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文楽の人

織田作之助

吉田栄三

 五十一日間打ち通し、その間に大入袋が三十六回も出たという摂津大掾引退興行などもう昔の夢であった。文楽座はさびれる一方だった。おまけに、相つづく名人の死である。大正十年には三世団平が、大正十一年には野沢清六と三世南部太夫が死んだ。紋下の越路も病気欠勤である。一座は毎月、毎月、毎年、毎年暗い気持で興行をつづけて来たが、やがて一座の者が思いがけぬ喜びに身体のしびれる時が来た。
 それは、大正十二年五月二十三日畏くも、秩父宮殿下が文楽座へ御来臨遊ばされて「千本桜の道行」を御台覧になったという光栄に浴したことである。その前年には仏国答礼使ジョッフル元帥の一行が観覧した。
 しかし、その翌年の大正十三年は、再び文楽座に不幸が訪れた年であった。
 三月十八日、紋下の越路太夫が死ぬ。その通夜があけると、三味線紋下の名庭弦阿弥(六世広助)が死んだという報らせだ。二日のうちに太夫、三味線の二人の紋下を失って、一座は呆然とした。
 太夫の紋下には四世津太夫が五月に坐った。そして三味線紋下には野沢吉兵衛(吉弥)が坐る筈であったところ、突然六月の四日に死んだ。が、不幸はそれで済まなかった。野沢吉兵衛の葬儀場へ、弥太夫が死んだという報らせが来たのである。六月六日のことである。
 この相つづく不幸は、ただごとではないと、ひとびとは不吉な想いに濡れて蒼くなった。そして、こんどは誰の順番かと、口には出さなかったが、ひとびとは寒々とした心の底をひそかに覗いて、ひたすら神に祈った。
 おかげで、翌十四年にはさしたる不幸はなかったが、十五年にはまた目に見えぬ糸にあやつられた悪魔が、一座の頭上に現われた。四月に五世竹沢権右衛門が死に、九月に人形の三代玉蔵が死んだことなど、まだ生易しかった。
 栄三はその日を忘れることは出来ない、十一月二十九日のことである。この月は新作の「法然上人」が出て、栄三は上人と、それから紙屋治兵衛を勤めた。そして、二十八日で千秋楽になったので、一座は二十九日は広島へ巡業に旅立つことになっていた。その日の朝十一時、栄三が鰻谷の自宅でおそい朝飯を食べていると、向いの寺の人が来て、
「柳本はん、えらいこっちゃ、御霊の文楽が火事や言うてまっさ」
 と、言った。
 まさかと思ったが、しかし否定する自信はなく、どきんとして、電話を掛けに走った。
 しかし、なかなか通じない。
「何番へお掛けですか」
 交換手が問うたので、
「文楽座へ掛けてまんねん」
 と言うと、
「文楽はいま火事ですよ」
 あわてて、御霊へ駈けつけた。しかし、その時には、もう七分通りまで火が廻り、手がつけられなかった。
「ああ、えらいことになってしもた」
 という想いに足をすくわれて、栄三は暫く動くことも出来なかった。
 昼前に火は消えた。が、小屋は九分九厘まで灰になってしまっていた。その頃には、急をきいて駈けつけた一座の者が 「頭(かしら)はどないしたやろ。頭はどないしたやろ」
 と、囁いていた。頭というのは、人形の首のことである。
 するうちに、誰かが、
「衣裳は助かった。葛籠のまんま持ち出したらしい」
 と、言った。
「衣裳なんかどないでもええ。頭は……」
 持ち出せずに、焼いてしまったとわかると、ひとびとはがっかりしてうなだれた。
 人形遣いは焼跡の一隅にひとかたまりになって、おいおい泣きだした。泣きながら、栄三がひょいと見ると、あっちには太夫がひとかたまり、こっちには三味線弾きがひとかたまり、同じように泣いていた。
 その日は旅興行へ出発するので、頭と衣裳は鉄道便で送るために、それぞれ別の葛龍に収めてあった。ところが、火事だと知った小屋の者が、衣裳は金が掛っているというのであわてて衣裳の葛籠をさきに持ちだした。おかげで衣裳は助かったが、頭の葛籠は焼けてしまったのである。
 その時、小屋に居た者は文楽にとって、頭がどんなに大事なものかを知らなかったのである。その葛寵の中にある頭のいくつかが、もはや得ようと思っても得られない、作ろうと思っても作れない国宝級の名品であることを知らなかったのである。
「笹屋(ささや)」が焼けた。これは笹屋喜助という人形細工人がつくった女形の名作で、数ある人形のうちでももっとも珍重されていたものである。顔の左の方が右より少しちいさくつくられているが、それでいて舞台へ出すと、若い娘の可憐な美しさが香気のように匂う名作であった。
「源太(げんた)」の良いのも焼けた。これは初代玉造や二代玉造などが遣って来た二枚目の頭であった。その他、「鬼一」も焼け、「斧右衛門」も焼け、「東馬」も焼け、「陀羅助(だらすけ)」も焼け、「検非違使」も焼け、「孔明」も焼け、また、ツメ人形の良いのも焼けてしまった。
 ただ、「文七」「団七」「景清」「金時」「鬼若」など巡業に使わぬので葛龍に入れなかったものは、誰かが投げだしたおかげで助かった。それが、せめてもの倖せであった。
 焼けた頭はいずれも名人がつくり、名人が遣い、永年の芸道の手垢に磨かれて魂のはいった惜しいものばかりだった。ほかに太夫の床本も焼けた。舞台下駄も焼けた。
 焼跡にうなだれてしょんぼり突っ立っていたひとびとは、いつまでもそこを動かなかった。ある者は灰を掴んで、「笹屋」の可憐な美しさがこんなになってしまったのか、「源太」の水もしたたるようないじらしい男ぶりがこんなになってしまったのかとわが子やわが妻を火葬場に送る人のように、取りかえしのつかぬ想いに寒々として、冬の夜の風が白く渡りかけても、なお立ち去ろうとしなかった。
 さきには多くの名人を失い今また頭を失い、住みなれた小屋を失ったひとびとは、もうこのままで人形浄瑠璃もなくなってしまうのかと、ホロホロ泣いた。
 しかし、仕打の松竹は倖い多くの小屋を持っていた。そこで、道頓堀の弁天座で引越興行を行うことになった。
 初日は、翌昭和二年の一月二日であった。焼け出されたというので同情が寄ったのか、それとも御霊にくらべて足場が良かったのか、客の入りは御霊の時よりもはるかに良かった。
 二月興行も良かった。一座の者はほっとしたが、この興行中に古老の文三が死んだ。
 さきに死んだ玉蔵と、文三の二人はどちらが座頭とも書出しとも区別できぬいわば二人座頭の地位にあった。ところが、その二人は一年経たぬうちに死んでしまったのである。不幸は絶えていなかったのである。
 文三が死んだので、三月興行から番附の改正をすることになった。そこで、栄三と文五郎とそれから玉次郎の三人で、協議した。まず第一に誰が座頭になるかという問題である。人気は女形遣いだけに、文五郎が一番であった。おまけに栄三より三つ年長である。しかし、文五郎はあっさりと、
「わては別書出しで結構だす。玉次郎はんとの間を、ほんのすこしあけといて貰ろたら、そいでよろしおます」
 と、言った。玉次郎は書出しである。書出しとの間が余計あいている方が、位が高いのである。文五郎はしかし「ほんのすこしあけといて貰ろたら」と言ったのである。
 そこで、残る栄三が座頭に坐ることになった。古老という点ではほかに玉七と冠四がいたが、これは中軸に坐った。また、もと駒十郎の四代辰五郎は病気で永らく休んでいたので、一時番附面から去ることになった。辰五郎は大正九年文楽に迎えられた名手で、栄三も判らぬところがあると、時々教えを請うていたくらいゆえ、栄三は礼をつくして辰五郎の病床を訪れ、了解を求めると、辰五郎は、
「結構だす。わても病気が癒ったらまたどこぞへ坐らせて貰います。しかし、もう出られませんやろな」
 と、言った。果して、辰五郎はその年の六月には死んだ。
 栄三が座頭になったことについては、誰も苦情を言うものはなかった。文楽座での年功、技量からいっても、それが順序であると、新聞も書いた。人形の座頭は先代紋十郎以来、番附面では空位のままであった。それを栄三はついだのである。しかし、この時、栄三は五十六歳であった。沢の席へはじめて出動してから四十四年が経っていた。

