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大阪・大阪

織田作之助

 ついぞこれまで大阪の悪口をいったことはなく、それどころか、東京の新聞や雑誌に大阪のことを書くときは、随分あれこれと思案して、ときには古い大阪まで持ち出して、褒め言葉ばかり、これもみな大阪を愛しているためではあったが、しかし、いま大阪の新聞の、ことに大阪の人ばかりが読む大阪版に、書こうとする段になると、つい気がゆるんだのか、まっさきに頭にうかぶのは、大阪の悪口である。とはなんとしたことか。
 たとえば、二三日前、四ツ橋畔の文楽座の前を通りかかると、人形芝居はかかっていず、代りに名画週間の看板が出ていた。やれやれ今年もまたかと、私は汗を拭いた。毎年夏になると、文楽は巡業に出る。旅から旅へ、七十の老体である文五郎や栄三が真夏の巡業を続け、ほとんど三日目ごとに出し物をかえ、練習の暇もなく、何貫目もある人形を片腕に支えながら、汗ずくになって操っているさまを想うと、涼しさに四ッ橋を四つ渡って来る風も、もはやぴたりと止るような想いがする。
 せめて夏の間だけでも住み馴れた大阪にいたいと、この人たちも思うだろうが、しかし毎年文楽座は夏枯れで、とても興行にはならず、やむなく巡業に出なければならぬのである。いうならば、恐らく日本最高の芸術であり、そして大阪人のみが真にこれを理解することの出来る、この郷土芸術がかく夏の追放に甘んじなければならぬのは、つまりは大阪人の文楽に対する冷淡さゆえではなかろうか。私はそう思う。東京では文楽が行けば、いつも満員だということだ。

 かつて西鶴、近松をうみ、いまなお文楽をもっている大阪である。けっして謂うところの芸術不毛の地であろうはずがない。いや、大阪のもっている恵まれた伝統こそ、巨大な芸術をうむにふさわしいと、いえばいえるのである。たとえば、そのふとぶとしさ、鋭敏かつ逞しい感覚、創造性!
 しかもその大阪が、われわれに残された唯一の芸術である文楽を、かくも冷淡に扱っているのは、なんとしたことか。やはり、大阪は芸術の育ちにくい土地なのであろうか。淋しい気がする。
 たとえば、大阪にはたった一つの強力な文化雑誌もない。いま、地方文化ということが喧しくいわれていて、威勢のよいことではあるが、いくらわいわいいってみたところで、一つの文化雑誌もない状態で、なにをいってみたところではじまらぬ。論理の辻褄を合わせるだけでは、まるで金庫の鍵の番号を合わせるようなもので、金庫が空っぽでは、なんにもならぬではないか。
 そこで、もしわれわれが、百の議論よりも一の実行だと、たとえば大阪における文化雑誌の発行をわれわれ自身の手で企てたとしたら、果して府や市の当局がこれを許可するだろうか。疑わしい。
 そのような、‐いまはもうはっきりといおう、-芸術に無理解な土地に定住して、不便を忍びながら小説を書いているのは、しかしやはり、なんといっても大阪が好きで、心身ともに大阪を離れがたく思うからである。

 何故大阪が好きなのか。大阪が離れがたいのか。つまりは、大阪は私の故郷であるからだ。そこで生れ、育った土地であるからだ。これ以外の強力な理由はない。
 たとえば、大阪という土地は……などと改めて、いろいろ大阪の良さについていってみる。(また、随分それをやって来た)しかし、私が大阪の良さと思うのは、あるいは蓼食う虫も好きずき、あばたもえくぼであったかも知れぬ。大阪だけの良さと思っているつもりでも、あるいはよその土地にもあることかも知れない。生国魂神社の舞台から見下した大阪の町々の風景、中之島、渡辺橋附近の夕方の川岸の風景などあげてみたところで、京都には、東京には、もっと良い風景があるかも知れない。あるだろう。してみると、特にそれらを愛するのは、それが私の故郷の風景であるためではなかろうか。
 それにまた、いくら大阪の善悪についてことごとく論じてみたところで、近松の浄瑠璃の文句にあるように「なにが善やらあくびやら」と、私はつい白々しい想いにとらわれてしまうのである。ここらが、私の大阪人であるゆえんだろうか。
 しかし、それにも拘らず、たった一つ、声を大にして私が、いいたいのは、大阪弁の良さである。これだけはもう疑いもせぬ、一歩も譲らぬ大阪の良さである。しかも、その大阪弁を、ここ二、三年まえまでは、私は使おうとしなかった。使うのを恥じていた。想えばばかばかしいことだった。

