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文楽の人

織田作之助

吉田栄三

十一

 佐野屋橋畔のもとの近松座を改築して、新しい四ツ橋文楽座が落成したのは、昭和四年も押しつまった師走の二十六日であった。
 二年の間、わが家を失って転々としていた一座の者は、二十六日に開場式と聴いた時には、巡業先の東京で転げまわってよろこんだ。彼等は旅から旅へ巡業を続けている間、このまま定住の家がなくなるのではないかと何度思ったかも知れなかった。けれど、文楽を愛する者はその間しきりに松竹へ定打小屋の建築をすすめてくれていたのである。そして、松竹も放っては置かなかったわけであった。
 開場式には五回にわけて客を招待した。それ故「三番叟」を五回遣わねばならなかった。その話が栄三のところへ持ち込まれると、栄三は、
「そらあきまへん。三番叟は飛んだりはねたりとうない身体がえろおますさかい、一日に五へんも遣たらへたばってしまいま」
 と、言った。
「ま、そう言わんと、折角の開場式やさかい」
 と、しきりに頼む。そこで、
「ほんなら、文五郎はんにきいてみます」
 と、相手役の文五郎を呼ぶと、文五郎も、
「そらあきまへん」
 と、言う。
 しかし、当日、二人はやはり五回遣った。新しい住み家が出来たという喜びが、そんな無理を敢てさせたのである。栄三は五十八歳、文五郎は六十一歳であった。

 開場式が済んで、柿落し興行の初日があいたのは、あけて昭和五年の元旦であった。
 小屋見物の物見高さもあったろうか、この二年の間あれほど文楽に冷淡であった大阪の見物が連日詰めかけて補助椅子の出ぬ日はなく、この興行は到頭三十四日間打ちつづけ、摂津大掾引退興行以来の大入りであった。一座の者は二重の喜びに相好くずして、むしろそわそわしてしまった。二月、三月も大入り、そしてこの状態は七月までつづき、一座の者は正月から七月まで楽屋へ足を踏み入れない日はなかった。そして、十二月まで、到頭一月も休まず打ち通して、文楽の前途にもほのぼのと光明が見えたかと、一座の者は一年前の暗い気持がまるで嘘のようであった。
 しかし、こんな状態はいつまでも続かなかった。
 この一年間の華々しい興行中、古老の吉田冠四が七十五歳でなくなった。栄三とは彦六座以来の古いなじみで、栄三よりは十六歳も年長だったが、番附も中軸にとどまって、座頭にも書出しにもなれず、六十歳まで足を遣っていたという不遇な人であったが、その冠四のそれにも似た運命がやがて文楽座を襲うて来たのである。

