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文楽の人

織田作之助

吉田栄三

 明治三十七年二月に日露戦争が勃発した。
 その月の十八日、三味線紋下の松葉屋広助が遺産二十万円を残して、死んだ。
 当時、一三味線弾きでこれだけの蓄財をした者はなく、その点でも第一人者であったが、三味線にかけても広助の右に出る者はなかった。道端の葱を拾って台所に使ったり、宴会の折詰の空箱を金にかえたり、絶えず些事にも細心の注意を怠らず、いわば芸と蓄財の二筋道を歩いて来た人だけに、芸一筋でそのほかのことは何も構わなかった団平にはさすがに劣ったが、しかし、団平につぐ近世の名人であった。
 明治二年、まだ広助が若かった頃、堀江の芝居で竹沢弥七が大三味線を弾いた。それを見て、広助はおれも負けるものかと二貫目もある釘貫(くぎぬき)で阿古屋の三曲を弾いたことなど、ひとびとはお通夜で昔語りした。
 広助が死んだので、文楽座の紋下は太夫の摂津大掾と人形の玉造の二人きりになったが、その玉造はそれから一年も経たぬ三十八年の一月十二日に死んでしまった。
 玉造が死んだ時、その胴巻から随分の額の金が出て来た。彼は銀行というものを知らず、あるだけの金をすっかり胴巻の中に押しこんでいたのである。そして、彼の得意の芸の早替りの時も宙乗りの時も、その胴巻を肌身離さなかった。
 玉造はかねがね持ち溜めが良くて、口の悪い者は小心な蓄財家だといっていたけれど、しかし、ひとびとは、
「親玉は松葉屋とはだいぶ違うな」
 と、通夜の時に言った。玉造の胴巻からは通用せぬ大政官札が何枚も出て来た、それを言ったのである。松葉屋の広助ならこんなうっかりした手抜かりはしなかった筈だとひとびとは思ったのである。
 それに、玉造が小心な蓄財家といわれるようにまでなったのは、一人息子の玉助に残していかれた盲目の孫のためであることは、ひとびとにはうなずけた。守銭奴ではなかったのである。
 それどころか、彼もまた団平と同じく芸のほかには何ものもなかった人であることを、ひとびとは知っていた。それについて、通夜の晩、こんな昔話が出た。
 玉造が南区の炭屋町に住んでいた頃のことである。
 ある時、炭屋町へ号外売りが来た。
「号外、号外!」
 という声を聴いて、玉造は、
「おい、ボウガイが来よったぜ」
 と、弟子に言った。
「何言うたはりまんねん、親玉はん」と、弟子は笑いながら、「あら、妨害と違いまんがな。号外だっしゃないか」 と、言った。すると、玉造は、
「一字だけの間違いやないか」
 と、答えたというのである。
 やはり炭屋町に住んでいた頃、文楽座からの帰りの夜道で、玉造は立小便をした。玉造は人一倍大男である。すぐ巡査に見つかって、住所を訊かれた。
「わたいの家でっか。西横堀の御池橋の東詰におます」
「そんなことは訊ねとらん。町名はあるだろう。町名を訊ねとるんだ」
「さあ、どない言いましたかいな」
 自分の住んでいる炭屋町という町名を知らないのである。
「頼りない奴だな。御池橋の東詰だったら、炭屋町だろう」
「へえ、そない言いましたかいな」
「番地は何番だ?」
 すると玉造は、
「そんなもん、うちにはおまへん」
 と、答えたのである。

 そんな風に玉造は世事に疎く、字は一字も読めなかった人だが、人形にかけては神様とまでいわれた人であった。工夫に富み、松島文楽座柿落し興行の時、「松島八景」の所作事で、七化けの早替りをやって魔術かと見物を驚かせたり、明治十三年の五月には、「五天竺」の孫悟空になって軽業師のような宙乗りをやったり、十七年九月の「夜這星」の所作では、夜這星となって天井裏を飛びまわったり、早替りで太夫の見台から現われたり、懐ろから出たり、ケレンの名手であった。
 ことにその狐は天下一品で、毎日床で見ている三味線弾きにも、玉造の狐が早替りでぱっと出て来る場所が舞台のどのへんであるか、判らぬくらい、眼にも止らぬ早業で、しかもいったん狐が舞台へ出ると、もう玉造の身体が狐の中に吸いこまれて見えなくなってしまうくらいの入神の芸であった。
 玉造は狐のほかに猿でも鼠でも獅子でも、虎でも、浄瑠璃にあるほどの動物を全部遣いこなしたが、けれど玉造の本領はこうしたケレンや動物遣いだけにあったのではなく、荒事でも女形でも立役でも道化でも何ひとつ出来ぬものはなく、しかもそのすべてが凄いくらいの芸だった。
 それはもう、単に技巧がすぐれているというような、生易しいものではなかった。いつのことであったか、紋十郎の父の桐竹門十郎が、
「玉造、玉造と騒いどるが、いったいどのくらい遣いよるねやろ、いっぺん舞台で恐れ入りましたと言わしてやろ」と、思って、文楽座入りをした。
 門十郎はそれまで外の芝居ばかりにいた人形遣いであったが、腕は鍛えに鍛えていたので、玉造なにするものぞという自信があったのである。おまけに、門十郎の細君のお久は門十郎に離縁されてからのち、嫁いで行った先がひともあろうに玉造のところだった。門十郎にしてみれば、一層玉造を負かしたかったのであろう。
 ところが、門十郎がまるで道場破りの意気込みではいった時の狂言はたまたま「敵討亀山道中噺」で玉造の石井兵助に門十郎の敵水右衛門という役割であった。宿屋の場で二人の立ち廻りになるのだが、その前に、門十郎の水右衛門が二階から降りて来る、玉造の兵助が表から戻って来る、出合い頭にパックリ顔を見合った途端、ピシャリと戸を閉める、その双方の呼吸(いき)の凄さに、お互いの身体が思わずふるえたくらいであったが、その時この舞台を見ていた文楽翁は、
「門十郎はとてもここに居よりへんやろ」
 と、言った。果して門十郎は間もなく退座した。門十郎の芸も凄かったが、玉造の芸はそれ以上の凄さだったのである。維新前の話だというから、当時玉造はまだ若かった。

