サイト内検索

大阪論

織田作之助

 文楽の吉田栄三と吉田文五郎の二人が、どちらも大阪の町なかで生れた人であるということを、私自身の眼ではっきりとたしかめたのは、じつは大変うかつな話になるわけだがついこの間のことである。
 ことしの二月に、この二人のひとが、舞台生活六十年を表彰されて、朝日文化賞を貰った時の新聞に、その略歴が出ていた、-それを読んで、私ははじめてこの人達が大阪の生れであることを知ったのである。
 それまでは、この人達、-すくなくとも、二人のうちのどちらかは(とくに吉田栄三の方は)、どこか、たとえば、淡路だとか、郡山だとか、綾部だとか、そんな風な土地で生れて、幼い頃に大阪へ出て来て、人形修業の門にはいり、そのまま文楽の人、つまりいえば、「大阪の人」になってしまったのではないかという風に、私は漠然と考えていたのである。
 さればといって、私は文楽に関する知識をまるで持ち合あせていないわけではない。たとえば、芝居や活動写真やその他の興行物や催し物を、めったに見ないくせに、文楽座だけは、殆んど毎月欠かさず見ている。なにかの都合で、見損ったりすると、その月は妙に大きな損失をしたような気がして、月末から月初めにかけて、そわそわと落ちつかないくらいである。また、文楽に関する書物も、入手できる限り、購入して、どんな忙しい時でも、必ずその日のうちに眼を通して、なお再三繰りかえし読むことも、けっして珍らしくはない。平常購おうとしない種類の月刊雑誌、たとえば、照れくさくてとても平気で開いてみることも出来ぬ婦人雑誌などでも、たまに文楽に関する文章や写真が載っていたりすると、非常に情熱的に購入し、読んだあとも丁寧に保存して置く。週刊雑誌など、めったに購う気にならず、購ってもべつに保存して置くほどのこともあるまいと、タキツケ代りにさせているが、しかし、もしそれに文楽に関する記事がたとえ一頁でも載っているとしたら、もう金輪際タキツケにはさせない。紙幣のように大切にしている。一種のマニアである。文楽のほかに、私をこのようにマニアにするものは、ちょっと見当らない。因みに、私には文楽座の三味線弾きで親しくしているひとが二人もあり、また、床の間にも十年一日の如く、文楽の松王の頭(かしら)の版画をかけてあり、本箱の上の額縁にはいっているのも、お園の頭の安っぽい版画だ。
 といったわけで、私は、自慢するわけではないが、どちらかといえば、年の割りには、文楽通の方であるかも知れない。といって悪ければ、文楽ファンであろう。ひと一倍己惚の強い方だから、文楽を愛好する点では、人後に落ちない積りである。文楽について何か書けと命令された時でも、「いや、僕は文楽のことは知りませんから……」と、謙遜して断ると可愛いのだが、「〆切は何日ですか。-あ、そうですか、承知しました」なんか書けるだろうと、憎面らしく構えこんで、臆面もなく引き受けて、書いて、憚らない。とくに文楽のことをという注文でなくても、大阪のことを書けと命令されると、たいていは文楽のことに触れてしまう。阿呆の一つ覚えである。いつかも新劇の、文学座が大阪へ来た時、その宣伝を頼まれたが、二枚ばかしの短い文章の中で、大半は文楽のことを書いて、かんじんの文学座のことはお留守にした。おまけに、書いたことは書いたが、その文学座が文楽座と誤植(と思うのだが、あるいは私の書き間違いだったかも知れない)されていた。なんのことはない、文学座を宣伝すると見せかけて、文楽の宣伝をしてたのだ。
 しかも、その私が、ついこの間まで、栄三、文五郎の二人の出生地をはっきりと知らなかったとは、なんとしたことであろう。うかつというより、むしろ滑稽である。
 そんなに文楽の本を読み漁ったのだから、どこかでそのことが眼に触れぬ筈がないのである。たしかに、私もこの人達が大阪の生れであることを、しばしば読んだ筈である。ところが、それがまるで記憶に残っておらない。ころっと忘れてしまったのだ。
 不注意だとか忘れっぽいとか、言ってしまえば判りが早いが、けれど、ひとつには、どうもこの人達が大阪生れでないらしいと、勝手に極めこんでしまったのは、この人達が大阪の人であることが、私には余り「おあつらえむき」であり過ぎるからでもあった。
 「おあつらえむき」で困るわけではない。どころか、そうあって欲しいのだ。げんに、新聞でそのことを確かめた時も、私はさもありなんと呟き、ひそかに快哉を叫んだくらいである。ありようは、この人達に大阪生れであって欲しいと思うその心が、しらずしらずに、その反対を信じこませてしまったのだ。ということになるのである。私の文楽ぐるいと、大阪びいきの二つが、「栄三・文五郎はどちらも大阪の人である」という一事で、簡単に結びついてしまうことが、なにかあんまり話が巧すぎるように、思われたのだ。このあたり、些か謙遜の美徳。慾ばりすぎまいと、照れていたともいえようか。
 それというのがたとえば、先年なくなった津太夫、このひとが大阪の人ではないのだ。栄三はかつて「あてや文五郎はんみたいな阿呆はもう出まへん」といったそうであるが、それに輪をかけた阿呆が、津太夫だった。芸馬鹿であり、無慾であり、単純であり、朴訥であり、お人善しであり、好好爺であり、阿呆が神に通ずるいちばんの近道であるという意味での、阿呆であった。よく「土佐は賢こすぎる、古靭は学者すぎる、津は愚かすぎる」といわれていたが、たしかにこの三人を較べてみると、津太夫こそいちばん「大阪人」であった。いや、私は、この人こそ大阪の生れであってほしかった。ところが、なんと津太夫は、九州福岡の生れなのだ。津太夫だけではない、他の二人もまた大阪の人ではない。土佐が高知、津、土佐なきあともうこのひと唯一人の古靭太夫が、意外にも東京の生れである。
 してみれば、栄三・文五郎の二人にしても、だいぶ怪しくなって来るぞと、私はうろたえたのである。この二人が大阪の生れだなどと、うかつに思うわけにはいくまいと、あっさり諦めてしまったのである。で、「大阪に生る」などという文章を、どこかで読んでも、あるいは書き間違いかも知れないと、簡単に読み飛ばしていたのかも知れない。
 ところが、大阪の生れだったのだ。二人仲良く大阪の真ん中で生れているのである。と知って、さもありなんとは呟いたものの、さすがに意外かつうれしかった。
 しかし、思えば、べつに大阪の生れでなくても構わぬのだ。なるほど純粋な大阪の血をもっていてくれた方が、良いに越したことはないけれど、しかし、よしんば大阪生れでなくても、この人達がすくなくとも「大阪の人」であることは、もう否定できない。というのは、文楽には大阪の生れでない人が随分多くいるだろうけれども、しかし、どのひとりとして、「大阪の人」でない人はいない。文楽というところは、そこへはいった人を、すっかり「大阪」の色に染め上げてしまうところなのだ。
 たとえば、九州福岡の人である津太夫は、誰がなんといっても、私には見事な大阪人である。この人は、いや、この人だけじゃない、すべての文楽の人が異口同音に言う。
「あこだけは、世の中を諦めてしまわな、居られんとこだす」
 何故、世の中を諦めてしまわねば、文楽に辛抱して居られないのか。津太夫は、入門を願いに来たものがあると、きまって、こういうことを言ったそうである。
「文楽で修業しよ思たら、銭のことは忘れて貰わないかん。文楽イはいって、飯を食おういうような料簡を起して貰たら、どんならん。文楽では、飯が食べられんのや。ここは、道場やさかい、銭とは縁がない。文楽いうとこは、なんば居っても、暮しの楽にならんとこや。わてみたいな一人前の太夫でも、やっぱし同じこっちゃ。年中貧乏してる。太夫でも三味線弾きでも人形遣いでも、みな同じこっちゃ。で、おまはんも給金や飯食うことは考えんでもええ、餓死してもこの道で苦労したい言うのんやったら、やってみなはれ」
 なるほど、これでは世の中-すくなくとも物質慾だけは、あっさりと諦めてしまわねば、とてものことに辛抱して居れぬところだ。
 ことに人形遣いがいちばんひどく物質から見離されている。太夫や三味線弾きなら、素浄るり会に出たり、出稽古や自宅での稽古をしたりして、内職を稼ぐことも出来ようが、人形遣いにはそれが出来ない。それでも、昔は寄席へ出て人形を遣ったりすることも出来たが、間もなく寄席で人形を見せることもなくなって、収入といえば、もう文楽で貰う給金のほかにはない。しかも、それがお話にならぬくらい少いのである。三年間無給で辛抱した挙句、やっと番附にのるようになって貰う給金が、一興行で二十銭である。一日二銭にもならないのだ。これは、太夫、三味線弾きも同様である。
 文楽の古老で、昭和五年に七十五歳で死んだ吉田冠四という人形遣いが、昭和四年に故小山内薫や和田英作や三宅周太郎の諸氏が組織した文楽の擁護会から、表彰と慰藉の意味で金一封を貰った。開いてみると、五十円はいっていた。すくないと呆れただろうなどとは、文楽を知らぬものの考えである。すくないどころか、その時冠四は、
「わてはこの歳になりまっけど、ひと様からこんな沢山(ぎょうさん)頂いたことはこれが初めてだす」
 と言って喜んだということである。推して知るべきだ。
 もっとも、この人など、二十一の歳から五十年人形遣いをしながら、ついぞパッとした人気も出ず、一生下積みで終ったいわば不遇の人であるから、あるいは例外かも知れないとひとは思うだろうが、しかし、たとえば、当代随一の女形使いで、人気も恐らく文楽でいちばんといわれるくらい他所目には華かな吉田文五郎にしても、物質的に恵まれぬという点では、冠四と五十歩百歩ではあるまいか、げんに、文五郎自身の口から、それに似た言葉がしばしば語られているのである。
「わては十五の歳に、松島の文楽イはいりましたのやが、その時分は、朝の五時から大序の幕があきます。それで、わてはまだ夜なかの三時に起きて、提灯もってうちを出ました。雪が降ってる時でも、乗物がおまへんさかい、松島まで浜づたいに暗い道を歩いて行きました。
 小屋へつくと、火イを起さんなりまへん。今みたいに、燐寸をスッとすれまへんわ。火打石でカチカチ火付けてやります。今は紙に火イつけて燃やすいうことをしますけど、その時分は、あんた、そんなことをしたら危うてどんならん。牛の油と糠でこさえたローソクがおます。それに火イつけて、その上へさして堅炭を入れて、土瓶をかけて、師匠の来るのん待つのが、六時だす。
