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文楽の人

織田作之助

吉田栄三

 明治四十年、栄三は三十六歳になった。
 正月興行の「和田合戦」三段目の板額を遣っていた紋十郎が病気になった。
 普通代役は、左遣いが勤めるものだが、その時紋十郎の左を遣っていた亀三郎は、左遣いが専門であった。いわば左を遣わせると名人だが、胴は遣えない。そこで多為蔵の与市の左を遣っていた栄三に代役が廻って来た。
 代役ほどうれしいものはない。ところが、この時ばかりは栄三は躊躇した。というのは紋十郎は大兵だったので、板額も特別大きな人形をつくらせて遣っていた。それを人一倍小柄な栄三が遣るのは無理である。
 栄三は一応断った。が、是非に遣えという。そこで致し方なく板額を遣うことになった。かねがね紋十郎の板額は見て置いたから助かったが、さすがにその大人形で長丁場を通すのは苦しくて、途中で何度人形を捨ててしまおうと思ったかわからぬくらいであった。けれど、この辛抱ができぬようで、人形遣いが出来るかと、持ち前の辛抱づよさで堪え堪え、九日間代役を勧めたところ、朝日新聞の劇評は「大物の代りとしては案外の出来であった」と激賞した。勘定場の者も賞めた。
 栄三の技量はこの時内外に認められたのである。三十一歳で「雨晒し」になった時、既に栄三の凡手でないことは認められていたが、しかし、栄三の芸の前途がはっきりと約束されたのは、それから五年の精進を経たこの時であった。
 栄三はこの劇評を読んで、うれしかった。けれど、油断はならない。人形の道は所詮一生が修行である。果して、それから二日のち、即ち三月興行の「忠臣蔵」の九段目で、多為蔵の左を遣った時、多為蔵から、「手負いやさかい、強い中にも弱いところがないといかん。本蔵と又助とはまた達うねやぜ」
 と随分叱られた。
 この九段目を語ったのは勿論紋下の摂津大掾だったが、(九段目は至難な語り物で紋下以外には語れぬといわれているくらいである)彼はこれまで九段目の本蔵が不得手だといわれていた。いわば彼の語り口に合わないのである。それをこの時は、申し分ないほど見事に語った。彼はそのことを、
「わいはこれで九段目を九度語る勘定になるが、七十の歳になって、やっと本蔵のコツが判った」
 と、言った。
 栄三はこの言葉を聴いて、芸の道日暮れて遠きをますます悟った。

 この年の八月、京都の南座に人形芝居が掛った。仕打は松竹であった。ちょうど文楽座は夏休みだったので、栄三は紋十郎、門造、助太郎、玉五郎、玉次郎などと一緒に出向いた。太夫は、南部、叶、源太夫、なお堀江座からも住太夫に竜助が加入するという寄合世帯であった。狂言は「二十四孝」「壷坂」「吉田屋」でこの「吉田屋」の伊左衛門は紋十郎が十八番で遣ったが、相手役の夕霧は紋十郎の名指しで栄三に廻って来た。初役だったので、栄三は随分苦心したが、初日の舞台を打ち揚げると、紋十郎の部屋から、ちょっと来いと言う。
 そこで、肩衣をつけたまま、伺うと、
「栄コ、お前、伊左衛門という役は夕霧に遣わして貰う役やぜ」
 紋十郎は裸のまま冷やしそうめんをすすりながら、言う。
「へえ」
「へえやないぜ。お前があんな遣い方したら、わいは遣われへんがな」
 案の定、小言だった。紋十郎の弟子は黙々として師匠の背中を団扇で煽っている。その風が栄三のところまで来るわけもない。たださえ暑い京都の夏の夜の楽屋である。栄三は肩衣をつけたまま汗ずくになっていた。
 ところが、その翌日もまた呼びつけられて、「吉田屋」の講釈である。三日目も同じであった。
 栄三は毎日苦しい想いをした。が、そのおかげで、伊左衛門の型だけはすっかり紋十郎から学び取った。
 その紋十郎は文楽の盆替り興行から、人形頭取になった。それで番附が変り、栄三は中軸になった。もっとも中軸には助太郎と玉次郎も坐り、いわゆる三人中軸になった。それをしおに、間もなく栄三は妻帯した。かなといい、京都の千家下職の浄益の一等職人の娘を娶ったのである。南座出勤の折に、その話が出たのであろう。栄三は三十六歳だったから、どちらかといえば晩婚の方である。
