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バーナー少佐の手記

織田作之助

 バーナー少佐という武官は呆れ果てた呑んだくれであるばかりか、艦長の身にあるまじいほとほと臆病な男であったらしいが、いささか文筆を弄(ろう)する才は持っていたと見えて、「バーナー少佐の手記」という薄ッぺらな本を書いている。これは千八百六十八年彼の本国英吉利(イギリス)のロンドン書房から発売されたが、おかしいことに十七年間に八冊しか売れなかったと、その改訂版に記してある。
 私がこの本を手にしたのは、三年前の夏のことである。たぶん七月の末だったかと思うが、知人の葬式に参列するため、源聖寺坂(げんせいじさか)の上にある寺へ赴いたかえり、坂上の石畳に紙屑屋らしい男が、古本を並べて、二束三文の値で売っているのを見、モーニング姿でふと立ち寄ったところ、ぼろぼろになった薄汚い洋書が目に止った。
 値をきくと、五銭だという。古雑誌ならともかく、五銭という洋書がまたとあろうかと、買うて帰り、ぱらぱらめくっていると、十七年間に八冊しか売れなかったという序文の文句が目にとまり、これは余程面白くない本だろうと思ったので、折柄の暑さのせいでもあり、読まずにしまって置いた。
 ところが、最近ふとこの本のことを想い出し、日英米戦っている今日、英吉利士官の手記を読んで置くのも、何かの足しにはなるだろうという魂胆から、現金にこのぼろぼろの五銭の本を読んでみて、まず、十七年間に八冊しか売れなかった所以を納得した。
 私の英語学力は中学生時代には秀才の中にはいるくらいだったのに、高等学校でアイルランド語を習ったところから、怪しく混乱しだして、しかもその後六年間というもの横文字を読み書きするような経験もなかったので、最近専ら覚束なくて、だからこの「バーナー少佐の手記」も満足に読みこなすというわけにはいかなかったが、それでもしかし、この本が所謂英吉利海軍の歴史を汚す文字に満ち満ちているくらいのことは、私にも読みとれたのである。つまりは、この本は、英吉利海軍当局は無論、英吉利人たちにとっても、以ての外のいまわしい悪書なのである。さすがに売れなかったのも無理はない。早い話が、この本は英吉利艦隊の汚辱の一頁を書いているのである。
 もっともバーナー少佐といえども、何も意識して一八六三年の英吉利艦隊敗戦記を書くつもりはなかったのであろうが、結局は彼は事実の強みに負けたわけである。俗な言葉で言えば、「事実が証明している」のである。それにバーナー少佐は、不平屋の皮肉屋である。
 以下にその手記をうつしてみよう。

 わが東洋艦隊司令長官キューバー中将は、一八六三年(文久三年)六月二十日、旗艦ユーリアラス号に坐乗し、旗下のロアール号、バーサス号、アーガス号、ロケット号、ハヴォック号、レースホース号の六艦を率いて、日本の港横浜を解らんし、舳とも相かんで一路、九州島の南端鹿児島に向った。
 これはその前年の秋即ち一八六二年八月二十一日に、英吉利商人リチャードソンの一行四人が、神奈川街道生麦村で、鹿児島の大名島津公の行列を馬上のまま横切った途端、島津公の家臣に襲撃されて、リチャードソンは落命し、他の二人治療約三週間の負傷をし、ただ一人の婦人であったマダム・ボロデールは香港からわざわざ横浜まで見せびらかせに来た最新流行の乗馬用婦人帽の一部を斬取られた、という事件の武力解決のためである。
代理公使ジョン・ニイルをはじめ、ユースデン、シポールト、サトー等の日本駐剳公使館員もそれぞれ各艦に分乗し、私は当時アーガス号の艦長として、無論この行に参加した。
 わが艦隊は二十七日、その威容を鹿児島湾口に現し、更に湾内深く進入して、夕刻には鹿児島の市街を距る凡そ三里の、七ツ島附近に到着して、ここに仮泊した。
 桜島からのぼる煙をみて、鼻歌をうたっていると、島の小役人を乗せた小舟が漕ぎ寄せられて来た。
 小役人はユーリアラス号に至り、ニイル公使に、訪問の目的、軍艦の行動の予定、武力等を尋ねたらしかった。ニイルの回答は頗る簡単なものであったという。
「余等は明朝鹿児島湾に入るであろう。しかして、英国政府より薩摩政府への書状を呈するであろう」
 小役人の小舟が上陸すると、間もなく狼火があがった。
 私は本国に残した妻をしのび、ヴイスキーを痛飲した。本国との通信は一往復二ヵ月も掛るので、最近妻の手紙も来ず、その淋しさをまざらすためでもあった。
 翌朝、われわれは、七ツ島の沖を抜錨し、慎重に水深を測量しながら北航し、鹿児島の市街近く前ノ浜の前面に単縦列を布いて、投錨した。
 鹿児島は実に風光明媚である。二日酔の私の眼にも、全くその詩的美は分った。
 われわれが投錨して間もなく、薩摩政府から高官の役人四名がユーリアラス号に至り、前日と同様の質問を行った。
 ニイルは次の二ヵ条を要求して、二十四時間以内に返答しなければ、厳重なる手段をとるであろうと、言った。