 幕があきますと、人形遣いか小使いかどっちや判らんくらいこき使われます。人形の見得がきまる都度に、ツケを打たんなりまへん。鯨ローソク-その時分は電気はおまへんなんださかい、ローソクを使うたもんです-その芯切りをせんなりまへん。飯はうちからもって来た握り飯を、立ったまま、合い間合い間に手で掴んで食べます。おちおち休んで食う暇も、おまへん。それツケを打て、へい。人形の左を手伝え、よろしおま。草履を直せ、へい。お茶や、へい。どこそこまで行て来い、へい。
 それで、あんた、給金はただです。夜は四時に閉てます。それから帰るいうわけでっけど、帰りによう俥ひきに会います。五銭やけど三銭にまけておくさかい、乗んなはれ、言うてくれます。けど、乗れまへん。乗る金がおまへん。はいるところがおまへんのや。
 仕方なしに、夜さり寄席の人形の手伝いに出ますと、十日間勤めて三十銭ほどくれました。それで、どうなりこうなり飢死せんでも済みましたが、しかし、なんぼ、これでは身体いてしまう。止めよう、こんどこそ止めてこましたろ、思たか判れしめへん。
 それでもまあ辛抱して、三年経ちますと、やっと、十五日間の給金やいうて、一厘銭二十枚つないだ棒を貰いました。ちょうど二十銭おました」
 しかし、あの無邪気な、罪のないどちらかといえば、いつまでたっても年をとらない、底抜けに明るい文五郎が、
「止めよう、こんどこそ止めてこましたろ」と決心したのは、単に生活苦だけではなかったのである。、生活苦だけなら、辛抱できたのだ。辛抱できなかったのは、修業の苦しさであった。
「わてらの修業時代は、今とちごて、そらもうあんた、体に生疵の絶え間がないくらい、きついもんでした。
 無暗矢鱈に、人の子を傷けるというのは、無茶な話や、なんぼ今と時代が違ういうても、あんまりやないか、そないに思われまっけど、人形いうもんは、一芸一代、一生かかっても覚えられるもんや、おまへん。そういうむつかしいもんでっさかい、普通の優しいやり方では、仕込むことは出来まへん。ああ遣いなはれ、こう遣いなはれいうて、手エとって、撫でたりさすったりして教たんではシンから腹にはいれしめへん。殴ったり、蹴ったり、ピシピシやっつけてから、ひとりでに合点いくように仕向けるいう仕込み方やないと、あきまへん。
 初代の吉田玉造はんは、わてのお師匠はんでしたが、そら厳しいお方だした。まだ、文楽が松島におました時分だしたが、玉造はんが『戻りかご』で浪花治郎作を遣われました。その足を、あてが遣いましたんやが、どこがいけなかったんか、初日にひどいこと足の下駄で向脛を蹴られました。けど、自分にゃ、どこがどう悪いのか、さっぱり合点がいきまへん。
 こっちは、一生けんめい、遣ってる筈やのに、なんし、眼エまわすほど、蹴り飛ばされる、なんぼなんでも腹が立ちます。それが一ぺんだけだしたら、まだ辛抱できまっけど、二日目も、三日目も、その次の日も、四日続けて蹴られ通し、血の出た上へまた血が流れるいう按配で、二重にも三重にも怪我させられて、ほんまにたまったもんやおまへん。ようし、今に見ておれ、今度蹴りやがったら、なんぼ師匠でも容赦せんぞ、こっちも蹴り飛ばして逃げてこまそ、もう、こんなとこはこりごりや思て、まあ、殺気立つ気持で、ウンと力籠めて遣いました。
 すると、思いがけんことには、よっしゃ、出来た、とこない言うて、眼で笑うてくれはりました。その時のうれしかったことは、いまだに忘れられまへん。
 後から判ったことでつけど、あれほどの名人になりますと、違たもんで、人形を支えて、ツ、ツ、ツウと舞台へ歩いて来て、キッと極まる時の勾欄の場所が、毎日一分の狂いもおまへん。物指しで測ったみたいに、キチンときまってます。それがこっちには判らんもんでっさかい、良え加減なとこできめようとします。それが気に食わんのだす。しかし、それならそれと前もって教てくれたら良えようなもんだす。ところが、前もって教て了うと、芸が生きまへん。そこで、口では言わずに、ひとりでに判らせようと、仕向けはったんだす。こういう師匠の心遣いや思いやりについて、あてには一生忘れることの出来(でけ)ん記憶がおます。
 この話をする都度に、今でもひとりでに泣けて来ます。人形の道にはいって、五十何年、いろいろな話を聞き、いろいろなことを見て釆ましたが、これほど泣かされた話はおまへん。
 それは、こうだす。玉造はんという方は、そらもうえらい稲荷さんを信心しやはりまして、庭さきに大きなお稲荷さんを祀つたはりまして、その扉の中へさして、いつも舞台で遣う狐のカシラを入れて置いて、玉藻前やとか廿四孝やとか、出し物によって狐のいる時には、いつも恭しゅう拝んでから取り出すいう風に、大切にしたはりましたが、それからもうひとつ、大切にしたはったものがおます。それは、黒塗りの大きな長い桐の箱で、チャンと床の間に祀って置いて、ようその前にうつむいて、手エ合わして、眼エつぶったはりました。
 さあ、いったい、あれはなんやろか。位牌やろか。位牌なら、仏壇にちゃんと祀つてある筈やが、けったいやな、一ぺん見てこまそ思て、留守の問にこっそり開けて見ましたら、出て来たのは、べったり血のついた人形の片足だした。附け根のところを綿に包んだアりました。が、その綿にもべったり血の痕がおまして、それもよっぽど日数が経ってるらしゅう黒うなっとります。見るなり、ぞっと寒気がしました。そこで、なんでこんなけったいなもん、親のかたみかなんぞのように、大切にしもたはりまんねんと、ききますと、玉造はんはこないに言いはりました。
 -見てしもたとありゃ、仕様がないさかいいうけど、これはわいにとっては、忘れよう思ても忘れられん記念の品や、わいがまだお前みたいに足を遣てた時分のこっちゃが、吉田金四という師匠が、阿波十郎兵衛を遣うた。その時師匠は、わいの足の遣い振りみて、いつになったら覚えやがるねや、このどんけつ言うて、十郎兵衛の人形の片足で、わいの頭を叩き割って、血まみれになった、それがその時の人形の足や。
 記念に納めて置け言われたさかい、こないして蔵うてるねやが、わいは未だにその時のことが忘れられん。思い出し、思い出しては、いつでもわれとわが心を鞭うってるのや。わいが今日こないして兎も角人形遣いになれたのも、あの時師匠に頭を割られたため、言うたら、この人形の片足のお蔭や。
 その時の折檻が、どれだけ芸のはげみになったか一口で言えんくらいや。心に緩みが出来た時、芸がふやけて来た時、わいはいつもその足を押し頂いて泣いて来たもんや。泣きながら励まして来た。師匠が歿くなる時、わいも傍に呼ばれたが、いよいよ息引き取るいう際に、わいは師匠の枕元へ寄って、-どうぞ、左のお手をわてに頂かしとくなはれ、どうぞこの立派な腕を、あの世へ持って行かんと、わてに残しとくなはれ、と泣きながら師匠の左の手を押し頂いて頼んだが、ほんまにわいがこない成れたのも、みな師匠のお蔭や。この人形の足はその師匠の御位牌も同然、師匠をしのぶしるしや、感謝のしるしや思て、毎日忘れんと手エ合わして拝んでたんや-。
 こない言いはりました。わてはこの話きいて、あんた、体がジーンとしました。そうして、心の中に、ああ、なるほど、名人といわれる人の心掛けは違たもんや、わいもその心にあやかって、一生けんめい芸の道に精出そ、そう思て、何べんも何べんも逃げだそ思たくらいの苦しい目を耐えて来ました。飛び抜け阿呆に生れついているわてが、名誉や金にも迷わんと、外れ道もせんと、ともかく五十何年間この道一筋に生きて来られたのも、もとを言うたら、師匠のこの教訓があったればこそだす。
 師匠もまた、よう仕込んでくれはりました。今言うたような工合の苦労をして来やはった人だけに、荒いことは、そら荒おましたが、また、優しいこともありました。一緒に街を歩いてますと、-わいに一尺離れてついて来い、一尺以上寄ってもいかん、一尺以上遠のいてもいかん、きちんと一尺離れて歩け。それが出来んと、一人前の人形遣いになれんぞ、言うて、人ごみの中スルスルすり抜けて行きはるさかい、窮屈な想いして歩かんならん。しかし、これが勉強になりました」
 いま文楽の悩みは、人形遣いの徒弟を得られないことであるとは、文五郎も栄三もひとしく口にし、嘆き、心配しているところであるが、しかし、それは望む方が無理かも知れない。栄三が「あてや文五郎はんみたいな阿呆はもう出まへん」という通り、今時の若い者で、名利に見離された、この普通の神経の者では堪えがたい難行の道に、好んではいろうとする者があろうとは、ちょっと想像できないのである。よしんばそうしようと思つても、親が承知すまい。
 しかし、ともかく昔は、こういう人達がいたのだ。つまり、世の中を諦めて文楽にはいったのだ。この人達はすべて物質の慾を振り切って、芸の道に生きて来た人達である。文楽にいる人の中で、金銭慾のはげしい者はひとりとして見当らないのである。学者すぎるといわれる古靭太夫すら、家計のことはなんにも判らないというし、賢こすぎるといわれた土佐太夫もまた、銭勘定を知らぬ人であったことは、余りに有名である。ましてや、愚かすぎるといわれた津太夫など、なおさらである。
 土佐には茶道、古靭には古書蒐集といった趣味がそれぞれにあるからまだしも、津太夫には、何の道楽も趣味もない。銭勘定はもとよう、文楽のこと以外は、なんにも知らぬのだ。煙草ものまず、酒ものまず、たまに近所の子供を連れて、「ぼんぼん、コーヒでものみまひょ」などと道頓堀へひょこひょこ歩いて行く-ただこれだけが愉みといえば愉みだった。あらゆる物慾を忘れた人なのだ。栄三、文五郎も同様であろう。
 いや、他人の人達だって、-昭和十五年の五月文楽が大入満員になった時、松竹が褒美を出した、すると、一座の人達は、土俵をつくって、津太夫や古靭を検査役にして、相撲をとった。この話をきいて、私はなにか古代の祝典を想いだし、この人達に古代人のような素朴さを感じたことがある。
 いったいに大阪は銭勘定が細かいと、いわれている。拝金思想が根強いといわれている。物質主義で、現実主義で、-ともかく抜け目なく、チャッカリしていて、金銭や物慾にかけると、浅ましいくらい執拗であるといわれている。しかし、果してどうであろうか。私は、そういう人達に、文楽の人を見よと言いたいのである。