 その頃、文楽座の仕打の植村家は財政に破綻を来たしていた。三世文楽翁の実子大助が骨董癖があって、陽春堂と称し、書画骨董の売買を行い、支那方面にまで手を伸ばしているうちに、次第に損を重ねて、明治二十三年の三月に、父文楽翁のあとを追うて早世した時には、もう植村家は苦境に陥ったのである。大助の死後その子泰蔵が五代文楽座主となったが、この人は病弱で素行も修らず、到底経営の器でなかった。そこで、大助の未亡人ハルが後見して、一座を監督し、傍ら渡辺幸次郎を財政顧問として苦境と闘って来たが、座運振わず、殆ど経営不可能になってしまった。
 このまま放置すれば、植村家の没落ひいては文楽座そのものの崩壊は到底避けがたい。そこで植村家の顧問渡辺は、植村家を救い、文楽座を救う手段としては、文楽座をしかるべき興行主に譲渡するほかはないと見た。そして、その興行主として、渡辺は先年京都南座で人形浄瑠璃芝居の興行を行った松竹会社を選んだ。話は進められた。紋下の摂津大掾も、自分の代に文楽座が亡んでしまっては申訳ないと、白井松竹社長に泣きついた。
 そうして、文楽座は明治四十二年の三月興行を最後に、松竹に譲渡された。松竹が植村家に渡した金は二万円であった。
 初代文楽軒以後人形浄瑠璃界に覇をとなえ、敵国の彦六座を競り陥し、明楽座を買収した文楽座も四代目の座主の骨董癖が災いして、僅か二万円の金で到頭松竹の傘下に投じてしまったのである。もっとも、文楽座の座名は受け継がれた。また、小屋のほか二棟の土蔵の人形、衣裳をはじめ、絵看板、台本をはじめ、太夫三十八人、三味線五十一人、人形遣い二十四人の引き継ぎもその勘定の中にはいっていた。
 引き継ぎの第一回興行は、直ちに四月八日の初日で行われた。この時「先代萩」の土橋(どばし)で、栄三は三婦(さぶ)と金五郎と累の三役を早替りをした。これは松竹の奥役の清水福太郎の注文であった。早替りは栄三には初めてだったから、どうかと危まれたが、白井社長の眼に止まるほどの上出来だった。彦六座時代に、辰五郎や玉松の早替りの介錯をして、そのコツを見覚えて置いたのが役に立ったのである。
 この早替りの成績が良かったので、清水は次々に栄三に良い役をつけた。ところが、それがたいてい皆栄三にとっては初役のものだった。栄三は先輩の舞台を想いだしながら、苦心に苦心を重ねたので随分痩せる想いがした。
 ことに六月興行の「夏祭」の泥場の団七九郎兵衛ではすっかり頬の肉がこけ落ちてしまった。九郎兵衛の人形は丸胴の大物で、ただ持っているだけでも相当苦しい。それを栄三は小柄だから、高い舞台下駄を履いて遣わねばならない。おまけに、相手の義平次が芸風が派手で舞台の激しい紋十郎である。紋十郎は大兵ゆえ低い下駄で、しかも軽い義平次の人形を遣うのだから、「駕返せ」のセリ合いなど、ぐいぐい九郎兵衛に迫って来る。栄三は左を遣っていた玉次郎と共にジリジリと油汗をかき、その油汗が身体の肉をもぎとって行くように思われた。ある日、鏡を見ると眼が落ちこみ、げっそり頬がこけていた。
 この興行で、栄三は「鈴ケ森」のお駒も遣っていたが、「泥仕合」の出を待っている時、紋十郎は、
「栄三、お前こんどの二役が満足に遣えたら、もう座頭やぜ」
 と、言った。栄三の落ちこんだ眼は、さすがに嬉しさに輝いた。
 また、この年の盆替りに、「二十四孝」の山本勘助と、それから紋十郎の代役の八重垣姫の早替りを一回多くして遣った時、摂津大掾は、
「あんた勘助遣て、八重垣の代りしたら、丁度大宝寺町やがな」
 と言った。
 大宝寺町とは玉造のことである。(玉造は晩年大宝寺町に住んでいたから、そう呼ばれた)玉造の遣っていた役を、いま栄三が遣っている、それを言ったのだが、ただ役が同じだからそう言ったのではなかった。
 この時も栄三は天にも上る心持がした。そしてその年が暮れて、明治四十三年の正月には、栄三は「書出し」に昇進した。奥役の清水福太郎が推輓したのである。座頭は勿論紋十郎であった。