 一、リチャードソンヲ殺害シ、及ビ其ノ同伴者デアッタ所ノ婦人紳士ヲ攻撃、或ハ負傷セシメ、或ハ女性ノ装美品ヲ傷ツケ、悲感カツ恐怖ノ念ヲ抱カシメタル犯罪者ヲ、英国海軍将軍一二名ノ目前二於テ、死刑二処スルコト
 二、コレラ不幸ナル英国臣民ナラビニソノ遺族ニ与ウベキ金額二万五千ポンドヲ提出スルコト

 思うに、この二万五千ポンドは、いささかとりすぎである。何故なら、われわれは既に生麦事件に関する十万ポンドの償金を、江戸政府(ばくふ)よりとっている。二重取りとはひどいと、横浜居留の米人も言っていた。因みにこの米人は、近頃われわれ英人が対日貿易に於てのさばり、ペルリ以来の老舗を奪われたことを、不快千万に思っているのであろう。
 果せるかな、薩摩政府はこの要求を拒絶した。そのいう所は-、

 一、馬上のまま大名の行列を横切るとは、まことに呆れ果てた不作法千万なる所業に御座候。大名の行列を横切る者を斬捨ては日本の国法に御座候。
 二、国禁を犯し、賠償金云々は余りと言えば余りな不法の要求に御座候。応じ兼ね申し侯。
 三、早々退去あるべく候。若しくは貴国高官、水師提督上陸して、談判あるべく候。

 と、いうような意味のものであった。
 まずは、矢でも鉄砲でも持ってこいという、日本の諺通りのものである。
 さかんに狼火(のろし)があげられ、○に十の印の旗が、市街に島にひるがえり、薩摩政府は恐らく動員を行っているらしかった。
 私はある島の要塞を望遠鏡で見て、薩摩の兵士のある者が、赤色のバンドを占めているのを発見した。
(織田註。赤色のバンドとは一体何を指したのであろうか。たぶんバーナー少佐は泥酔して、何か錯覚したのだろうと、はじめ私は思ったが、文献を調べてみて、そうでもないと分った。これは砲術長の大山弥助のことである。折柄夏であり、大山弥助は、赤褌一つの素裸に大刀をぶちこんで、あばた面を英艦に向け、これでもくらえと、逸(はや)る気持を、放屁で表現していたのである。赤色のバンドとは即ち赤褌のことだ。大山弥助はのちの大山巌であり、また東郷平八郎元帥は当時十七歳、筒袖の打裂(ぶっさき)羽織に裁上(たちあげ)袴をはき、五ツ鳶の定紋を打った半首を冠って、火縄銃を肩に初陣したという)
 文句があるなら、上陸して談判せよという薩摩政府の捨科白に、ニイル公使は蒼くなった。生麦事件の二の舞をくらってはならぬと、びくびくしたのである。
 私はニイル公使の臆病のために、その夜一献くんだ。遠き彼方の故国にいる妻を忍んで。

 翌日、迎酒を一杯やっていると、異様な小舟の近づいて来るのが、艦長室の窓から見えたので、私は周章(あわ)てて甲板へ飛び出した。
 見れば、七艘の小舟である。旗艦に向う一艘には三十一名、他の六艦に向う六艘の小舟には、まるで申し合わせたようにそれぞれ十一名ずつ乗っている。
 私はこの数学的な均斉に注目せざるを得なかった。何か計画的な行動のように思えた。それに、彼等九十七名は全く見馴れない不気味な服装をしているのだ。
 われわれは不安に思いながら、しかし、彼等が何者であるかを、賭けることにした。
 「僕は苦力に一ポンド賭ける」
 と、私は支那で見た経験から推して、言うと、ヒュース中尉は、
 「僕は物売りに賭けよう。横浜であのような物売りを見たことがある」
 と言った。
 「いや、僕は侍に一ポンド。目付きが鋭いからね」
と、ミークス少尉が言った。結局、この賭けは、ミークス少尉が勝った。
 わがアーガス号の舷側に近付いて来た十一名は、西瓜を頭上にかかげて、一斉に何か呶鳴った。その号令のような掛声に、われわれは驚いて、銃剣を突き出した。
 (織田註。この一行は生麦事件の直接の責任者奈良原喜左衛門、有村武次等以下の勇猛の士で、それぞれ押売りに変装し、西瓜を売りに来たと見せかけて、敵艦に斬込み、敵艦一つ残らず分捕りしてしまおうという決死奇襲隊であった。薩英戦争はじまると見て、城下の町民は殆んど避難してしまっていたので、手本にする押売りは一人もいず、それぞれ思い思いの扮装を凝らしていたのである。彼等が呶鳴った号令とは、「西瓜買わんか。美味か西瓜でごわすぞ」というのであった)
 われわれが銃剣を突きだしても、彼等は異様な号令を中止しなかった。
 私は拳銃を擬して、
 「去れ! 去れ!」
 と、言った。
 すると、彼等のうちの一人がいきなり縄梯子を甲板へ振りかけて、よじ登ろうとした。われわれはその縄梯子を打ち払い、その男を突き落した。水しぶきが上った。
 他の十人は抜刀した。
「あ、侍だ。ミークス少尉の勝ちだ」
 咄嗟に私は思った。
 彼等は舷側に足を掛け、手を掛けた。われわれはますます銃剣を突き出した。
 彼等はじっと腕組みして、われわれをにらんでいたが、やがて諦めて、引き揚げて行った。他の六艘も同様であった。
 思うに彼等は西瓜を売りに来たと見せかけて、奇襲せんと企んだのであろう。実にロマンチックな勇敢な計画である。
 彼等の大胆さは、われわれの心胆を寒からしめた。私は一杯くんで、元気をつけた。