 もっとも、大阪が現実主義、いわゆるリアリズムの土地であることは、私も否定しない。いや、かつてある雑誌から、「大阪の作家について」という随筆をもとめられた時、私は次のように書いたくらいである。
「梶井基次郎氏の抒情には、耳かきですくうほどの女女しい感傷も見当らない。たとえば『瀬山の話』の抒情の底に根強く流れている不逞不逞しいばかりの勁(つよ)さは、高見順氏の『故旧忘れ得べき』その他の作品に見られるまわりくどい女女しい抒情のし方に比べると、やはり梶井氏が大阪の人であったことを想わせるのである。
 梶井氏の神経は、鋭敏かつ繊細ではあるが、その芯のところはあくまで勁く、あれほど心身を蝕まれながら、驚くべき逞しい健康な生活意欲をもっていたのは、直木三十五氏と同様に、彼が大阪人であったことに原因していると見るのは、こじつけだろうか。すくなくとも私は、葛西善蔵、芥川龍之介、梶井基次郎、北条民雄、嘉村磯多、牧野信一、-これらのいわゆる病的といわれた一群の作家の中では、梶井氏をいちばん健康な作家であると見ている。
 川端康成の神経も繊細、鋭敏であるが、やはり大阪生れと思うせいか、執拗なまでに逞しいところがある。氏の話術は最近ぐっと枯れて来たけれど、『浅草紅団』あたりの尻取り式の話術は、泉鏡花の伝統をひいていると見るべきか、西鶴の伝統と見るべきか。その粘着性と簡潔さでは、やはり西鶴ではなかろうか。
 近松は大阪を描きながら、あまり大阪的とはいえないが、しかし、たとえば『何が善やらあくびやら』などという文句のあるところを見ると、彼も大阪の空気は呼吸していた。そうして、川端氏の作品の底にもこれが流れていると、私は思う。単にえげつないというだけが、大阪の味ではなく、たとえば執拗に人生の手を握ったあげく、『阿呆らしい』と離してしまうのも、大阪であり、そして川端氏の文章の中に『阿呆らしい』という言葉の多いことも、私は何やら納得するのである。なお、川端氏が大阪出身の作家であるということでは、べつに私は川端氏の文学と、文楽との関係を他日深く考えてみたいと思っている。
 西鶴の話術を連俳式であるとすれば、宇野浩二氏の、殊に初期の話術は連歌式である。いずれも自由奔放なリズムをもった、連想の尻を追うて行く方法だが、西鶴は天馬のようにせっかちに追い、宇野氏は春日のごとく遅遅として語るのだ。いずれも大阪式の話術である。
 西鶴は晩年大いに枯れたが、宇野氏の後期もまた西鶴がその初期の作物から町人物へ移ったように枯れて行った。が、どちらも、芭蕉のようには、全く枯れ切ってしまわずに、あくまで小説家としての酒落気と俗気と浮世への関心を残している点、やはり大阪の作家ではあるまいか。因みに、宇野氏の作品で、作者も作品もこれことごとく大阪なりという感を抱かせるのは、『楽世家等(らくせいから)』を頂点とすると私は思っているが、しかし、『器用貧乏』を経て、最近の『水すまし』(文芸四月号)に至ると、宇野氏の芸がいよいよ栄三式に渋く枯れて来たことが、うなずかれるのである。
 武田麟太郎氏が『銀座八丁』で描いた以上に、当時の東京を描き得た作家はひとりもいなかったという事情は、まことに興味が深い。大阪が東京に氾濫したのである。大阪人武田麟太郎の逞しい胃袋が東京を呑みこんで、見事に消化したのである。ここに武田氏のあくまで大阪的な逞しさがある。このひとの不死身振りは、大阪の性格なのだ。武田氏は、宇野、川端、梶井の三氏よりも、いや、現代作家中もっとも大阪的な動きをもつ作家である。しかも、このひとの聡明さは、西鶴のそれに何か似ている。鏡花は『西鶴は幽霊を計算ずくで扱うから、いやだ』と言ったそうであるが、武田氏の『伝説』以後の作品にあらわれる幽霊もまた、聡明な頭脳で緻密に計算されたものである。
 武田氏の聡明さは、たとえば氏の言葉が常に文壇に問題を提出していながら、それが他の威勢の良い文壇の問題提出者に比べて、非常に芸が細かく、一見大雑把に見えて、その実、作品同様きめの細かい、まるみを帯びたものであることによっても、判るのである。奔放だが、がさつでなく、自己の芸術を計算しながら、しかも計算のあとを見せない。文楽をうんだ大阪に、乱雑な芸術は生れないともいうべきだろう。
 私は、武田氏の描いた大阪に、大正のにおいを感じているが、もし、武田氏の大阪を大正的だとすれば、藤沢桓夫氏の描いた大阪は昭和的である。藤沢氏は昭和の大阪を描いた最初の作家ともいえるが、しかし、それが昭和であるだけに、もはや大阪の伝統的な匂いや勁さは薄れている。もっとも、近作『新雪』の傍型的人物には、大阪的な人物が生かされていた。しかし、それにもまして、この作品を大阪的といい得るのはこの作品の構成、話術によるのではなかろうか。毎日一つのエピソードを、落ちをつけて紹介しながら、筋をはこんだという話術に、私は、この小説の場面がすべて大阪であるという以上に、ある種の大阪的なものを感じた。
 長谷川幸延、宇井無愁、大庭さち子の諸氏も大阪を描いているが、しかし、大阪を描くということと、大阪的であるということとは自ら別である。私はこれらの諸氏の大阪を描いた作品に、大阪的材料を素材にしている点を見ることはあっても、そこに大阪的なものを、感じたことは、かつてない。
 それというのも、いったいに通俗小説はその本質上大阪的であり得ないのだ。何故なら、大衆はリアリズムを嫌う。だから、通俗作家の名誉とは、つねにリアリスト失格に甘んずることにあるのだが、しかし、幸か不幸か、大阪的とはリアリズムを離れてあり得ないからである」

