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西鶴論覚書

織田作之助

 西鶴論はどこからどう始めてもよい。だが、どう西鶴を料理しようと、「貞享元禄の頃、摂津の大坂に、平山藤五といふ町人あり」という「見聞談叢」の一文を無視した西鶴諭は成り立たない。西鶴という煮ても焼いても食えない海鼠は、この「見聞談叢」の二杯酢に浸けなければ、食えないのだ。つまりは、大阪町人というアプリオリを無視した西鶴論は、考えられないのだ。しかるに、人は西鶴を論じようとしてややもすれば、大阪町人としての西鶴を忘れている。

 西鶴の法体を、単なる俳諧師としての職業的マンネリズムに由来したものと見ずに、そこに何等かの殊勝な境地を見ようとする人があるが、(例えば、田山花袋、片岡良一氏など)「近年諸国はなし」巻一の「狐四天王」や「織留」巻二の「塩うりの楽すけ」で、法体を見事に皮肉り、茶化している彼の手つきを見れば、そのようにも思えない。
 西鶴が頭をまるめたのは、何も殊勝らしく後世を願ったり、隠遁生活にはいったりするためではなかった。今時の小説家が似たり寄ったりに髪の毛を長くしているように、彼は当時の俳諧人らしく、くるくると頭をまるめてしまったのである。頭をまるめたが、「見聞談叢」にあるように、遂に「僧ともならず」じまいであったのだ。当り前の話だ。中世の暗黒時代の軒にぶら下っていた仏教思想という鰯の頭を有難がって食べるには、元禄大阪町人西鶴は、余りにも近世的な美食家であった。彼は口が肥えていた。腐った鰯の頭は口に合わなかったのだ。他力本願の仏教思想は、生きのよい元禄町人が餌に仕掛けた海老には、ひっ掛らなかった。

 子曰く三人よればなぐさみ事(西鶴五百韻)

 中世のまさに没落せんとする弱々しい武士階級のものであった儒教的倫理観もまた、元禄大阪町人西鶴の餌に掛らなかった。武家出の近松の餌にはいそいそとして、掛ったが……。ひとつには、時代の相違である。大雑把に元禄といっても、近松と西鶴とでは、西鶴の方が二十年早い。近松が手あたり次第に現象を美化して、中世儒教的倫理観の狭い垣の中から、感傷のうめきを叫びあげたのは、その時代が既に頽廃していたからである。しかるに、西鶴の生れた寛永十九年という年は、偶然にも、近世町人勃興の最も大きな原因の一つである参勤交代の制度が確立された年である。つまりは、西鶴はまさに勃興せんとする大坂町人の新興の意気と共に生き、その全盛期に死んだ作家である。いいかえれば、彼が描こうとした対象すなわち彼の見た元禄町人の生活そのものが、既に積極的な意欲に満ちた歌であった。だから、彼は近松のように、美化したり、歌ったりする必要はなかった。今更儒教的倫理観に頼らなくとも、ありのままに描くことで、既に新しい健康な倫理があったのである。それかあらぬか、近松の描いた人間は、すぐ死のうとするが、西鶴の描いた人間は、いやらしいまでにべんべんと執拗に生きようとする。

 西鶴に老荘思想の影響が多いとは、諸家の説く所であるが、果してどうか。なるほど老荘思想は当時の流行思想であった。ことに俳諧人は多かれ少かれこの思想の洗礼をうけていた。西鶴の師匠の宗因などことにそれが著しかったらしい。西鶴にもまたそれが全然なかったとはいえない。彼が「徒然草」より受けた影響については、諸家のひとしく説くところである。けれど、たとえば、「日本永代蔵」の巻一の「二代目に破る扇の風」で、「人の家に有たきは梅桜松楓、それよりは金銀米銭ぞかし」と、簡単に徒然草をもじっている手つきを見ると、存外あやしいものである。
「近代艶隠者」が西鶴の作であるかどうか、いくらか疑問は残るが、ともかく西鶴の作だとすると、これには老荘的な虚無思想が濃厚だという諸家の説は、一応考慮に入れてもよかろう。なるほど、この作品はいわゆる隠遁者の列伝だ。が、果して西鶴はそれらの隠者の生活に共鳴して、それを書いたのかどうか。「世の中をおもふに何かめづらしからず、鳥に口ばしありはねあり、鳴も飛も心に任すべし、人ながら人程替りたるものはなし」と序文にあるのを見ると、結局西鶴は彼等の存在を変った存在、珍らしい存在として、距離を置いてながめたのではなかろうか。
 「世間の広き事、国々を見めぐりてはなしの種をもとめる。熊野の奥には湯の中にひれふる魚あり。筑前の国にはひとつをさし荷ひの大蕪あり。……是をおもふに、人はばけもの世にない物はなし」(近年諸国はなし序)
 つまりは、隠者も筑前の大蕪も、西鶴にとっては珍奇な話のだしに過ぎなかったのではなかろうか。なるほど、西鶴は当時流行の老荘節を口笛めいて吹いていたが、しかし地声の唄もうたったのだ。遊里ではどんな唄をうたったか知れたものでない。もし、彼が真に隠者の生活に共鳴していたのなら、巻末の「備前の水汲」を隠者の仕官で結んだりはしなかった筈だ。なるほど、最後の章をめでたしめでたしで結ぶのは、西鶴の常套的手段であったかも知れないが、しかし、いくらそれが趣向だとしても、その期に及んで、折角の隠者に仕官させるとは、余りに皮肉だ。無論、皮肉られているのは、老荘思想であろう。

