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文楽の人

織田作之助

吉田栄三

 団平が死んでしまうと、稲荷座はにわかにさびしくなった。客の入りも目立って減って来た。経営主の文芸株式会社の会計ももうその以前から苦しくなっていて、小屋を抵当に入れて、金を借りていたらしかった。
 それでも五月興行は無事に済み、そして六月興行がはじまったある日のことである。
 一座の者は、いきなり、今日限り稲荷座を解散すると言いきかされて、呆然とした。まもなく六月興行も千秋楽で、夏休みである。夏休みの間に小屋の借金の整理をして、盆替りをあける積りであったのに、千秋楽もまたずに解散するという。誰ひとりとして耳を疑わぬ者はなかった。
 しかし、だんだん聴けば、文芸株式会社の社長の岡崎が、稲荷座を独断で文楽座へ売ってしまったということである。文楽座ではかねがね目の上のこぶである稲荷座の崩壊を策し、これまでにもしばしば団平、弥太夫の引き抜き運動をやっていたが、それが効を奏さなかったので、こんどは社長の岡崎に働き掛けて、遂に稲荷座を買収してしまったのである。
 稲荷座が潰れてしまったので、栄三は再び寄席を廻るより道はなかったが、伴い文楽座の頭取の吉田三吾が、寄席を稼ぐよりはいっそ文楽の檜舞台で修行してみてはどうかと言ってくれた。
 そこで、栄三は盆替りから御霊文楽座へ出勤することになった。
 その頃文楽座は、三世文楽翁は既になく、また四代目の座主植村大助も早世して、その実子の泰蔵が五代目を継いでいた。しかし、泰蔵は病弱の上に素行も修らず、実際の監督は大助の未亡人ハルが当っていた。ハルは幕内の信頼があり、「おえはん」と呼ばれていた。
 紋下は越路太夫、ほかに法善寺の津太夫、ハラハラ屋の呂太夫、染太夫、七五三(しめ)太夫、文字太夫、源太夫、むら太夫など、三味線は松葉屋広助が紋下で、五代吉兵衛、勝鳳(しょうほう)、才治、四代勝右衛門、四代勇造など、人形は紋下の玉造のほかに、先代紋十郎、玉治、二代玉助、金之助(後の多為蔵)、玉五郎、助太郎など、頭取は吉田三吾で、稲荷座にくらべてさすがに賑かな顔触れであった。
 ことに、栄三にとっては、人形芝居始まって以来の名人吉田文三郎につぐ名人といわれている玉造や、女形遣いの名人桐竹紋十郎と一座することがうれしく、思わず心がひきしまったが、けれど文楽座は昔から古参者を大切にして、新参者には待遇のわるいというしきたりだったので、稲荷座では若手の花形であった栄三も、碌な役も貰えなかった。
 ところが、「相撲場」の長吉を遣う金之助がトチッたので、その代役が初日から栄三に廻って来た。文楽へはいったその日から代役が廻るとは、なんとありがたいことかと、栄三はよろこんで勤めたが、それが「おえはん」や勘定場の者の眼にとまって、栄コはよう遣れるということになった。
 しかし、それですぐ優遇されるということはなかった。それどころか、その次の年の二月興行で「阿波鳴門」のお鶴の役を当てがわれた。この役割が発表されると、さすがに栄三はよい気はしなかった。稲荷座では重次郎や勝頼を遣っていたのに、今更子役を遣えとはあまりだと思ったのである。
 ところが、初日になって、お弓とお鶴との母子対面の場を済ませて、次の殺しの場の出を待っていると、十兵衛の玉造が、
「栄コ、おれの足遣え。そんな端役のお鶴は誰ぞに遣わせ。お前はおれの足持って、十郎兵衛をよう見とき、見とき」
 と、言った。
「へえ、おおけに」
 と、栄三はよろこんだ。足遣いからもう一度たたき上げてやろうという玉造の気持が、うれしかったのである。
 そして、その後栄三は本役のほかに随分足を持たされ、まるで子役上りのように、一日忙しい想いがしたが、しかしこれも皆末のためだ、修行だと思って、我慢して黙々と勤めた。