 大阪の言葉に「ややこしい」という変梃(へんてこ)な言葉があるが、これほど大阪の性格を、つまり大阪的なものを、一語で表現し得た言葉は、ちょっとほかに見当らぬだろう。しかし、ではこの「ややこしい」という言葉は、どんな意味かときかれると、ちょっと説明に困る。いわば「ややこしい」という言葉ほど「ややこしい」言葉はないのである。いいかえれば、大阪の性格ほど説明しにくいものはないのである。
 しかし、いずれにしても、大阪の性格の底に脈打っている勁い、逞しい、激しいリズムは、誰も否定し得ないだろう。そうして、この勁さ、逞しさ、激しさは、現世への関心の露骨さ、現実へ迫るねばり強さから来ていることも、否めまい。「えげつない」という言葉が、ここから出て来る。
 大阪の文学もまたそうで、大阪人がもっている芸の細かさ、話術の巧妙さ、執拗に迫りながら、さっと身をかわす、何ものにも捉われまいとする精神の強さなどによって、露骨さがぼんやりぼかされてはいるものの、底にあるものは、やはりこの現世への関心の強靭なリズムであろうと、私は思う。
 そして、このことは、単に文学のみならず、たとえば演劇にしても、落語にしてもそれがうなずかれるのである。中村鴈治郎の芝居や、曽我廼家五郎や、家庭劇の芝居や、文楽の太夫の声や太の三味線の音を見聴きしたものは、必ずやそのボテッとした厚みのある、奥行の深い、ネチネチした味の中に、大阪のもつ逞しい現実謳歌のリズムを感ずることと思うが、ことにそれは落語においてもっとも顕著なのではなかろうか。
 いったいに、日本の小説には語り物の伝統が相当根強く尾をひいていて、話術の優れた小説には、多少とも講談、浄瑠璃や落語の話術が、極めて巧みにそれと気がつかないくらいにこっそりと取り入れられているとは、私の持論であるが、ことに、地の文と会話のつながりや、描写と説明との融合や、大胆な省略法、転換法や、人名や地名の選び方などまだまだ日本の小説は、これらのものから学ぶところが多い。落語の落ちなども、短編小説の技巧に取り入れるのは、あるいは低俗にすぎるかも知れないが、しかし、その落し方の呼吸の鮮さなど、日本の短篇小説の中でこれに匹敵するものは無いと、私はつねづね思い、ひそかに研究しているのだが、東西の落語をくらべて見ると、身びいきかも知れないけれど、やはり西に軍配を挙げたい。
 これは何も、東京落語の名作の中に大阪落語からの移植が随分多い(たとえば、小さんの十八番の「らくだ」なども、大阪から移植されたものだ)とか大阪の落語にはお囃子との巧妙な融合があるとか、大阪の落語には東京落語の単なる「小意気」に対する「あぶら気」や「渋さ」や「厚み」があるとかを、指して言うのではなく、大阪落語が東京のそれに優っている一番の理由は、情景描写や性格描写の巧みさではなかろうかと、私は思っている。ここにもまた大阪のもつ現実凝視の鋭い眼があるといえよう。
「落語の研究」の著者渡辺均氏によれば、三木助は大阪落語を二千番記憶しているということであり、してみると、かくれた傑作も相当あろうと思われるが、しかし、私の寡聞したところでは、「鴻池の犬」がもっとも大阪らしい傑作ではなかろうか。こういう話だ。