 さすがに栄三はうれしかった。沢の席の初舞台で、お前みたいなちんぴらはあかんと危く暇を出されかけた時のことを思うと、まるで夢のような気がした。けれど、座頭となった以上一座の責任を負わねばならない、おまけに弁天座の引越し興行は、栄三が座頭となった三月からがた落ちに不入りになった。立役遣いの者が死んでいなくなったので、座頭の栄三は初役の由良之助や熊谷など、小柄の彼には無理な役も遣ってしかもそれが彼の当り芸になるほど健闘したが、小屋はさびれる一方で、三分の入りもない日すら稀らしくないようになった。栄三は座頭として、ひと一倍文楽の前途に想いを致さねばならなかった。座頭になった喜びよりも、その心配の方が大きかったのである。
 そうして、昭和二年が暮れ、三年が暮れ、四年には、もう一座が弁天座へ出たのは、三月と五月の二回だけであった。四月に天満の八千代座へとって置きの「忠臣蔵」を持って行ったが、これも大変な不入りで、一座は人形浄瑠璃の故郷である大阪を離れて、殆ど年中旅から旅へ巡業を続けねばならなかった。
 旅は悲しかった。故郷を追われた者のさびしさがひしひしと来た。おまけに、巡業では、ことに東京での場合は、演し物が三日目か五日目毎に変るので、初日にもう次の演し物の用意や稽古をしなければならなかった。太夫、三味線、人形の三業がぴったり呼吸を合わさねばならぬ人形浄瑠璃では、早替りのようにめまぐるしく演し物を変えられては、もう息をつく暇もなく、舞台での気苦労も大変だった。ことに人形遣いはただ舞台へ出るだけではなく頭(かしら)の手入れや支度、衣裳、小道具の用意まで自分の手でしなければならない。
 それでも、ひとびとは愚痴ひとつ言わず、黙々として、働いた。そして、たまに大入りになると、文楽もまだすっかり見捨てられていないと、子供のように喜んだ。同時に、故郷の大阪ではなぜ文楽は容れられぬのかと、ふとさびしい想いがするのだった。

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「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田栄三
吉田栄三[初世]よしだえいざ 1872-1945
大正−昭和前期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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