 一方、旧稲荷座の者たちは、どうかしてもう一度旗上げしようと、弥太夫以下がもとの文芸株式会社の有志を説いてまわり、稲荷座没落後五ヵ月目の十一月から、北堀江の明楽座に立て籠って、興行していた。
 もっとも、弥太夫は引退して出座せず、後見として監督することになって、太夫は、大隅、組太夫、伊達太夫、住太夫、春子太夫、長子太夫等で、三味線は広作に小団二、浜右衛門、友松、新左衛門など、人形は清十郎、玉米、門蔵、それにもと巳之助といっていた文五郎が簑助の名で稲荷座時代からひきつづいて、この座へはいっていた。
 ところが、翌年六月に花形玉米が急死した。それで、明楽座では急に人形遣いが手不足になったので、文楽座へ行っている栄三を呼び戻そうとした。明楽座の仕打の花里は稲荷座時代から栄三にいくらか金を貸していた。それを楯にとって帰れと言って来たのである。が、文楽座でも栄三を忙しく使っているので、手離したくない。借金があるなら、返してやろうとまで言った。それを明楽座へ伝えると、金を返せというのではない栄三の身体が要るのだ、働いて貰おうと思えばこそ前に金を借してあるのだと言ってきかない。
 そうして、すったもんだしているうちに、三十三年の一月興行の番附には、文楽座と明楽座の両方に、栄三の役が出てしまった。文楽座の方は、前の「八陣」の春姫と柵、中の紋下の越路「酒屋」の半七、明楽座の方は、前の「信長記(しんちょうき)」の信長と十河(そがわ)軍平、切の大隅の「質店」の久松である。
 栄三は困り果てたが、番附にそう出てしまった以上どうするわけにもいかず、まず文楽座の三役を済ませると、その足で北堀江の明楽座へ駈けつけ、「質店」の久松を遣った。しかし、信長と軍平は間に合わず、代りを頼まねばならなかった。二月は文楽座は狂言を持ち越した。明楽座の方は一月の晦日から二月興業の初日をだし、「忠臣蔵」の通しで、栄三の役は小浪とおそのであった。で、栄三は同じように文楽の三役を済ませると、明楽座へ駈けつけ、「道行」の小浪から勤めた。「松伐り」の小浪は間に合わず、勿論代役を頼んだが、その「道行」小浪でさえ、さすがにトチることがあり、玉次郎に頼んで代って貰わねばならなかった。
 栄三は悩んだ。こんな風に忙しく芸の切売りじみたことをしては、芸が荒んで来る一方だ、おまけにトチッて座に迷惑を掛け、客にも会わす顔がない。そう思うと毎日気持が暗くなって、それが一層芸に影響する。どちらか一方を断らねば、自分の芸がくさってしまうと、思った。
 それで、栄三は前まえからの義理を考えて、一時文楽座を暇取って、借金が済むまで明楽座で働くことを決心し、三月からそうした。そして、月々の給金から少しずつ借金を戻して行くことにした。