 雪が降って寒い晩、順慶町の亀屋という足袋屋の店先へ、三疋の小犬が捨てられた。
 一疋は荷車に轢かれて若死にし、一疋の斑は不良の徒に混って今宮あたりを放浪し、残りの黒の一疋は亀屋の丁稚の長吉に拾われた。
 ある日、今橋の鴻池の番頭が、その黒犬を貰いに来た。
「うちの坊ぼんのお守りに致しまっさかい、けっして粗末には致しません」
という通り、鴻池へ貰われてからは、緞子の蒲団の上で鯛の浜焼を食べるという贅沢な身分になり、おまけに今橋界隈では、鴻池の黒というので、犬仲間の顔利きになった。犬仲間の夫婦喧嘩の仲裁もすれば、もめごとの裁きもつける。
 何所から来たのか、汚い、毛の抜けた痩せ犬がひょろひょろとその界隈へやって来て、町中の犬どもに非道い目に遭わされようとしているのを、
「やい、弱い者いじめすな」
と、黒は鴻池へ連れ戻った。
「一体、お前どこの生れや?」
「わて、南船場の順慶町だす」
「順慶町のどこや?」
「亀屋ちゅう足袋屋のかどに三疋捨てられてあったその一疋だす」
「そんなら、お前斑やないか」
「へえ、もうこないに毛が抜けてまっさかい、毛色も何も判りまへんけど、斑だす」
「わい。その三疋のうちの黒や」
「えッそんなら、兄さん……」
 …………
「こい、こい、こい」
「そーら、坊ぼんが呼んだはる。今日はたしか厚焼をくれる日やさかい、もろて来たる。待っとれよ」
 黒は暫らくすると、うまそうな厚焼をくわえて戻って来る。
「さあ、たべ」
 斑がむさぼり食うて、暫らくすると、
「こい、こい、こい」
「こんどは鰻やぞ。最前から匂いがしとった」
 斑はまた鰻の蒲焼にありつける。
 夜になった、二疋とも少し腹が空いて来た。
「今晩は鯛の浜焼らしいぞ」
 と、言っていると、
「こい、こい、こい」
「待ってえよ。今もろて来たるさかい」
 飛んで行った黒が、今度は何もくわえずにすごすご帰って来た。
「兄さん、浜焼はどないしてん?」
「今の、こい、こい、こいは、坊ぼんに小便(しし)やってはったんや」