 栄三はこの話をきいて、自分もまた玉造と一緒に舞台に出ていて身体がぶるっと震えるくらいの凄さを経験したことがあるのを、想いだした。そして、栄三は一生師匠をとらぬ積りで、玉造から正式に弟子入りしてはという話があった時も断ったのだが、いま玉造に死なれて見ると、得がたい師匠を失ったような気がした。玉造の足は何度も遣い、またその舞台も暇のあるなしにかかわらず見て来たが、なぜもっとよく見て学んで置かなかったかという後悔が先に来て、通夜の晩、栄三はいきなりわっと泣きだした。
 この時、栄三は三十四歳であった。
 この年の九月、日露戦争が日本の大捷利のうちに終りを告げた。そしてその歓びの最中に、旧稲荷座の若手の者たちが北堀江市之側大露路内の堀江座に拠って、明楽座解散後二年八ヵ月振りに文楽座対抗の旗上げをした。
 大隅は既に文楽座へ走って兄弟子の摂津大掾の傘下にはいっていたので、この堀江座の一座は、春子、伊達、長子、雛、角、錣、新靭、此太夫等に、三味線は竜助、仙左衛門、小団二、新左衛門、人形は兵吉、玉松、文五郎の簑助、玉治等で、文楽座の老手達には及ばなかったが、いずれも背水の陣の熱演をしたので、折柄の戦勝景気もあり稲荷座時代の好況を取り戻すことが出来た。
 五世弥太夫は、稲荷座没落後再び素人相手の稽古に退いていたが、明楽座、堀江座と転々として苦闘をつづけるこの一座のために蔭になり日向になり尽して来たが、この好況に気を許したのか、一月余りのちの十月三十日、七十歳でなくなった。

 弥太夫が死んだ時、彼の文庫の中から、汚れてカチカチになった古い木綿ぎれが出て来た。なぜこんなものを大切に蔵って置いたのかと、ひとびとは不審がったが、彼が十一歳の時から死の直前までつけていた日記で、それが判明した。
 それは弥太夫の師匠の名人長門太夫が床で痰を拭う時の布であった。ある時、長門は床で語りながら、意気ごんだ拍子にこの布をポンと下へ投げた。それを白湯汲みの場所で控えていた弟子の弥太夫が拾って、ひそかに懐へしのばせて持ち帰り、自分もお師匠はんのような太夫になれますようにと、毎日その痰拭きの布に祈っていたというのである。その布がカチカチになっているのは、痰のためであった。
 弥太夫が長門の門にはいったのは十一歳の時であったが、弥太夫の父親は弥太夫の覚えが悪いといっては、銭湯へ連れて行って、弥太夫を逆さまにして湯槽の中へ突っ込んだ。浴客が見兼ねて、助け舟を出してやったということである。
 こうして弥太夫は子供の頃からはげしい修行で鍛えられて来たが、うまれつき悪声小声だったので、泣きと笑いにはことに苦心した。毎朝、未明から、天王寺河堀(こぼれ)口の師匠長門のところへ通うのに、いつも道々泣きの稽古をした。泣きの稽古をしながら、高津のある大工の家の前を通ると、家の中では、「それ泣き男が通った。かかよ、朝飯にしよか」と、言っていた。時太鼓の代りにされていたのである。
 また、笑いの稽古では、丼鉢を二つに割って、それを薄い布でまいて腹へ当てて、稽古した。布が破れると、腹に庇がつく。それで、布が破れぬように笑いの調節を図ったのである。

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「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田栄三
吉田栄三[初世]よしだえいざ 1872-1945
大正−昭和前期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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