と撥と、舞台で着るもんのほかやったら、なんでも持って往きなはれ」
 と、言って、れいの紙屑箱を出した。泥棒は両手を突っ込んで、さらって持って逃げたが、あとで泥棒が勘定してみると、百十両もあった。それで、泥棒は、気味がわるくなって、どうにも手がつけられず、団平のとこへ戻して来たというのである。
「その泥棒はあとで捕った時、団平という男はえらい男やと言うとったが、たしかに、芸人は清水町はんみたいにならんといかん。大きな声では言えんけど、松葉屋の師匠とえらい違いやな」
 と、その男は言った。
 松葉屋の師匠というのは、当時団平につぐ三味線弾きとして、文楽座に出勤していた五代広助のことである。細君の‘はな’がお茶屋をしていた時の家号が松葉屋だったので、広助はそれを家号としていたのである。
 この松葉屋広助は、放縦な父親のために莫大な借金を背負わされて、随分金には苦しみ、貧乏の辛さが骨身にこたえたので、発奮して蓄財を志し、宴会の折詰の折箱まで金にかえるという芸人にはめずらしい吝嗇(こまか)さがつもりつもって、もう十万円も残したとか言われていた。
「松葉屋の師匠は道端の葱を捨(ひろ)て帰って、食べたちゅうことや」
 そう噂しているところへ、松葉屋広助が顔を見せた。そして、団平の枕元へ坐ると、蝋色になった団平の手を取って、
「ああ惜しい手を死なしたこの手は何万両だしても買われん手や」
 と、言った。
 松葉屋らしいことを言うと、ひとびとは思ったが、その言葉で、ひとびとは今更のように、もうあの三味線が聴かれぬのかと、すすり泣いた。

 間もなく、初代玉造がはいって来た。
「あ、親玉はん、ようこそ」
 と、挨拶したひとびとにはちょっと頭を下げたままで、玉造は団平の枕元へ駈けるように寄って行って、
「団平さん、団平さん」
 と、言いながら、ぼろぼろ涙を落した。
 それを見て、ひとびとは、かつての団平と玉造の喧嘩を想いだした。
 まだ長門太夫が生きていた頃のことである。長門が団平の三味線で「志渡寺」を語ることになって、その総稽古の日のことである。
 お辻の祈りのくだりの、「ものを言わっしゃれぬか」トチチリトチチリ「南無金比羅大権現」トチチリトチチリという、団平の「たたき」が物凄い音を出す正念場へ来た時、団平はどうした気のゆるみだろうか、稽古というので気を許したのであろうか、三味線の棹に粉をかけ、胴をなめた。
 すると、玉造は、
「胴がなめたかったら、楽屋でなめて来なはれ。気がぬけて仕様がない」
 と、舞台から怒鳴った。団平ははっと思ったが、けれどまだ若かった。団平は血相をかえた。が、長門が仲裁したので、喧嘩にならずに済んだ。
 その次の興行で「千本桜」が出た。権太の引っ込みの「是れ忘れては」のくだりの打ち合わせを、団平から言って来た時、玉造は、
「あんたのええように弾いとくなはれ。こっちはどう弾かれても乗って行きまっさかい」
 と、打ち合わせに応じなかった。
 団平はむっとした。そこで、初日にそのくだりへ来ると、団平は力のあらん限り弾きだした。長門はその調子に攻められて、みるみる苦しい汗を絞りだした。が、それよりも権太を遣っている玉造が苦しみだした。団平の調子に乗って行こうとすると、どんなに力があっても足りないくらいであった。が、玉造はどう弾かれても乗って行くと言った手前、その調子を外すわけにはいかなかった。玉造は歯をくいしぼった。その拍子に緊めていた腹帯がぷっつり切れた。あとで、玉造は、
「さすがは団平や。おれやさかい腹帯で済んだが、ほかの者(もん)やったら、腸が捻じれてしもたろ」
 と、言った。
 この喧嘩をひとびとは想いだしたのである。以後、二人は不和になっていたという。けれど、いま玉造が死んだ団平の枕元で、
「団平さん、団平さん」
 と呼びながら、おいおい泣きだしたのを見ていると、二人が不和になっていたなどというのは、ひとびとには嘘のように思われた。よしんば喧嘩はしても、芸のほかには何ものもないこの二人の名人には、つまりはそれは芸の上の喧嘩で、それだけに相手の芸を愛する心は人一倍強かったのであろうと、ひとびとには思われたのである。
 すくなくとも栄三にはそう思われた。
 四月二日の夜は次第に更けて行った。栄三は、
「清水町は自分で阿呆や言うて、葬式銭も残さんと、一生貧乏で通したが、それがほんまに賢こかったんや。おれみたいになまじっか金に眼がくれてる芸人の方が阿呆や」
 と、しみじみと松葉屋広助が言った言葉を聴きながら、こんなありがたい通夜に列ぶことの出来た自分を、倖せに思い思いしていた。

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「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田栄三
吉田栄三[初世]よしだえいざ 1872-1945
大正−昭和前期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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