 その夜、晴雨計が異常に下降したかと思うと突然台風が来た。
 われわれは桜島の風下に退いた。暁近く、北方の沖に三隻の汽船がもやっているのを見たクーパー長官は、賠償金の担保として、これらの武装しない汽船の拿捕をわれわれに命じた。そして、二分金一分銀をはじめ、米、絹、陣笠、鏡、徳利にいたるまで一物を残さず、その積込品を掠奪せよと言った。
 掠奪と三隻の拿捕船の曳行作業が終ると、すっかり夜が明けた。
 日曜日だった。
 土曜から日曜にかけて、風雨(あらし)中のそんな困難な作業をやらされたので、水兵たちは随分こぼしていた。
 私もこの苦情に同情した。クーパー長官は、
 「いつ何時開戦となるかも知れぬから、全員緊張しろ」
 と、言っていたが、私はまさか海防不備の薩摩が旧式の武器をもって、戦いをいどんで来るとは思わなかったし、それに土曜日は致方ないとしても、日曜日ぐらいはのんびりしないと損だと思ったので、風雨中にもかかわらず、大型短艇に乗って、旗艦に艦長ジョスリング大佐を訪問し、大いにカード・ゲームを戦わした。
 不運なジョスリング大佐は、大負けに負けて、私に三ポンドの借金を申込んだ。私はこれを諒とし、船酔いしているニイルから、
 「貴方は目下酒は禁物の状態だ」
 と、言って、ヴイスキーの一瓶をまきあげて、旗艦を辞し、再び大型短艇に乗って、ラッパのみしながら、自艦に帰ろうとした。
 その時である。突如、島の要塞から砲声が轟いた。
 途端に、日曜日は吹き飛んだ。薩摩の兵士たちは忽必烈汗の計画を挫折せしめた、台風という日本の同盟者を利用すべき機会は今だと思ったのであろう。
 白状するが、私は狼狽した。そして、事実描写の正確を期するために、敢て言えば、自艦へ帰る危険をさけて、最寄りの旗艦を再び訪問し、戦闘に参加した。
 われわれの戦闘準備は二時間も掛った。旗艦には江戸政府(ばくふ)より獲た莫大な賠償金を、こともあろうに、弾薬庫の前に格納していたからである。
 やがて、われわれは旗艦を先頭に単縦陣を作って、北方に進航しながら、各要塞に向って砲撃を開始したが、バーサス号は陸岸近く碇泊し、要塞が松林にかくれていたのを気づかなかったので、猛烈な砲撃を浴びせられて、錨を抜く間もなく倉皇として錨鎖を切断して、辛うじて艦隊を追うた。
 この錨はあとで和平成るに及んで、返却してもらったが、錨を敵の手に渡したとは陸軍に於ける軍旗を奪われたのと、同じ恥辱で、バーサス号艦長は醜態極まる。因みにバーサス艦長の妻は美人である。
 われわれはこの戦いではじめてアームストロング砲を使ったが、激浪のため照準定まらず、苦心した。それでも、しかし敵の砲台はわれわれの撃ち出す破裂弾のために大いに破壊された。
 が、敵はロマンチックな勇敢さから砲身を軽舸(けいか)に乗せて、砲弾の嵐を侵してわれわれに近づき、砲身もろとも舷腹に砲弾をぶち込むという、前代未聞の乱暴な作戦を行った。
 戦闘を開始して三時間後、不幸なジョスリング艦長は戦死した。副長ウイルモットの生命も無に帰した。各艦の死傷者六十余人に及んだ。思いなしか、ジョスリング大佐はカード・ゲーム中も元気がなかったようである。
 戦闘六時間にして、その日は一旦休戦し、翌日再び戦ったが、各艦の損害大きく、クーパーは遂に鹿児島湾を引き揚げることを、命じた。
 横浜へ帰って間もなく、米人発行の外字新聞は薩摩の死傷者僅か二十一名、しかるに……と書いていた。われわれは散々な体たらくの戦闘を持ったというのだ。
 私はくさって、痛飲した。

「大阪パック」
昭和17年4月 37巻4号

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