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文楽の人

織田作之助

吉田栄三

 焔の夜が明けると、雨であった。焼跡に降る雨。しかし、その雨もなお焼跡のあちこちでブスブスと生き物の舌のように燃えくすぶっている火を、消さなかった。そして、人々ももう消そうとはしなかった……。
 人々はただもう疲れ切った顔に、虚脱した表情をしょんぼりと泛べて、あるいは焼跡に佇み、あるいはゾロゾロと歩いていた。呆然として歩いていた。ポソポソと不景気な声で何やら呟いているのは、自分たちをこんな惨めな人間にしてしまった軍部や政府への呪いであろうか。もう負けやなアといっているような声であった。
 ゾロゾロと数珠つなぎにされたように歩いて行く。歩いていることだけが生きている証拠であるように歩いて行く。力なくとぼとぼと……。東条の阿呆んだらめ、オッチョコチョイめ、あいつも死ねばよいと歩いて行く。誰も傘をさしていなかった。雨の冷たさなどには、もう無関心になっているのだろう。
 私だけが傘を持っていた。私はしかしすぐ傘を畳んでしまった。そして、それがまるで焼跡の壕の中から拾い出した唯一の品であるかのような顔をして、歩いた。焼跡見物に来ている男だと、思われたくなかった。
 郊外に住んでいるので、私は焼け出されなかった。しかし、私の心の中に住んでいる大阪、そして私自身の郷愁がその中に住んでいる大阪、私の知っている限りの大阪は焼けてしまった以上、私もまた同時に焼けてしまったのと同然だった。
 船場も焼けた。島ノ内もなくなった。心斎橋も道頓堀も、そして「夫婦善哉」の法善寺もなくなってしまった。東条の阿呆んだらめと、私も呟きながら、千日前から日本橋一丁目へ、そして盤舟橋を過ぎ、下寺町の方へ歩いて行った。
 下寺町の停留所附近。ここにも何一つ残っていなかった。そこには私が「夫婦善哉」の中で書いた蝶子のサロン蝶柳があり、「立志伝」や「わが町」で書いた佐渡島他吉-刺青(がまん)の他アやんの人力車の客待場があった筈だ。実際にあったのかどうかは問題ではない。すくなくとも私にとっては、あった筈なのだ。が、もうその名残りをしのぶ何のよすがもない。
 戦争などしなければ……と呟きながら、私は下寺町の坂を登って行った。谷町九丁目。そこから一つ東寄りの筋を右へ折れると、上汐町だ。そこに私の生れた家がある。今、七年振りにその家を見に行くのだ。が、果して、あるかどうか……。行ってみると、無論なかった。茫漠たる焼跡の一点でしかなかったのだ。私は自分自身がその一点と同じようになってしまったような気恥かしさを感じて、こそこそと立ち去ろうとした途端、
「あ、そうだ、この近所に栄三(えいざ)の生れた家があった筈だ」
 と、思い出した。
 上汐町筋の一つ東の筋の濃堂(のど)町(野堂町とも書く)で、栄三は生れたのだ。栄三とは文楽の人形使いの吉田栄三だ。本名、柳本栄次郎。明治五年東区濃堂町に生る-と私は記憶していた。
 しかし、濃堂町のどこの角を曲って何軒目か、あるいは、何屋と何屋の間の家であったかを、私はまだ調べていなかった。それさえ調べて置けば、栄三の生れた家はあるいは少年の私がその前を通るたびに立小便する癖のあった家であったかも知れず、なつかしさも増そうものだのにと、私はふと後悔したが、しかしまた思えば、よしんば調べて置いたところで、今となってみれば、同じことだ。私の少年時代の想い出も栄三との因縁も、家もろとも昨夜のうちに灰になってしまったのだ。調べて置いた家の焼跡に佇んでいたところで何になろう。
 それよりも、帰って栄三のことを今のうちに知っていることだけでも書いて置いた方がいい。私が書かねば誰も書くまい。私は雨に濡れて、再び下寺町の坂を降りて行った。
 人々はやはりゾロゾロと歩いていた。どこへ往くのか、どこへ帰るのか、ゾロゾロと歩いていた。

「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田栄三
吉田栄三[初世]よしだえいざ 1872-1945
大正−昭和前期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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