 翌昭和六年の九月に満州事変が勃発し、間もなく文楽座も柄にもなく新作の「肉弾三勇士」をだしたり、「空閑少佐血桜日記」をだしたりして、たまに入りのある時もないではなかったが、昭和八年の一月の第六十四回帝国議会に「文楽座保護に関する建議案」が提出されるほど、文楽座の前途はやがて暗胆たるものになっていた。
 この建議案は可決され、文楽座は国庫から三千円の補助を仰ぐことになったので、栄三は津太夫、土佐太夫、文五郎の三人と共に上京して衆議院に礼を述べに行ったが、そのように政府が文楽座の真価を認めて補助してくれることはさすがにうれしかったものの、政府の補助を受けねばならぬほど一般が文楽座に背中を向けていることを思えば、やはり寂しかった。文楽はこのままでは亡びる、今のうちになんとかしなくてはと座の者はもちろん識者も頭を痛めたが、見物は映画や歌舞伎やそれから当時台頭していた漫才へ浅墓に走っていた。市内の女学生や中学生が団体で見学したり、外国の名士が国宝芸術だと聴かされて文楽座を訪れて人形の美に陶酔したりするたびに、一座の者は自分たちの芸道に今更のように誇りを持ったが、けれどそれらはすこしも文楽座の不況を救うに至らなかった。
 けれど、一座の者はよしんば客が来ず、自分たちが食うや飲まずの暮しをしてでも、この不況に堪えて行こうと覚悟していた。修行時代の困苦を想えば、なんでもないと思った。いや、文楽の世界では一生が修行なのである。修行と物欲とが両立しないことを、ひとびとは理屈でなしに知っていた。身を以て体験して来たのである。太夫や三味線弾きの中には素人相手の稽古で口を糊する者もいたが、人形遣いはそれも出来ず、ただ人形を遣うことを一筋の楽しみにじっと不況を堪えた。人形を稽古しようなどという素人の物好きはなく、またしようと思っても出来ないのである。
 けれど、そんなことはどうでも良かった。栄三が頭を痛めたのは、人形遣いの弟子になろうとする者もいないことであった。自分や文五郎が生きている間はまだ良い。しかし、二人が死んでしまったら、どうなるのかと思えば、弟子の問題は一日もゆるがせにすることも出来なかった。しかも、人形遣いにとっては、弟子はただ後継者としてのみ要るのではない。舞台で足を遣わせ、左を遣わすものとして要るのである。弟子はいわば人形遣いの手足なのだ。その弟子になろうとする者がいないのである。修行の厳しさにもかかわらず、給金だけでは暮しの立ちそうにない、しかもいつ亡びるかもわからない文楽の人形遣いになどなろうとする少年はいないのである。よしんばなろうと思っても、親が承知しないのである。
 けれど、栄三にまったく弟子が無かったわけではない。大正二年の六月に北ノ新地の子の栄之助というのが入門して、最初の弟子となった。が、間もなく修行のはげしさに堪えかねて、逃げだした。次に大正八年の秋、栄枝という弟子が入門したが、これも半年も辛抱できずに廃業した、九年の六月には、栄三を手引してくれた栄寿の息子の光之助が入門した。光之助はさすがに人形遣いの子だけあって倖いつづいた。十四年の六月には、また一人弟子が出来たので、二世栄之助の名前をつけた。しかし、この少年もよしてしまった。昭和二年の五月には門造の紹介で、栄三郎が入門した。これはつづいた。昭和五年の八月には十六歳の少年が見つかった。三世吉田栄之助と名づけた。このほかもと玉五郎の弟子で、玉五郎歿後栄三のところへ弟子入りした扇太郎がいて、都合四人の弟子だった。
 ところが昭和十一年の一月に栄之助がなくなった。
 栄三はこの栄之助については、随分細かい心づかいをしてやっていた。栄三はこの少年を弟子にする時、徴兵検査の時まで栄三の家に預かるという条件をつけた。そして栄之助を内弟子にして、寝起きから食事衣服万端、小遣いまで自費で賄ってやり、給金は母親に渡す五円を除いて全部芸名で貯金させた。どうせ一人前になっても人形遣いの給金は知れたものである、それに芸人はややもすると締りのない生活に流れ勝ちだから、下手すると、家も持てないことになる、そんなことでは、預けた親にも申訳ないし、本人のためにもいけないと考えた栄三は、そうやって貯金させて滞った金で、一人前になった時に家を持ち、女房に小商いをさせ、まず生活に困らぬようにして本人には人形一筋に励むことが出来るようにしてやろうと思ったのである。そして五年の間にその貯金が千三百円余りになり、本人もひそかに喜んでいたが、ちょうど約束の徴兵検査の正月、もう直き親の許へ返すのだという時になってちょっとした風邪がもとでポクリと死んでしまったのである。
 芸の筋はよく、漸く足遣いも出来るようになっていたし、また栄三にはそんな風にしてやったのはその弟子がはじめてだったし、死なれて見ると、がっかりしてしまった。ところがそれから一月経たぬうちに、栄三の左を遣っていた扇太郎が死んでしまった。歳は四十二歳で、油の乗って来た矢先きであった。器用で松竹の井上専務の目にもついており、近く名前替えをすることになっていた前途有望の人形遣いであった。
 折角丹誠してつくりあげた有望な弟子を、一年の間に二人まで死なせてしまって、栄三は手足をもぎとられたような気がした。ことに栄之助の死は、これからの弟子はこうして預らねばならないという無い智慧を絞って考えた切羽詰った試みが、もう一息というところで挫折したのも同然だったから、もう再び弟子を取る気もしないくらい、栄三を悲しませた。
 栄三はもう光之助、栄三郎の二人の弟子に頼るほかはなかった。彼は会う人毎に、
「わてが死んだあとは、あんさん光之助と栄三郎の二人を、味善(あんじょ)う頼みます」
 と、言った。
 人形遣いというものの生命が、もしかしたら自分や文五郎の代に亡びてしまうのではないかという心細い想いが、その言葉のうらにひそんでいるかのようであった。
 よしんば、自分たちの代に亡んでしまわず、紋十郎やそれから光之助や栄三郎の代までつづくとしても、そのあとをどうするか。それを想えば、いまのうちに弟子を養成して置かなくては遅いのである。もう弟子をとるのはこりごりだという栄之助を死なせたにがい経験も忘れて、栄三はまた弟子になる少年を探すのだったが、そしてまた文五郎もその点は同じだったが、もう昔と今とでは時勢がちがっていた。
 栄三は文楽座の不況に頭をなやますよりもこの後継者としての弟子の問題に頭を痛める時の方が多かった。しかし、どれだけ前途の不安はあっても、いやそれだけに栄三の芸はますます冴えて、いわば落日の最後の明りのように輝いて、ひとはもう名人と言った。