 明楽座での義理を済ませて、栄三が再び御霊の文楽座へ帰ったのは、それから二年六ヵ月のちの明治三十五年の九月であった。
 その六月の明楽座の興行は、大変な不入りで、早く打ちあげて太夫や三味線は人形なしの素浄瑠璃の旅に出てしまったので、栄三は仕打の花里の手代のところへ行って、借金も既に済んでしまっているし、これを機会に暇をくれと言うと、旦那が旅から帰るまで待てとのことで、それを待っているところへ、文楽座の方から頭取の三吉が迎えに来てくれて、万事話がついたのであった。
 借金で縛られて働いているという気持は暗かったが、けれど栄三は明楽座の舞台を投げやりにしたわけではなく、清十郎や門蔵や、それから一時東京から来ていた名手西川伊三郎に揉まれて精進し、また役によってはわざわざ文楽座の多為蔵に教えを請うたりして一心に勤めたので、めきめき技量が上達していた。それで、文楽でももう栄三を冷遇するようなこともなく、給金ももとの倍になり、番附も「雨晒し」に坐ることになった。
 ここですこし番附のことを言うと、人形遣いの筆頭は、筆下の左端で、次が筆頭の右端である。それと、真中の中軸がある。以下、左右と千鳥に読んで行って、人形遣いの順位がきまるのだが、右端にすこし字間をあけて、更に右端に一人書き出してある。これは「別書出し」といって、左端の座頭とたいした差異はないのだが、座頭が二人あっても困るので、ここに据えて置くのである。それともうひとつ、座頭のまだ左の方に、枠で囲まずに載せてあるのがある。これは囲み即ち屋根がないから、雨に打たれるという意味で、「雨うたせ」もしくは「雨晒し」といい、若手で腕や人気がある者で、本欄にいれると先輩の下位になって顔が悪くなるので、そうするわけにいかぬという者を、ここに置くのである。
 その時、文楽座の座頭は無論玉造、別書出しは先代紋十郎、中軸は多為蔵、右の筆頭は二代玉助、そして栄三は雨晒しへ置かれたのである。現在の文楽座で雨晒しは若手の女形遣いとして人気のある桐竹紋十郎である。それから考えて行けば、当時三十一歳の栄三がいかに優遇されたか、また腕があり、人気があったかがわかるのである。
 さすがに、その時栄三はうれしかった。もう明楽座と掛け持ちで勤めていた時のような暗い気持もなく、もうここで一生修行しようと思った。
 ところが、それから二月余り経った十一月の二十四日に、父の栄助が五十四歳でなくなった。
 良いことは続くものではないと、栄三は思った。おまけに、かえって悪いことが続いたのである。というのは、その翌年の正月から栄三は歯をやみ、それが昂じて到頭骨膜炎になった。入院したが、医者の言うのには、大手術をしなければならぬ、手術の結果生命を落すようなことがあっても構わぬかというのである。えらいことになってしまったと思ったが、そのまま放って置くと、骨が腐るばかりなので、生命を失っても苦情はいわぬという証文をつくった。が、そうして手術の日を待っているうちに、妹が腫物の神様の石切さんへお詣りしてくれた。間もなく手術をしたが、それはほんの骨の一部分を削っただけで、簡単なものであった。証文は捺印はしなかった。
 退院した時には、もう三月興行がはじまっていたが、栄三は途中から舞台へ出た。もっとも本役の「女四孝」の濡衣(ぬれぎぬ)の役は出遣いだったので、まだ包帯のとれぬ栄三は出遣いするわけにいかず、ほかの軽い役に替えてもらった。舞台の合間には、病院通いをしなければならず、まだすっかりよくなっていない身体で舞台に出るのは無理だったが、前後五週間の入院代が思いのほかの高額で、自分の分はもちろん親や妹の乏しい財産まですっかり無くしてしまっていたので、無理をしてでも稼がねばならなかったのである。ひとつには、やはり人形を手にしていないと、淋しかった。
 その興行は大入りだったが、五月は紋下の越路(当時義太夫)が小松宮家から賜った摂津大掾の号に改名する披露興行があるので、その準備のため四十五日ほどで打ち揚げた。
 その頃、明楽座は既に経営難で潰れていて、一座の大隅太夫が文楽入りをして、その「壷坂」を附物に、「妹背山」の通しを出し、「山」の掛け合いは、大掾の定高(さだか)に、三代越路の雛鳥、津の大判事、染の久我(こが)之助、「杉酒屋」は越路、「上使」が津、「竹雀」が大掾という豪華な顔触れだったから、この披露興行は折柄の博覧会の景気も手伝って、五月一日から七月十五日、七十五日間打ち通しの大入りであった。
 この興行の景気の旺んであったことは、その頃の文楽に関係していた人が一人残らずいつまでも語り草にするほどで、栄三もまた後年、「六十年の舞台生活を振りかえってみて、どの点からいっても、あの時の興行が文楽の全盛期でした」と言っているが、けれどこの時、栄三は、傷口のガーゼの上へマスクを掛けて出遣いしなければならず、まだ身体も本調子でなく、芝居の景気にひきかえ、ひとり苦しい舞台であった。

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「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田栄三
吉田栄三[初世]よしだえいざ 1872-1945
大正−昭和前期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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