 この落語の作者の腕は、三疋の犬のそれぞれの運命に人生流転を描いたところにあるとも言えようが、しかし、それよりも、鴻池という実在の富豪の名を、持って来たところに、この作者の並々ならぬ用意の深さがうかがわれるのである。
 大阪人にとっては、鴻池とは一個人の実在の名でありながら、実は羨望と好奇心の象徴である。鴻池の日常生活はどうだろうかという想像-それを犬の生活をもってくすぐったところに、大阪人の物慾への露骨な関心を利用したこの作者の憎いばかりの腕がうかがわれるではないか。かつて、このはなしを東京で、鴻池を岩崎とかえて演って成功しなかったのも、東京人の岩崎への羨望や好奇心と大阪人の鴻池に対するそれとがまるでちがっており、そしてまた東京人の物慾への関心が大阪ほど露骨でなく、さらに東京人の負け惜しみ根性がこういうくすぐりに反撥する-という点などが、その原因の主なるものではないだろうか。鴻池という名をきいただけで、とたんに大阪人の心にうかぶある種の気持、これが判らなければ、このはなしはなんのことか判らぬのである。言いかえれば、このはなしは、大阪人だけが考えだすことが出来、大阪人だけが理解することが出来るはなしであり、大阪人が徹底した現世主義をもっていなければ、この落語も生れなかったのである。
 浄瑠璃の有名な文句に「金ゆえ大事な忠兵衛さん」というのがあり、いわばこれは梅川のロマンチシズムをうたった名句なのだが、ロマンチシズムをうたうのにも、わざわざ、金をもって来る、-つまり、何よりも金への関心から離れることが出来ないというところに、-まず金だというところに、当時の大阪人の思想が端的に表現されていると、一応は言い切ることが出来るだろう。しかし、私は、ここでも文楽の人達を想起しながら、ほんとうに大阪人は、そんなに金にいやしいかどうかと、疑ってみたいのである。
 なるほど、大阪人は金を大切にする。物というものを重んずる。いったいに大阪弁は敬語が発達していて、-これは他の方言に見られぬ驚くべきことであるが、-ことに、物に対してまで敬称を以てする。たとえば、米のことを、お米という。芋は、お芋さん、油揚げがお揚げさんなどと、まるで親しい人、いや目上の人を呼ぶような言い方をする。こういうところに、大阪人の物への観念が顕著に現われているのであるが、しかし、これほど大阪人が大切に扱っている物乃至金とは、けっして現実に手で触っている個々の物乃至何円何十銭の金のことではない。
 大阪人にとっては、物乃至金とは、象徴にまで高められた現実であり、ある種の神聖な観念であり、しかも、それは物的な偶像崇拝ではなくて、倫理的なものなのである。それ故に、大阪人にとっては、致富とは、現実に金を握る快感を目指したものではなく、致富までの倫理的な努力に重きを置いたものである。つまり、致富を以て道とし法とし、そこから町人自らの道徳が生れて来たのである。判りやすくいえば、物の倫理化、金の倫理化である。大阪に町人学者が出たのも故なきではない。
 大阪人は、道によらねば、致富に成功することが出来なかったのである。では、大阪町人の道とは何か。勤勉、節約、努力である。孔子は、われ未だ道を好むこと色を好むが如き者を見ずと言ったが、大阪人にとって、金を好むことは、道を好むことなのだ。大阪人の勤倹、努力主義は、その目標が致富にあったから、恐らく孔子を納得させることは出来なかっただろうが、しかし、もはや大阪人の倫理となってしまった勤倹努力主義が、致富への径路をとらずに、芸の極致を目指した文楽の人達の修業の中に形をかえたところを見れば、孔子だって、一概にこれを排斥できまいと、私は思う。
 言いかえれば、金の都大阪に、物慾の煩悩を捨てた文楽の人達が生れたのは、かえすがえすも大阪にとって、致富の観念が倫理化されていたからに外ならないのである。文楽の人達は、金を好むが如く、修業を好んだのだ。大阪人が金という大阪にとっての神聖な観念のために捧げた努力主義の伝統、言いかえれば、大阪人の現世主義のもっている積極的なねばり強さ、不屈不倒の精神が、金を捨て、現世を諦めた文楽の人達の中にも、根強く尾をひいているのではあるまいか、一方は、致富の努力であり一方は芸の努力であり、比較するのは如何なものかと思われるけれども、しかしその努力がいずれも倫理化されている点、ある種の共通したものが感じられるのである。
 大阪人の致富への努力は、贅沢な生活や、その金を使うたのしみのために成されるのではない。いわば、無償の努力なのである。献身なのである。文楽の人達の努力もまたそれと同じで、この人達の苦労は無償の行為なのである。名利のためにするのではないのだ。名人摂津大掾はかつて古靭が若かりし日、古靭に向って、自分は今度で「九段目」を九度語ったことになるが、今度やっと、本蔵が語られたかと思う、七十歳になってやっと本蔵のコツが判りだしたと言ったそうであるが、七十歳になっても芸の道から隠居せず、なお至難の道に精進しようとするこの努力は、無償の行為でなくてなんであろう。
 谷崎潤一郎氏は、「私の見た大阪及び大阪人」という随筆の中で、大阪の芸術家のことに触れて、「彼等は位置とか、技量とか、才能とかに関係なく、一流でも二流でも皆押し並べて利殖の道に賢い」
 と、述べて居られるが、しかし、日頃尊敬している谷崎氏の文章の中でも、とくにこの随筆は愛読措く能わざるものではあるけれども、この一節だけは、にわかに承服しがたい。谷崎氏の愛好して居られる文楽の人達が、利殖の道に賢いだろうか。
 しかし、ここではそう述べられた谷崎氏も、最近の「きのふけふ」の中では、
「これは大阪の人に聞いた話だが、或る夏の日に某百貨店で故中村鴈治郎に行き遇ったら、上布の上に、紗の羽織ででもあることか、絽の、おまけにいくらか羊羹色になった紋附を着ていた。故人の地位と職業柄から考えて、もっとリュウとした、五分の隙もない身なりをしていて然るべきところであるけれども、そう云う俳優らしくもない隙だらけな服装が却ってその人を上品に、好ましく、奥床しく見せ、なるほど鴈治郎ぐらいになれば何を着たって似合うんだなと、感心したと云う」
 と、賛意をもって述べて居られる。
 これをもって直ちに前言の訂正と見ることは、勿論早計であろうが、しかし、谷崎氏は、必ずや、これを書かれながら、あれほど華かな存在であり、一世の人気を集めた名優である鴈治郎が、銭勘定を知らなかった人であることは、想い出されていたことであろうと、私は憶測する。
 いったいに、東京の俳優は、一流はもちろんのこと、名題程度の者でも今はともかく、昔は相当豪奢な生活をしていたものだが、それに比べると、大阪の役者の生活は、驚くほど地味で、ことに鴈治郎など、文楽の人達とちがって、物質上の我儘を許される身分でありながら、一生別荘をもたず、避暑に行かず、自家用の自動車をもたず、質素な生活をしていたことは、誰しも知っているところである。物慾が無かったのだ。そして、銭勘定を知らず、生涯芸に生きた点、文楽の人達と同様である。そうして、これはあながちに、芸道の人達ばかりでなく、たとえば将棋の世界でも、大阪にはこれに似た人がいるのである。名を挙げれば、坂田三吉がそれだ。