 西鶴は、人生は無常だよ、と言って山へ逃げたのではない。芭蕉のように、閑寂枯淡の生活の中へ浸り切ったのではない。よしんば人生が無常であっても、彼はその人生を逃げなかったのだ。よしんば、虚無思想の氷霜の張り詰めている人生であっても、彼はその上にどっかと胡坐くんだ尻のぬくもりで、それを融かしたのだ。氷霜は融けてやがて花が咲く。彼は町人生活の花々を、「夜までは見られぬ吉野の花」(二代男)よりも面白いと見て、その何花たるを問わず、書きまくったのだ。すべては肯定したのだ。人生百般を殆んど不見転的に受け入れたのだ。美食家ではあったが、胃袋は大きかった。仏教思想も、儒教的倫理観も老荘思想もそれに捉われなかったというだけの話、あるいは刺身のつまぐらいに思っていたところと言った方が、本当かも知れぬ。いわば、食べても食べなくても良いくらいの態度であったろう。ただつまだけでは困ったことは、むろん確かだ。つまりは、「僧ともならず、……又老荘ともみえず……」という「見聞談叢」の一文は、西鶴の思想をいみじくも要略した言葉になると思う。

 作品のなかに含まれた何々的思想を以て作家を律し、作家のなかからその思想を帰納して行くという批評の方法を猫も杓子も使いたがる。しかし、作家のなかから、その何何的思想を無理矢理にひきずり出して、それでその作家を理解し得たと思うのは、いわば多角形の辺を増すことによって、円に迫り得ると思うのと、同様だ。それが可能だと思うのは、幾何学の夢である。作家のいう円はもっと魔物だ。さまざまに歪んだ多角形の相に化けることはあっても尻尾を掴めば、まごうかたなき円である。ことに、西鶴は魔物だ。西鶴は仏教思想という三角形にも、儒教思想という四角形にも、老荘思想という五角形にもならなかった。西鶴という円のなかには、如何なる多角形もはいり得たが、しかし、如何なる多角形にもまして、両横が広かった。彼はこの世を広々と見たのだ。彼にとっては如何なる思想もそこに閉じこもるには、余りに狭すぎたのだ。彼は中世の暗黒思想の絆に掴まることなく、また中世の放った阿呆らしい思想の矢に当るまいとして、その円性を利して融通無碍に転りまわったのだ。そして、泥まみれになった西鶴は、その泥で彼の芸術をつくったのである。すぐ剥げてしまうような何々的思想のペンキは塗らなかったのだ。