 その五月頃から栄三はまた歯が痛みだして、どうやら骨膜炎が再発したらしく、舞台を休むことが多かった。
 そして、骨膜炎がやっと癒ったと思ったら、翌十二年の四月には風邪がこじれて寝こんでしまった。
 五月になっても全快しなかった。が、その五月は、津太夫と紋下を争ったほどの、ある点では津太夫以上といわれていた名人級の土佐太夫の引退興行があった。
 また一人名人を失うのかと思えば、そぞろに寂しくて、それだけにまた何か責任感に責め立てられるようで、栄三は病気の身体を舞台へ運んだ。
 六月は、その引退興行を東京の明治座へ持って行ったので、栄三も病気上りだったが、一座と共に上京した。そして五日目毎に演し物の変る苦しい舞台を、飯を食う暇もないくらい忙しく勧めて、帰阪した。
 そして七月の四ツ橋文楽の興行は、折柄勃発した日支事変の影響もあって、おそろしいくらいの不入りであった。そこで十八日からは一座は京都の南座へ出勤した。弟子の栄之助はその翌日応召した。
 南座の興行は五日で打ちあげた。が、一座は大阪へ帰れなかった。文楽座は八月からニュース館になってしまったのだ。一座はさびしく北陸の旅へ出た。
 そして十月には大阪へ帰ったが、文楽座へ出ることは出来ず、一座は北陽演舞場を借りて興行した。不入りだった。
 つづいて、京都の弥栄会館や新町演舞場へ出たりした。正月興行も北陽演舞場で文楽座へは帰れず、一座は勘当されてわが家を追い出された子供のようなさびしさにうなだれて、
「文楽ももうしまいやな」
「いや、亡びる亡びるいわれてから、もう四十年も経ってる。今まで亡びんと来たのは、どこぞええところがあんねやろう。今にお客もそのええとこに気がついて、振り向いてくれはるわいな」
「そやろか」
 などと囁き合っていた。
 一座の者は再び四ツ橋の小屋へ戻れないものと、ひそかに諦めていた。暗い気持が毎月つづいた。
 ところが、一方四ツ橋文楽座ではニュース映画上映の興行の成績も芳しくなかった。そこで松竹では再び人形浄瑠璃を出演させることにした。昭和十三年の五月であった。十ヵ月振りに帰れたのだと、一座の者はうれし泣きにないた。

 そうして、十三年が暮れ、十四年が暮れ十五年が来て、その年もやがて暮れようとする師走の十三日、竹本錣太夫がポックリ死んだ。
 つづいて、十六年の三月の末、文楽に残された唯一の端場語りの名手である駒太夫が死んだ。
 一座の者はふっと通り魔が走ったような寒気にぞっとした。大正十三年、越路、名庭弦阿弥の二人を二日のうちに失ってしまった時のあの不気味さを想って、あわてて首を振った。
 駒太夫は四月興行には「新国村」を語ることになっていた。初日にはあと二日しかない。駒の急死に驚いた奥役はあわててその代役を新進の伊達太夫に振った。
 伊達太夫は聖天坂に住んでいる師匠の土佐太夫のところへ駈けつけ、稽古を頼んだ。
 土佐はもう引退していたが、弟子の頼みである。早速稽古をはじめた。
 「-落人のためかや今は冬枯れて、すすき尾花はなけれども」と、かつて堀江座に居た頃文楽座の紋下美声摂津大掾をもしのいだといわれたほどの美声で語られて行くのを、伊達は一生懸命に聴いていた。すると、突然土佐の手からばたりと撥が落ちた。あっと驚いて伊達が見ると、もう土佐は稽古机の上に俯伏していた。そして間もなく絶命した。

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「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田栄三
吉田栄三[初世]よしだえいざ 1872-1945
大正−昭和前期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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