 この紋十郎はその年の四月、阿古屋の琴責で、とくに注文して三貫目の人形をつくらせて遣った。これは、ちょうど十年前の明治三十三年の十月に、北堀江の明楽座で東京下りの西川伊三郎が先祖伝来の六尺有余の阿古屋の大人形を遣った向うを張ったのだが、なんといっても、紋十郎は六十四歳と言ってはいたが、本当は七十歳の老齢である。おまけに、一年まえからたびたび栄三に代役をやらせるくらい、身体が弱っていた。果して、この阿古屋の大人形は紋十即の身体に障ったのか、その興行が済むと、到頭ねこんでしまい、間もなく譫語(たわごと)を言いつづけた。そして八月十五日の早朝息を引き取った。
 死ぬ前の日の夕暮れ、紋十郎はもう殆ど虫の息の中から蚊細い掛け声を掛けながら、「二十四孝」の八重垣姫を遣う手振りを、臥たままでしていたと、聴いて、栄三はその八重垣姫の代役をしたのはちょうど一年前だったことなどを想いだして、泣いた。
 紋十郎はれいの玉造と「敵討亀山道中噺」で張り合って負けた桐竹門十郎の子である。門十郎の細君のお久はこの紋十郎を産んでから、離縁になって玉造に嫁ぎ、玉助を産んだので、紋十郎は玉助のいわば種違いの兄弟であった。
 玉助は天才として若くから名人芸を発揮したが、紋十郎は若い頃はぼんくらと言われていた。幼い時から切り紙で人形を作り、障子へ影人形をうつして修行し、父門十郎の血もうけていたから、無能の筈はないと思われたのに、師匠の吉田辰造や義弟の玉助が呆れるほどの拙さで、到底モノにならぬと言われていた。父の死後、亀松と名乗って文楽に入り、「先代萩」の御殿で師匠の辰造の政岡の足を遣うたが、クドキの「武士の種に生れたが果報か因果か、いじらしや」の「いじらしや」の間がどうしても踏めず、毎日舞台下駄で蹴りつけられていた。また同じ「先代萩」の床下の鉄之助を遣うたが、これもぶちこわしの無能ぶりを見せたので、鉄之助の役を取りあげられ、給金は半分に下り仲間に嗤われ、頭取からはモノにならぬと眼の前で言われた。
 そこで、紋十郎は発奮して十六文の銭を懐中して江戸に下り、女形遣いの名人西川伊三郎の門にはいり、女形遣い専門に修行を積んだ。
 ところが、何年修行しても、足ばかりで胴を遣わせてくれない。そこで師匠に、一度胴を遣わせてくれと頼むと、ちょうど浅草の芝居で「忠臣蔵」の九段目が出ていた時だったが、師匠は、それでは下女のおりんを遣えと言った。
 おりんは一人遣いのツメ人形である。しかもこのおりんの仕種は、加古川本蔵の妻の戸無瀬が娘小浪を連れて、大石の山科閑居を訪れるその「頼みましょう頼みましょうと言う声に、襷はずして飛んで出る、昔の奏者今のりん、どうれという-」だけの簡単なものである。
 いくらなんでも、こんな端役をと、紋十郎は憤慨もし、がっかりもしたが、しかし、折角貰った役である。精一杯に勤めようと、さまざま工夫した。そして、本来がツメ人形であるのを、左と足を頼んで三人遣いとし、「昔の奏者今のりん」で、下女のりんは髪を結いかけて立つという趣向にし、髪を鬢付(びんつ)けで立てて赤い襷をかけて飛んで出て、仔細ありげな二人の顔を見てびっくりしたという思い入れを見せ、それから襷をはずして、髪をまきあげ簪で止め、油を前垂で拭いた手を帯にはさんで、それから「どうれ」と両手をついたのである。この新工夫に師匠は驚いた。見物も喜び、その後この型は歌舞伎にも使われるようになった。
 そのうちに、母親のお久からさすがに腹を痛めた子が可愛く、大阪へ帰れと言って来た。そこで、紋十郎は師匠の西川伊三郎のもとを辞し、大阪へ戻って、再び文楽座へはいったのは明治九年の三月である。そして、その四月の「一の谷」で相撲を遣ったが、昔のぼんくらとは見違えるほどの出来栄えで、評判をとった。
 以後師匠譲りの女形専門でメキメキ上達し、玉造と共に文楽座の双壁となった。どちらかといえば、大向う受けを担った派手な芸風で、ケレンが多いとか、花があって実がないとかいわれていたが、宙乗りや早替りで人気をとった立役の玉造と対抗して行くために自然にそうなったのだろうか。死ぬ前の年の十一月には、「忠臣蔵」を見事に遣いこなして、女形専門でありながらさすがに立役を遣っても巧いものだという評判を取って、死に花を咲かせたのが、せめてもの慰めであったろうと、栄三はその死を悲しむかたわらひそかに呟いた。