 坂田三吉はかつてこういうことを語っていた。
「修業中は、女房や子供にえらい苦労を掛けました。昔は今とちごて、将棋指しは、銭がとれまへん。食うやのまずの日が、毎日だした。
 わては食べるもんが無うても、好きな将棋さしてたら、まあ、極楽でっけど、女房や子供はそうはいきまへん。女房は気の強いしっかりした女だしたが、それでもよう泣き言を言いよりました。
 -金にもならん将棋ばっかし指さんと、ちっとは働きに出とくなはれ。わてらを飢死させるつもりだっか。
 そう言われると、耳も痛うおましたが、しかし、今更将棋をやめることは、出来まへん。
 -将棋はわいの生命や。わいから将棋をとってしもたら、死んでしまう。わいには将棋のほかは、なんにもないのや、亭主が将棋指して困るのやったら、出て行ったら、どやねん? 困ることは、はじめから見えてる。そやさかい子供一人の時、今のうちに出て行け言うたやろ。
 そない言うて、叱りつけましたが、ある晩帰って見ますと、誰も居りまへん。家の中がしーんとして真暗だした。けったいやな思いましたので、お櫃の蓋を取って見たら、あんた、中は空っぽやし、鍋の中を覗いたら、水ばっかし、ジャブジャブしてますわ。
 -しもたッ。
 と、思いました。母子四人の、お腹を空かして、ひょこひょこさまようてる姿が、眼にちらついて、心配で心配でたまりまへん。と言うて、どうするわけにも行きまへんし、無事に帰って来てやと祈り祈り、独り暗がりでぼんやりしてますと、いい按配に四人がしょんぼり乞食みたいな恰好で、気が抜けたみたいな顔して帰って来ました。
 -どこイ行って来たんや?
 と、訊きますと、
 -死に場所を探してましたんや。高利貸には責め立てられるし、食うもんはなし、あんたは銭を儲けようとせんし、いっそ死んだ方がましや思て、家を出て、あっちこっちうろついてると、背中のこの子があんた、お父つぁん、お父つぁんと言うて泣いたもんやさかい、死に切れずに帰って来ましたんや。
 こない言いよります。わては、それをきいて、
 -ああ、ありがたいこっちゃ、血なりゃこそ、こんな無茶な父親でも、お父つぁん言うて呼んでくれたんか。
 と、思て、涙がこぼれましたけど、それでも将棋やめよいう気にはなれまへなんだ。
 ほんまに、その時のことを思うと、今でもぞっとします。子供たちはおかげで、現在立派に大きなってくれましたが、残念なことに、女房は十年ほど前に、死によりました。いよいよという時、女房は、もう泣き言も言わんと、
 -あんたは将棋が生命や。阿呆な将棋は間違うても指しなはんなや。
 と、言うてくれました」
 栄三の言う「阿呆」がここにもひとりいるのである。そうして、この現世主義から見た「阿呆」にとって、唯一のねがいとは、坂田の糟糠の妻が死の真際に言った「阿呆な将棋を指すな」という一事である。将棋だけは阿呆になるまい、そのほかのことは阿呆で通す-これが坂田の一生なのだ。物慾なぞ問題ではないのだ。
 坂田は、昭和十二年の二月、読売新聞の主催の対木村の将棋で、十六年振りに対局したが、その時坂田は附添い役に対局場へ連れて行った娘さんに、
「なあ、玉江、お前も、お父つぁんがこない苦しんで将棋指してるとこを傍で見るのは、苦しいやろけど、しかし、こないしてお前を連れて来たのは、わいにも考えがあってのこっちゃ、わいはお前らの父親として、何も残してやる遺産はないし、せめてお父つぁんが苦しんで(-坂田はこの将棋で一手六時間という六十九歳の老体には、殆んど堪えがたいかと思われるくらいの苦しい長考をしたのだ-)一生けんめいに将棋指してるとこを見てもろて、それをたったひとつの遺産やと思てほしいよって、連れて来たんや」
 と、言ったというが、思うに当然のことであろう。
 坂田の名文句として、世に知られているのに、
「銀が泣いてる。銀が坂田の心になって泣いてる」
 という言葉があるが、たしかに、坂田にとっては将棋の駒の銀が自分の心であった。そうして、その心の将棋の盤より外へ出ることはなかったのだ。何かむつかしい相談になると、
「そんなら、ひとつ盤に相談しときまひょ」
 と、言うそうだが、このような坂田に、物慾の煩悩があろうとは、勿論思えない。将棋の駒の字以外の字を、読み書き出来ぬ無学文盲の人であったことも、ひとの知るところであった。ただ将棋一筋の道を歩んで来たのだ。
 この木村との将棋は、坂田の棋士としての運命をかけた一生一代ともいうべき対局であり、対局場へ長女を連れて行ったのも、実はこの将棋を死んだ妻に見せるその代りという気持からでもあったくらい、坂田はこれに打ち込んでいたが、それにもかかわらず、坂田の敗戦となった。阿呆になって将棋一筋の道を歩いて来た坂田も、ついに一生一代の大事な将棋に負けたのかと思えば、同情やる方なく、坂田の芸道精進もにわかに悲劇的な陰影が濃くなったようにも感じられ、今挙げた坂田の身の上話も何か暗さが漂うようであるが、しかし、坂田自身はそういう暗さのない人なのだ。
 たとえば、その後、名人戦で土居八段と対局した時、
「さあ、むつかしなって来た。ここがむつかしいところだっせ。あんたもしかり考えなはれ」
 と、言ったその言葉の明るさは、むしろユーモラスなものがある。かつて、故大崎八段との対局で、いきなり角頭の歩を突くという奇想天外の離れ業をやってみたり、香落ちの将棋で、飛車を香車の空いた場所へいれてしまって、
「こら、飛車落ちや」
 と、言う明るさ。さきに言った木村との将棋でも、第一手に端の歩を突くという、大胆不敵な、前代未聞の、変な手を指して、棋界をあっと言わせている。棋風全体が奔放で、とぼけているのだ。暗い、陰鬱な性格の人には、こういう将棋は指せないのだ。
 世には、苦労の余り、陰鬱な人間になってしまったという例が多いが、坂田にしても、文五郎はじめ文楽の人達も、陰惨なほどの、苦労にもかかわらず、みな明るい罪のない性格をもっている。文楽のある名人は、
「号外が来た」
 というべきを、
「ボウガイが来た」
 と、言って、ひとに注意されたところ、
「なんや、一字だけの違いやないか」
 と、澄ましていたが、北陸の人や東北の人には、こういう澄まし方は出来ない。こういう仙人みたいな生き方は、出来ない。鴈治郎にしても、父親に捨てられた子供の時分、家が破産して、呉服の担ぎ行商をやったり、文楽へはいったり、ドサ廻りをしたりして、随分苦労の多かった人だが、そういう苦労があったと思えぬくらい、年中正月役者のような明るい人であった。

