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文楽の人

織田作之助

吉田栄三

十二

 私がこれまで見た文楽座の興行の中で、一番記憶に残っているのは、この昭和十六年の四月興行であった。
 なぜ記憶に残っているかというと、これほど文楽の余命について考えさせられた興行はないからである。さきには錣太夫を失いそしていまこの興行に出る筈の駒太夫を失った。盲いた顔を上向きにして、身体を二つに折って、ぼそんと見台の前に坐りながら楽々とした美声でいかにも芸に遊んでいるかのように淀みなく語っていた、あの盲老人をもう見ることは出来ないのかと思うと、さすがにさびしかったが、しかも、その代役で「新国村」を語る伊達太夫の真剣な表情のかげには、恩師土佐太夫を失ったひとの悲しみが見えているのだ。私はたまらなかった。
 そればかりではない。この時の狂言に、津、古靭、南部、それから津太夫の息子で最近中支戦線より帰還したばかりの津の子太夫改め五世浜太夫の掛け合いで「妹背山」三段目が出る筈だったが、津太夫は病んで休み、大隅が代って語っているのだ。この狂言は津の子太夫の襲名披露狂言である。父親の津太夫にしてみれば、是が非でも出演して花を飾ってやりたいところである。それを休んでいるのである。私は病気の津太夫の胸中を思うと、絢爛たる「妹背山」三段目の舞台に陶酔することも出来なかった。
 津太夫が死んだのは、土佐の死におくれること約一月の五月七日であった。文楽のことが気になりますと言いつづけて死んだのである。
 気になるのであれば、死んではならなかったのである。土佐太夫の死はもう引退後であったから、直接文楽座にはこたえなかった。が、津太夫は古い文楽の最後の人であり、紋下であった。かけがえのない人を文楽はなくしてしまったのである。残るのはもう古靭一人である。しかも、何という悪因縁であろうか、津太夫の死と日を同じゅうし、殆ど時刻も同じゅうして、古靭は長男をなくしたのである。
 いかなる悪魔に文楽は魅入られたのであろうか。私はそう呟きながら、五月の中頃、四ツ橋へ足を運んだ。津太夫の死がこうまで響くのかと思うくらい、文楽の舞台はさびしかった。けれど、たったひとつ古靭の「尼崎」だけは、津なきあとの床を一身に背負って立たねばならぬという責任感のためだろうか、それとも肉親の死の悲しみが彼の芸をにわかに円熟させたのだろうか、いつにもまして生彩のある語り口で語った。
 そして、その語り口の渋さに合わせて、口をぐっとへの字に曲げながら、黙々として淡々として操る栄三の光秀からは、異様な迫力が舞台一杯に溢れているのだった。私はこれを見ながら、この七十歳の栄三と、そして古靭と文五郎の三人が生きていて、四ツ橋に小屋がある限り、まず文楽は亡びないだろうと思った。無論その時の私は、四年後に文楽座が焼けて、人形も衣裳も失われてしまうなどとは、夢にも想像しなかったのである。

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「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田栄三
吉田栄三[初世]よしだえいざ 1872-1945
大正−昭和前期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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