 そして、紋十郎が死んでしまった今、自分は誰に学んでよいのかと、寂しい気がした。名手の吉田多為蔵もその頃文楽を去っていた。

 翌年の五月、市の側堀江座が瓦解した。しかし、その翌年の明治四十五年一月には、大阪の紳商の手によって、南区佐野屋橋南詰(現在文楽座の所在地)に近松に因んだ近松座が創設されたので、一座はそれに拠って、再び文楽相手の苦闘をつづけることになった。文楽座を去っていた大隅太夫が、この近松座へ帰参したので、一座は漸く活気づいた。

 一方、文楽座では、紋十郎のなきあと目ぼしい人形遣いがいなくなった。そこで一時文楽座を去っていた吉田多為蔵を帰参させた。
 ところが、翌大正二年の四月に、天性の美音で文楽座の人気を七分通り一身に背負っていた紋下の摂津大掾がいよいよ引退することになった。
 そして、その引退興行の語り物が「楠昔噺」の三段目であると発表されると、客はもとより幕内の者もあっと驚いた。皆はこんな大物の長丁場を大掾が七十八歳で語ろうとは夢にも思っていなかった。得意の「先代萩」の御殿か、「十種香」が出るだろうと思っていたのである。ところが「楠」である。大事な引退興行の途中で休んでしまうようなことが無ければ良いがと、幕内のものは心配した。そして四月一日の初日をあけてみて、ひとびとはもう一度驚いた。七十八歳とは思えぬ若々しい美音で、美事に語り通したのである。高調子のところを外すようなことも無論なかった。声も枯れなかった。おまけにこの興行は近来にない大入りつづきで翌月の二十一日まで五十一日間打ち通したが、その間大掾は一度も休まず、声の疲れも見せなかった。
「大掾はんはこれ語りはるために、前から声が残したったんやろか」
 楽屋ではそう囁いた。
 なにしろ、明治十六年四月以来、三十年以上もずっと文楽座の紋下に座っていた人である。千秋楽の日は、見物も泣き、楽屋も泣いた。大掾も床を降りて、楽屋で幕内の者の挨拶を受けながら、声をあげて泣いた。ところが、皆そうして泣いているところへ染太夫がやはり眼をしぼたきながらはいって来て、「わても今日限りで引退させて貰いまっさ。永い間いろいろお世話はんでした」
 と、いきなり言ったので、ひとびとは呆然とした。染太夫はなんの前ぶれもなく、引退興行もなしに引退してしまったのである。法善寺の津太夫は既になく、染太夫は大掾の次位の人であったが、次々と名人に去られて行くので、ひとびとはどうなることかと、空虚な想いで、次の六月興行をあけたが、さすがに火の消えたような寂しさで、芝居は倒れんばかりの不入りであった。
 そして、七月を迎えると、大隅太夫が六十歳で台湾で客死したという報らせが来て、もうひとびとは口も利けぬくらいしょげてしまった。ことにこの大隅客死の報にがっくりしたのは、近松座の一同であった。
 大隅は相三味線、というより、師匠の団平に随分苛められて修行した。蚊に喰われながら夜を徹して稽古したことは、前に述べたが、それなどまだ生易しい方である。
 ある時、団平と共に出かけた姫路の旅興行の舞台で、「合邦」を語った。ところが、「オイヤイオイヤイ……」のくだりが巧く語れないというので、団平はいつまで経っても次を弾かず、「オイヤイ」の手を繰りかえした。自然、大隅も同じ個所を繰りかえして語らねばならず、三味線につれて無我夢中に語っているうちに、いつか大隅の顔は真蒼になって、遂に見台へ顔を伏せて、半分気絶状態になってしまった。しかし、団平は相変らず同じところを弾いている。見物が騒ぎだした。楽屋も騒いだ。その声に、はっとわれにかえった大隅は、やっとあとをつづけた。団平は表情一つかえず、次を弾いていた。
 こんな生命がけの修行をして来たのである。だから、大隅はいつか「凝り固り」といわれるほどの芸馬鹿に仕込まれてしまった。その代り、師匠の団平と同じく、芸のほかには何もなく、おまけに性来の奔放不覇な性質が手伝って、随分思慮に欠けた無定見なこともした。