 西鶴はよくモーパッサンに比較されるが、西鶴はモーパッサンよりもスタンダールに似ている。容貌からして似ている。が、似ているのは、容貌だけではない。世を欺くためにさかんに変名を使った男、野暮でもてなかった男、けれど、サロンでは、遊里では、縦横無尽の才気を振った男、そしてもてる人ジュリアン・ソレルを、世之介を、書いた男‐似ている。が、肝腎なのは、そんなことではない。アランの「スタンダール論」の第一章は「何事も信じない人」となっているが、西鶴もまた如何なる思想の虜にもならず、何事も信じなかった人だ。つまりは、この点で、この東西の一流小説家は似ているのである。
 ヴァレリーがスタンダールについて、
 「スタンダールの頁の中で、最も人を驚かすもの、立所に彼を知らしめ、人の精神を惹きつけ、或は怒らせるもの、‐それは調子である。彼は文学中で、最も個人的な調子を持っており、更にそれを衒(てら)っている。この調子は極めて顕著なもので、人をありありと現前せしめる底のものであるから、スタンダリヤンには次の二点をこれが弁護するように見える。即ち、第一、粗略、粗略であろうとする意志、文体上の正規な性質すべてに対する軽蔑、第二、様々の剽窃、夥しい剽窃文。(中略)彼は見栄えのしない他人の財物から、読まれる作品を造り出す。それは彼がそこに一種の調子を混ぜるからである」
 と、言っている文章は、そっくりそのまま西鶴にあてはまる。西鶴もまた焼き直しの名人である。しかし、この焼き直しは、西鶴にとっては、俳諧人の礼節であることは、注意すべきである。この難波俳諧雀は、死ぬまで俳諧のおどりを忘れなかった。

 町人物にあらわれた西鶴の教訓的口吻というものは、そんじょそこらの所謂教訓小説など束になって掛っても敵わぬほど堂に入っている。してみれば、町人物のもつ教訓小説としての意義は、とくに今日強調すべきものではあるが、しかし、西鶴がこうした口吻を弄した裏には、寛文五年、同八年、天和元年の奢侈(しゃし)禁令、貞享三年の婦人の衣服に対する禁令、元禄元年の衣服の奢侈禁令という社会的現象があって、教訓的口吻とは既に当時の合言葉、いまでいう標語のようなものであったばかりでなく、当時の仮名草子には西鶴が使ったのと同じ教訓的レトリックがざらに見つかるのである。つまりは、西鶴はそれらのレトリックを焼直しているのであって、西鶴の教訓的口吻をそのまま彼の本音と見ることは、早計である。まして、彼の一言一句の矛盾を捉えて、そこから彼の世界観の矛盾を得々と指摘しようとするのは、危険である。もっとも、世界観が矛盾していたからとて、それは西鶴を大にこそすれ、けっして小にするものではない。消極的な矛盾ではないのである。西鶴が恐らく最も好んだ言葉「才覚」(才覚の音は西鶴に通ずる)の内容についても、一見さまざまな矛盾がある。が、この矛盾がなければ、彼の作品は恐らく退屈至極なものとなっていたであろう。本音がどこにあるか直ぐ見分けのつくような作家は、いったいにつまらぬものだ。

 西鶴の一言一句を、そのまま彼の本音と見、西鶴は嘘を書かなかった作家として理解しようとすれば、全くひどい目に会う。
 たとえば、「本朝若風俗」巻一の冒頭に、「兎角は男世帯にして、住所を武蔵の江府に極めて、浅草のかた陰にかり地して、世の愁喜、人の治乱をもかまはず、不断は門をとぢて朝飯前に若道根元記の口談、見聞覚知の四の二の年まで諸国をたづね、一切衆道のありがたき事残らず書集め、男女のわかちを沙汰する……」
 とある文章の中に、西鶴その人を見ようとする人がある。即ち、片岡良一氏は、「見聞覚知の四の二の年まで云云」から、西鶴の浮世草子執筆を四十二歳とし、西鶴死歿の年を五十三歳と推定しようとされたし、また、真山青果氏は、「住所を武蔵の江府に極めて云々」を、西鶴江戸居住説の根拠とされた。しかし、さも自分のことらしく言っている右の一文は、俗に言えば、眉唾ものだ。小心な私小説家なら知らず、平気で剽窃し、平気で嘘をついた西鶴だ。彼はその作品の主題や舞台の関係上、わざと江戸に住んでこれを書いたように見せかけたのだ。そのくらいのことは、やりかねないのだ。いや、やりかねないどころかそれを当然の技巧として、かつ、そのように読者に一杯くわせて、興がっていたのだ。なお「見聞覚知云々」は、語呂の良さから来た「四の二の年」であろう。彼はリアリストの眼をもっていたが、書く手はリアリストのそれではなかった。写実小説理論の垣の中から彼をながめては、もはや埒があかないのである。

「上方」
昭和17年7月 139号

西鶴
井原西鶴 いはらさいかく 1642-1693
江戸時代前期の俳人、浮世草子作者 大阪生まれ。
代表作に「好色一代男」、「世間胸算用」など

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