 こうした明るさ、こうしたとぼけた味は、しかし、一体どこから来るのだろう。物慾を捨てて芸道一筋に精進したあげく、この人達の心が邪気のない童心になってしまったかと思われるが、ひとつには、この明るさは、この人達が大阪人として元来持っているものなのではなかろうか。
 最近東京から来た客が、大阪の印象を述べて、
「大阪というところは、実に生々とした、明るい土地ですなあ」
 と、感心していたが、しかも、それが一人だけではない、相前後して来た三人が異口同音にそう言うので、すこし不思議に思ったくらいであった。
 しかし、それは不思議でもなんでもないのであろう。大阪の性格は誰が見ても、明るいのだ。そして、これは大阪人が、いかなる困難に際しても、積極的にそれを切り抜けて行けるという、逞しい自信から来ているのだ。つまり、大阪人はいかなる事態にも、適応して行けるという融通性をもっているのである。生活の工夫に富んでいるともいえよう。負けないのだ。けっして行き詰らないのだ。負け掛っても直ぐ立ち上る。そういう伝統的なねばり強さが自信となっているのだ。そこから来る明るさなのだ。
 そして、これらの大阪の特徴は、今こそ大いに時宜に適しているものであると、私は思うが、如何であろうか。いや、私はそれを信じている。確信しているのだ。東京から来た客の言葉が、それを裏書きしているではないか。

「大阪論」
随想集『大阪の顔』明光堂書店 昭和18年7月

吉田栄三
吉田栄三[初世]よしだえいざ 1872-1945
大正−昭和前期の文楽人形遣い 大阪生まれ。
吉田文五郎
吉田文五郎[四世]よしだぶんごろう 1869-1962
大正−昭和期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

Yahoo! カテゴリ掲載サイトです

旅行、観光 > 旅のノウハウ

大阪方眼図

何でも載っているのがイイ地図だろうか…

Osaka map in English

Osaka City Maps

文楽ブログパーツ

文楽鑑賞のプロモーション…

大阪のプロフィール

大阪都市情報、交通案内、3分間観光案内