 たとえば、大隅は団平に死なれたあと、堀江座を捨ててひとりで文楽へ走った。贔屓の杉山茂丸は東京でこのことを聴き、棟梁の大隅に去られた堀江座の残留組に同情し、随分大隅を責めた。が、出来てしまったことは仕方がない。せめて文楽へはいったからには、紋下の摂津大掾のあとを継ぐように勉強せよと激励して、一応大隅を許した。そして、杉山翁はなんとかして大隅に文楽座で一花咲かせてやりたいと、大掾にも頼んでいたところ、大隅は一年足らずのちに、フイと文楽座を去って、堀江座の春子太夫や伊達太夫(土佐太夫)と一緒に北海道へ巡業に行ってしまった。
 さすがに杉山翁は怒った。もう大隅など相手にしないと、到頭絶緑されて、大隅が訪ねて行っても会わなかった。
 その後、大隅らの一座が東京の明治座で興行した。大隅は杉山翁のところへ上京の挨拶に行ったが、玄関払いをくらった。杉山翁はむろん明治座へ行こうともしなかった。
 ところが、ある日の新聞に大隅の語り物が「布引四段目」である旨、広告されていた。大隅の十八番である。杉山翁は聴きたくてたまらぬ。たまりかねて、雨の中をひそかに明治座へ出掛けた。自動車を久松署の前に持たして置いて、外套を頭からかぶって、悟られぬように木戸をはいった。平場を見ると、客は六七十人の入りで、さびれていた。杉山翁は坐っていると見つかるので、外套を被ったまま寝転んで聴いた。
 そして、だんだん聴くうちに、すっかり大隅の芸に魅了されてしまった。大隅の出番が済むと、杉山は小屋を出た。そして、待たしてあった自動車に乗ろうとすると、雨の中を舞台衣のままの大隅が駈けて来て、「旦那!」というなり、杉山翁のあとからその自動車に飛び乗って、扉をしめてしまった。杉山翁はにがい顔をして見せたが、もう大隅の芸に打たれて陶然としていたところだったので、眼だけ微笑していた。
 そして、車が杉山邸へつくと、早速稽古がはじまったが、車の中でさんざん叱られていた大隅がこんどは、
「誰がそんな阿呆なこと教せました」
 と、杉山翁を叱りつけたという。
 その日から、大隅は杉山宅へ出入りがかなったが、その後近松座へ出勤して、昔の堀江座への義理をつくしたかと思う間もなく、またもやそこを飛び出して、台湾へ走ったので、杉山翁はかんかんになっていた。
 ところが、間もなく台湾で客死したとの報らせがはいったのである。
 大隅の客死によって、もうこの一枚看板の出座の望みを絶たれた近松座は、気の毒なくらい落胆したが、つづいて翌大正三年の二月には、大隅なきあとの人気太夫であった伊達太夫が、文楽入りをしたので、もはや近松座の運命も殆ど決まったようなものであった。
 果して、その年の十月には、残留組の春子長子等の苦闘も空しく、遂に休座の止むなきに到り、もと簑助といっていた女形遣いの吉田文五郎が明けて正月には文楽へはいって来た。
 つづいて二月には、吉田玉蔵が久し振りに文楽座へ再勤し、四月には近松座の頭取格であった吉田兵吉が出座し、人形一座はにわかに賑ったが、その兵吉も七月五日にはもうなくなり、そして翌五年の六月には多為蔵は病気引退し、十月二十一日にはもうこの世にいなかった。翌六年の一月には吉田駒十郎が退座する。再び人形一座はさびしくなった。十月九日には摂津大掾が死んだ。この月、もと近松座の六世弥太夫が出座したが、もうこの頃から人形浄瑠璃の前途に暗い影がさしかけて、芸道の衰えて行く音が、客の入りがわるくてがらんとした文楽座のさびしい平場に不気味にきこえるような気が誰の心にもした。

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「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田栄三
吉田栄三[初世]よしだえいざ 1872-1945
大正−昭和前期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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