 むろん子供のころは、これよりほかに使いようのない、つまり、大阪弁を使っていた。いまよりももっと上手に、楽々と使っていた。ところが、中学校へはいり、だんだん生意気になって高等学校の試験準備に中之島の図書館へ通い出すころには、アクセントはどうにもならぬが、せめて語尾だけでもと、大阪訛から脱けだすことに、苦心した。丁度今から一昔、十年ばかり前だった。
 当時、中之島図書館の横の方で、しきりに地下鉄の工事をやっており、ボーリングの音が耳をたたきわるように聞えて来て、勉強もなにも出来なかったことを覚えているが、しかし首尾よく京都の三高に入学できて、ここで五年(普通は三年)その間に変な学生言葉を覚え、あちこちで二年、東京で三年、その間東京弁を覚えることに随分阿呆らしい苦心をし、そして再び大阪へ帰ってみると、十年の間に大阪はすっかり変っていた。
 地下鉄はナンバまで通じ、従って御堂筋が綺麗になっていた。ところが、私も変っていた。一調子外れた東京弁ぐらいは使えるようになっていて、二言目には、君、東京じゃね……。しかし、使いながら、つくづく考えてみると、どうもほかの人の使っている言葉、すなわち私の毛嫌いしていた大阪弁の方が、はるかによいように思われたのだ。ざまあ見ろ。
 地下鉄が天王寺まで通ずるころには、私も再び大阪弁を使いだした。そして今日に及んでいる。もう一生変ることもあるまい。

 語り来て、はっと思えば、私はまだ三十歳にもなっておらぬ。満で数えると二十七歳、生れもせぬ明治の大阪のことなど、知った顔で書くじゅんさいなところも、そこは大阪人だけにもっているが、しかし、実は、大阪の今昔はおろか、大阪のことなど語る資格はない。余り大阪を知らぬのである。
 たとえば、心斎橋の七不思議の一つ、すなわち、黄昏どきになると、現在もなお梯子を担いだ人が橋の上に来て、ガス燈に灯を点じ、あたりを昔ながらの蒼白い光のなかへ、大阪の郷愁のなかへ沈めてしまう、という話も、じつは九州から大阪へ来ている人からのまた聞きだ。知らなかったのは、むろん私だけではあるまい。大阪の人でも知らない人が随分多いだろう。
 また西鶴の墓が上本町四丁目の誓願寺にあることを知っている人は、この大阪に何人いるだろうか。いや、当の寺の人だって、幸田露伴博士が発見するまでは、墓碑のありかを知らなかったのだ。丁度、石浜純太郎先生の「富永仲集」が創元選書で出るまで、われわれがこの大阪のうんだ偉大な学者を知らなかったように。
 しかしこの時局下に西鶴如き好色物作家などどうでもよいじゃないかと、人はいうだろう。私はそれに答えたい。そういう人は西鶴を読んだことのない人だ。読めばたとえば、世界平和実現という日本の壮図が達成されて、文学オリンピックというようなものが行われる暁、この大阪から、いや、東亜共栄圏から出すべき選手の三人のなかに、この西鶴ははいるべきだと必ず諒解するであろう。

「朝日新聞 大阪版」
昭和16年8月8日〜13日

文五郎
吉田文五郎[四世]よしだぶんごろう 1869-1962
大正−昭和期の文楽人形遣い 大阪生まれ。
栄三
吉田栄三[初世]よしだえいざ 1872-1945
大正−昭和前期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

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